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関釜百珍

このページでは、裁判のこぼれ話、原告たちの普段の顔、ホームページ制作秘話などをご紹介します。
韓国国会議員ロビー活動に参加して

2001年日本市民と連帯する平和と人権のための日本歴史ツアー」同行記

ハルモニたちに会いに行きました!記

キムチ漬けハルモニ奮闘記(今回の特集記事はここ!!)

上の奮闘記の補足というか三輪の感想

「さが・平和をつくる会」学習会の報告・感想



キムチ漬けハルモニ奮闘記   実国義範

 11月26日の口頭弁論を終え、宮島の温泉で体を癒し、紅葉でリフレッシュしていただき、27日いよいよ第二の目的地、県北三次の地へと出発した。
 三次でハルモニ達を待ち受けているものは「証言集会」と「本場のキムチ漬教室」であった。
 証言集会の前、畑でハルモニ達は白菜や大根と格闘(?)をした。時には指導者になり又、娘に変身しハシャグその姿は普段には見る事のできない一面が出ていた気がする。
 場所を『ふれあい工房』に移すと、ハルモニは韓国から持ってきた材料をテーブルに並べ説明会となる、いつの間にかにんにくの皮むきが始まる。すると突如ハルモニがキムチ漬けの下準備の提案をしてきた。
 明日の予定であったので白菜以外何もない、慌てて店や家に連絡をして塩を取り寄せ塩漬けが始まった。手順を教えてもらい白菜切りを始めるといつの間にか「口うるさいハルモニへ」と変身をし雷が落ちる。
 初歩的段階で頼りにならないと判断されたため「塩漬け」の時は一握りの塩をつかむ事も許されなかった。結局、怒られ役の一日であった三輪さんと私、明日は名誉挽回を期して床に就く。
 ハルモニ達の朝は早い、食事が終わるとその場は戦場と化した。いつのまにか司令官は柳・Cハルモニ、監督者は朴・Soハルモニとなる。私たちは命令どおりに動こうとするが、ハルモニの思いとは違うようで今日も怒られ役になってしまった。その結果キムチの本浸けの素にはついに触ることを許されず、怒られながら白菜のヘタを切るだけの作業で終わった。
 キムチを漬けながら、小言を言い、歌をうたい、そして踊りだすなど大変忙しいハルモニ達の姿からは韓国の日常生活の一部を見る事ができた。
 広島・福山・三次からも応援団が来てくださり作業のピッチも上がる、側で心配そうに見つめる姜蓮淑さんは、ハルモニの体調を気遣い、休ませようと忠告するものの、その言葉には耳もかさず、自ら楽しむようにキムチ浸けの手は動く。肉体的には疲れたであろうが精神的にはスッキリした快い疲れであったことを願うものです。
 キムチを食べるたびにハルモニの笑顔を思い出すであろう、そして苦難の人生も思い浮かべるであろう、残りの人生を幸せに過ごしてほしいとも願うであろう。一日も早く謝罪と補償を勝ち取らねば、そのために今できる事、今やらねばならない事を改めて考えてみよう。
 ハルモニありがとう!再会を楽しみにしています。お元気で!

上の奮闘記の補足というか三輪の感想。   三輪淳一

 実国さんの畑に立った柳・Cハルモニと朴・Soハルモニを、僕は初め車の中から見ていた。少し曇り空で、向こうには山が灰色に連なっている。先日は宿泊先で各支援する会の方々と遅くまで話をしていたので、眠かった。外はすごく寒いし。実国さんが鍬をもってきたら、ハルモニたちはまるで取り上げるような感じで受け取った。
 「早く貸しなさい!」みたいな感じ。そうして、まるで自分たちの庭ででもあるかのように畑の中を動き回り、鍬を畑に打ちこみ始めた。
そして、彼女たちは次々と白菜を掘り返す。実国さんがそれを車に運んでくる。さすがに手伝わないとまずいような気がしてきたので、僕も車から降りて畑に行った。風がすごく冷たい。
 それにしても、ハルモニたちの力強い動きに驚いた。「あれよあれと言う間に」どんどん白菜が積まれてゆく。まるで風のように畑の中を動きまわる印象をもった。僕は、福岡で遠慮しがちなハルモニたちにしか今まで会ったことがない。意外な光景に呆然としていたら、「ほらほら、これも運ぶんだ!」と言われて、そのまま運ぼうとしたら、「こら、ここはもう食べられないだろ!」と、外側の葉をちょっとはがして渡される。実国さんの作られる白菜は、丸々としてハリがあり、重い。実国さんも僕も車と畑をばたばたと往復した。
 その後のキムチ作りは、実国さんが書かれている通りだ。ただ、それにちょっと付け加えさせていただきたい。
 塩を振った白菜を入れる大きな瓶がないので、結局風呂桶を使うことになった。そこで、実国さんが書かれているように、朴・Soハルモニが特にはしゃいでいたように思う。その風呂場で、とうとう立ちあがって踊り出した。その踊りが、何だか「ツイスト」のようなもので、腕や腰を互い違いに左右に回しつつ、きゃあきゃあ言っていた。床が滑りやすくてちょっと心配になったが、僕も何だか嬉しくなって朴・Soハルモニの踊る様子を見ていたら、塩を振る柳・Cハルモニから、「しっかりこっちを見ないか!」と怒られた。
 実国さんも僕も何回も注意されたり怒られたりした。ただ、実国さんの方が、さらに、こき使われていた気がする。そんな様子を見て、「ハルモニにこんなに正面から怒られたりこき使われたりするのも、実国さんの人柄なんだよなあ。」と僕は妙に感心していた。

「さが・平和をつくる会」学習会の報告・感想   三輪淳一

 「さが・平和をつくる会」を立ち上げ、平和に関する市民の活動を広げていきたい。その第一回の学習会として、主題「関釜裁判控訴審報告」で学習会を企画したので、誰か参加できませんかと、佐賀にご在住の 古賀さんから、「関釜裁判を支援する会」にご連絡をいただいた。
定例会で、「誰か若い人がいきませんか。」という話になったので、私が参加させていただくことになった。
 支援する会に関わって5年も経つ。私は原告のことが大好きだし、控訴審にも毎回傍聴にいっているし、それなのに裁判のことを未だに紹介できないのは、情けないと思った。それに、自分がどれだけ裁判のことについて勉強しているか、よりはっきり知るいい機会だとも考えた。そうして、何より、原告と出会う人たちが増えてくれたら、すごく嬉しい。それに、花房恵美子さんが一緒に行ってくださるというし…。
 でも、準備していくうちに、「自分がいかに分かっているつもりであったのか。」が分かり始めた。原告の証言を聴く機会はあったが、彼女たちの被害を詳しく読んだことが、じつはあまり無い。勿論、全てを代弁できるなど到底無理な話だけども、例えば「何歳である。」「何処出身である。」ということすら知っていなかった。かなり恥ずかしい。
 とにかく、証言を読みなおして、先述のような、自分でも言える範囲の事実関係はまず押さえた。そうして、一審判決の要点や控訴審の流れなど、もう一度押さえなおした。資料としては、自分の話す内容の流れ・原告二人の被害証言(戦時中のもの)・一審判決の大事な点・控訴審の流れを集めて、表紙は今回の裁判の報告集会の写真をコピーして貼った。
 どのような年齢層の人たちが参加されるのか、会場はどんな様子なのか、全然分からない。が、「行って、見て、どう話すか考えるしかないよな。」と思っていた。ところが、会場にいって途方に暮れた。集まった方々の年齢層がばらばらだ。40歳くらいの方から、80歳くらいの方までいらっしゃる。人数は15人くらいだろうか。畳の部屋に、机を四角に配置して皆さんが座られた。勿論、年齢層や人数で、話す内容が大幅に変わることはない。しかし、正直、かなり戸惑った。いただいた佐賀新聞の切り抜きには、「講師三輪淳一」と載っているし。講師なんてとんでもない。堂々と話はするつもりだけど、「講師」とは、なんだか大仰というか、自分の気持ちから随分遠く離れた表現だ。心の地平線の彼方で、何かが「講師…講師…」とそっとささやいているような。ふと見ると、ある年配の参加者は、「講師」の顔を見てかなり正直に露骨に驚いていらっしゃるし。無理も無い話だと自分でも思う。とりあえず資料の説明をさせていただくしかないよなと、話をさせていただいた。
 関釜裁判との出会い・判決当時のこと・原告の被害・控訴審の傍聴・「若い人」といわれる世代のことなど、自分の個人的な関わりを中心にお話しさせていただいた。そうして、皆さんには真剣に聴いていただいた。恵美子さんにも散々補足やお話をしていただいた。結果として、自分ではなかなかよく話せたと思う。最後の交流というか、質疑応答も面白かった。戦争中の体験を語って下さる方・日本の司法の現状をお話してくださる方など、結構多岐に渡った。
 ただ、「事実関係」や「関釜裁判が戦後補償運動の流れの中でどのような位置にあるか。」ということを自分がもっとしっかり勉強して、人に伝えられるようになろうと思う。また、孫のような年の人間が「講師」で、祖父祖母のような年の方が「聴く人」というのは初めてで、かなり戸惑った。本当に、「どないすればよかやろかいね。」って感じ。参加者に比べて講師が年上でないといけないわけでないし、それは理屈では分かるんだけども。
 そして、今回はやはりとても自分にとって勉強になった。機会を与えてくださった佐賀の方々・真剣に聴いて下さった方々・助け舟を出してくださった恵美子さんに、心から感謝いたします。そうして、同じような機会があるなら、時間のある限り話しに行きたい。人前で話すのは、別に得意でないけども、あまり対抗も無い。先述のように、関釜裁判のことを知って、原告と出会う人が増えるなら、それが自分にとっては一番嬉しいことです。

口頭弁論感想及びこぼれ話

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