口頭弁論感想 及び こぼれ話第9回口頭弁論
こんにちは。毎回、関釜裁判ニュースの方を送っていただいてありがとうございます。同封されていました署名用紙の方に署名させてもらいましたのでお手紙を書きました。協力できる福岡の友人に会えずに自分だけの署名になりましたが、コピーをして遠方の友人にも協力してもらうためにチラシと送りましたので、そちらの方からも署名が届くと思います。
自分は、まだ20代のガキですが、今の悪い流れを少しでも止めたいので、自分にできることは協力させて欲しいので、署名用紙etc,今からも送ってください。日本全国の友人たちにも協力してもらいますので。
毎回、関〜ニュースの方は被害者の口頭弁論の所は特に泣いてしまったり体をふるわせてしまうことも少なくありません。あの方々の痛み、悲しみを忘れないためにもきちんと謝罪すべきですし、2度と繰り返さないためにもいろんな人に真実を知ってもらい、自分たちのできることは積極的に関わっていきたいと思います。大阪、東京の友人にも関〜ニュースのコピーをして送ったりしています。
高裁でいい判決が下りますように!あの方々の思いが伝わりますように!と祈っております。また日本にもこういう思いをしている若者は少ないように見えて結構います、現に自分の周りにもいますし。被害者の方々に、きちんと知り2度とくり返さないと思っている若者もいるということを伝えてもらえるとありがたいです。それでは、この辺で今日は失礼させてもらいます。
(内野 端樹 (福岡のストリートシンガー))
広島での 裁判に初めて参加しました。 李金珠さんや ヤンさんに久しぶり会って うれしかったです。
新幹線のなかで いろいろ話をきき 日本人として せないかんことが いっぱいあると 感じました。
いまのところ 小さなことしかできていませんが 連れの先生たちも 心が動いたと思っています。
歴史教科書の 問題もあることだし まずは先生たちの 意識を変えることからと思い さそってみました。ハ
これをきっかけに 仲間がふえればいいのですが。
これからも よろしくおねがいします。
参加者のみなさん おつかれさまでした。
ハ(福岡・朝倉 山方 隆)
広島、そして、日曜日とどうもありがとうございました。
広島行きは、私にとって貴重な体験となりました。新幹線の中で、話してくださったこと。絶対忘れません。
法廷の中で、ご自分の全、力ふりしぼり訴えられておられた、その震える声を忘れません。こんなにも、自分の生命をかけて闘っておられる、一人の女性がいることに私自身やはり無知であったと思いました。本や新聞でよく報道されている従軍慰安婦、強請連行、在日問題。もっともっと、叫びを聞かねばと思いました。そうしないと本当のこと、真実は見えてこないと思いました。
同じ女性として、身の切り裂かれる想いがします。強い、どうしてこんなに闘っていけるのか、自分だったら、、、声をあげること、明らかにすることすらできるだろうか。やはり、今の社会、男性優位の社会を感じます。ただ、女性自身の意識も、行動も起こしていく必要があることも必要なのだと思います。声をあげる、おかしさを、そのとき、そのとき、正していくこと、難しいことですが、そうする中から少しずつ変わっていくんだと思います。けっこう生活の中に、あるんですよね。何気ない会話の中にも。でも、そのとき、止められる自分でない自分もいる。このくらい、いいかなで、許してしまう自分。これがいけないんですよね。
女性が、女性として、自立し、声をあげていくことができる世の中にしなくちゃいけません。ハルモニたちの闘いに、私たち女性こそ、しっかり手を携えて学ばなければならないと思いました。自分にできること、子どもたちに、この闘いを、声を伝えていくこと。もっともっと真実を、声を知っていくこと。そうする中で、自分自身たくさんのことに気がついていきそうな気がします。「解放運動」ともいっぱい重なるんだと思います。
李さんに、ファックスを送ろうと思います。本当に、大切な出会いをさせてもらいました。隆さん、ありがとうございます。
隆さんや、海野先生との旅も、とても楽しかったです。
(福岡・朝倉 井上嘉代)
関釜裁判広島高裁ヘ集いて・・・
私が二度目の成人式(40歳)翌日の11月10日の暖かい日ざしの金曜日のことでした。少し寝不足でしたが、心地よい喜びと期待を持って参加しました。
福岡より原告として来日されたお二人のお話を聞きながら新幹線にて旅路を共にさせていただきました。その悲痛なまでの奥深い思いにふれ、聞き入るのが精一杯でした。
私の父は、現在85歳になります。その父は戦時中は、中国にて憲兵軍曹でした。そのことと髭をたしなむ私の顔をできるだけ不愉快にさせてはと思いつつ・・・(山方さんより日本軍人を”髭”にて思い出すげな、と聞いていましたから)
耳を傾けるお話で一番心に残ったのは、「何で、こんな目にあうのかと分からなかった。」という悔しさです。教育のなかで日本という国を信じこまされ、そこに差別がないものとして生きていかざるおえなかったということです。被差別とは、ゆわれなき差別の仕打ちであること。わけもわからないままに・・・その疑問だけが不快につのるもの・・・だからこそその根底に差別があることに気付いたときは、人間として悔しみと怒りが込み上げてくるものでしょう。その「怒り」は、(人にではなく)差別の存在に向いていくのだと感じました。部落差別の中で、たくましくしたたかに生き抜いてきた部落解放運動との接点を感じずにはいられませんでした。
広島ドーム前に行くと、チマチョゴリ姿の10人の思いのこもった魂の結集を目にすることができました。
集会、デモ、裁判傍聴,報告会に続けて参加する中で「市民運動」のネットワーキングの広がりは、地道ななかで、息の長い運動のうえに成り立つことを再確認することができました。教育にたずさわるものとして”自らが本物(本質)に出会う”ことの大切さを持ち帰りたいと思います。じかにその人に出会う・・・その場に行く・・・そのものに触れる・・・大事なことだと思います。真実を見失わないためにも・・・
追伸 ハードな行程でしたが、考えさせられることが一杯で楽しかったです。
それに広島駅での本場のお好み焼きは格別においしかったです。
(海野学 ヒゲの教員もどき)
第7回口頭弁論
今回ほど関釜裁判を支援するネットワークの強さを感じたことはありませんでした。一人で出来る事は知れているけれども、夫々が自分の持ち場で献身的に頑張る事で、全体として素晴らしいエネルギーを結集できたのではないかと思います。
本当に全国の多くの方の思いと力を凝集できた2日間だったと思います。参加した個人が夫々の場所で,夫々学び・感じた事を書いてもらいました。読んでください。参加したのにまだ書いていない人もどんどん書いてください。
(関釜裁判を支援する会(福岡) 花房恵美子)
関釜裁判控訴審で最大のクライマックスとなる第七回口頭弁論への傍聴呼びかけをVAWW−netニュースで受け取り、8月21日広島高裁に、志水紀代子さんとともに駆けつけた。控え室には既に100人以上の傍聴希望者が並んでいて、その中には関西や名古屋、関東からの顔も見いだせた。これら遠来組に福岡や広島の方が、45人分の傍聴券を優先的に譲って下さったことには、本当に感謝したい。
関釜裁判は、98年4月「慰安婦」原告に一部勝訴判決が出るなど、戦後補償裁判の中でも目覚ましい実績を挙げているが、今回控訴審で、被害者に寄り添って運動を展開してこられた韓国挺身隊対策協議会共同代表のユン・ジョンオクさんと原告本人のハルモニたちへの証人尋問が実現したこともまた、画期的なことといえるだろう。被害者自身に被害事実を語らせることで、裁判官に「慰安婦」問題の重要性を認識させたいという弁護団の周到な戦略の成果ともいえるが、それを現実のものとするための支援者の方たちの有形無形の御苦労を痛感せざるをえない。そうした支援者の方たちの思いを背後に、ユン・ジョンオクさんは、先ず第一日目、二時間あまりの休みなしの証言を遂行された。
パンソリの語りのようだとも言われるユンさんの清冽な韓国語のあとに、通訳による日本語が続くのだが、それがいかにもぎこちない。日本語も解するユンさんはもどかしそうであった。山本弁護士の後の説明によれば、裁判所の書記官が「中立性」という形式にこだわって、証言者と通訳の事前の打ち合わせを許可しなかったので、通訳は問題の本質を十分に理解できないまま訳していくため、誤訳や中途半端な説明が少なくなかったということだ。しかし、語られる事実の圧倒的な力、人間の尊厳の回復を求める強い信念は、「通訳」の問題を乗り越えて迫ってくる。
ユンさんは、アジア各地域での調査を通して明らかとなった「慰安婦」たちのすさまじい生活、悲惨な戦後を淡々と話された。そして最後に弁護士の方から、国側の主張している国民基金について質問があると、それは被害者たちに対する侮辱であると断言された。国民基金のために被害者と支援団体が分断されたこと、受け取った被害者に新たな心の苦しみを与えたことなどから見ても、それはまさに犯罪的な仕業であると強く主張された。
人間の心に届かない言葉はないはずというユンさんの熱い思いをこめた証言に、裁判長はそれなりに耳を傾けていたが、右陪席の態度の悪さは際だった。まるで聞くことを拒否するかのような公然とした居眠り。これは職務放棄ではないか。傍聴者の誰もが感じた不信感を見事に表して下さったのが、次に証言されたパク・トゥリ・ハルモニ。宣誓などの一定の形式的手続きを重々しげに強要する裁判所側に対して、鼻であしらう態度の自由奔放さ。自分の身体に刻みこまれた筆舌につくしがたい苦しみや痛み、そして歴史的痕跡を、法律的知識だけで裁こうとする司法の傲慢に対して、その存在自体で異議申し立てを行っておられるようだった。
このパク・トゥリ・ハルモニの存在感の前では、弁護士もまた司法の一部に過ぎず、質問も生の深みにとうてい届かない紋切り型のものに見えてしまう。被害事実を羅列するだけでなく、様々な状況において、ハルモニが何を感じたのか、どう思ったのかなどの心的葛藤を何とか引きずり出そうとする質問は、周到に練られたものなのであろう。だが真剣に聞く態度を見せない右陪席のような裁判官たちの前で、そうした内面に踏み込んだ質問に答えることは、あまりに過酷であり、ハルモニ自身も「何度同じことを言わねばならないのか」と不快感を示された。弁護活動の大変さは、法律の素人からは窺い知ることはできないが、予定の質問を形式的にこなすだけでなく、その都度の原告の気持、心身状況に応じた質問へと転換していくことは難しいのだろうかと、不遜ながら感じたことを記しておく。
第二日目は、二人の元「挺身隊」、一人の元「慰安婦」のハルモニたちの証言だった。戦争中日本政府が、「挺身隊」という名の下に過酷な最底辺労働に植民地の少女たちを駆り立てた問題は、「慰安婦」問題の陰に隠れがちである。だが小学校の皇民化教育の中で信頼した日本人教師の薦めによって内地の軍事企業に送りこまれ、奴隷的労働に従事させられ、それに対してほとんど代価が支払われていないという事実は、もうひとつの重大な植民地女性に対する国家犯罪を指し示している。つまり皇民化教育という、精神のレイプといえるものである。証言の中から明らかに浮かび上がる植民地主義犯罪のこうした問題は、さらに突っ込んだ質問をすることでより明確になるのではと感じたが、だがそれもまた、あまりに過酷な作業に他ならない。
第六回口頭弁論で激しい思いを吐露されたイ・スンドク・ハルモニに対して、裁判長は「お身体の具合はいかがですか」と語りかける配慮を見せた。だが今回の意見陳述は、身体の傷の深さや苦しみだけでなく、彼女の心の中のトラウマの深さ、その無念さを裁判官に知らせることに焦点が絞られた。彼女の体験した想像を絶する被害事実を戦後彼女はずっと誰にも言えなかったこと、今も連れ合いとその家族にも「恥ずかしいから言えない」こと、その心の抵抗が積み重なって彼女を苛むことを李弁護士は丹念にたどっていた。トラウマは、その苦しみを受け入れ共有しようとする人達の前で話すことで、少しずつ癒されていくというプロセスを明らかにしつつ、頑として耳を傾けない日本政府の態度こそがトラウマを強化する非人間的源泉であることを、裁判所や国側に突き付けていくという巧みな論理の運びであったように思う。
イ・スンドクハルモニは最後に「日本政府が悪かったねと言ってくれることを待っている」「跪いて私たちに謝罪すべきだ」と謝罪要求を突き付けて、国側と対峙された。弱々しい小柄なハルモニの姿が、急に大きく見えた一瞬だった。二日間に渡る長時間の口頭弁論を、ハルモニたちは闘い抜いたのだ。この後で試されるのは国側である。山本弁護士の見通しでは、結審は次回になるという。
ハルモニたち、ユン先生、ご苦労様でした。そして原告とともに闘っている弁護団、支援の会の方たちには、その粘り強い活動に対して、さらに私たちにこうした機会を与えて下さったことに対して、心からの敬意と感謝を記したいと思う。
ところで関釜裁判で代表されるような現在の法の枠内で国家を訴追し、謝罪と補償を求める裁判は、様々な国内法的限界にぶつからざるをえない。その限界を見定めつつ、新たなジェンダー正義に基づく憲章の下で、日本国家の犯罪と責任者を裁く女性国際戦犯法廷が構想されたのだが、それが抽象的・理念的なものにとどまらず、前者にとっても意味あるものへと繋げていくことが必要であろう。相互の関係を緊密なものにするために、率直かつ深められた議論を今後もしていくことが重要だと思われる。
(「女性・戦争・人権」学会 大越愛子)
李順徳さんは花房俊雄さんに押してもらって車椅子で入廷しました。淡いピンクのチマチョゴリ。襟は白く、その上のあづき色の重ね襟がとても引き立って、若く、そして愛らしく見えました。
裁判長は順徳さんの身体を気遣うように「大丈夫ですか?」と、身を乗り出す様な仕草で尋ねます。前回五日の順徳さんの証言後、私も是非、この八月の裁判を傍聴したいと思った一人で、今、久々に味わう厳粛な緊張感と共に法廷を見つめています。
弁護士が静かに語りかけました。
「順徳ハルモニ、お身体の調子はどうですか?」
「胸と背中と、おしり…が痛い…。」「頭も痛いですか?」「はい。右側がずっと痛い…。」
この後もずっと弁護士は「ハルモニ…」と、順徳さんの事を呼びかけることの意味を説明して、尋問を進めていきました。二人の間には、柔らかい空気の温もりがつながっているようでした。戦後、順徳さんがどの様に生きて来たか、それがどんなに苦しくつらいものだったか、尋問は続いていきます。
戦後、誰にも話さず、痛みと苦しみに耐え、夫との間に子供を作りたかったけれども、生めないだろうとあきらめた事、今は亡くなった親友が引き会わせてくれた李金珠さんとの出会いから、従軍慰安婦という言葉を初めて知った事や、裁判に加わるようになった事、そして時々こうして日本に来る様になり、日本人の支援者達が話を聞いてくれる事がとても嬉しいのだと。
韓国政府からもらった五〇万ウォンを、米代等に当て、夫と二人で暮らしている事。夫には被害の事を自分から話はしていないが、(私が)時々日本に来るので知っていすだろうという事、子供がいれば、自分の背中や、痛いところをさすってもらったり、水一杯でも汲んでもらったりできるので、どんなに便利で嬉しいことだろうと…。
そう云えば、一月にPTSD診断で光州に参加して時、順徳さんはずっと、痛い、痛い、と言って本当に苦しそうでした。私達は順徳さんの背中を交替でさすりながら、「なんでこんなにも苦しい目に会わされながらハルモニは日本政府に放っておかれているのだろう」と、悔しさがつき上げて来たのを思い出します。
今、あの時よりずっと元気になって、死の淵から蘇り、こうして法廷に向き合っている順徳さんの、執念の様な気迫を感じます。
尋問は、段々佳境に入ります。順徳さんの声も、始まりの時よりもずっと、はっきり聞きとれます。
「今迄、李順徳さんに、日本政府は話しかけてくれましたか?」「してません。…日本は、世話はしていません!」「日本にそういった言葉を待っているのですか?辛かったね、悪かったね、と言ってくれるのを待っているのですか?」「はい。謝罪しなければ。…悪かったと、謝罪してください!膝まづいて、私達にあやまって下さい。賠償してください。その賠償金で、私は頭を手術したい。身体中の悪い所を治したいんです!」
順徳さんが、はっきりとそう言った時、弁護士は、法廷中を高く見まわして、にっこりと微笑んで言いました。
「これで尋問を終わります。」
…全て、全て終わりました。興奮という興奮は何も無く、静かにすーっと彼が引いていく様に、終わりました。姜蓮淑さんと李金珠さんが順徳さんの方に手をかけ、さすっていました。順徳さんのほっと微笑んでいる横顔が見えました。私達は拍手を贈りました。
喉に何もひっかかっていないと言えば嘘になる、不思議な幕引きでした。
私は心の中で叫んでいました。<マイクは何のためにあるの!右側の裁判官は、何故始終居眠りをしていたの!>私は、きれいな終止符を打てないまま、この報告文を終わる事になってしまいそうです…。
いいえ。
交流会の時、順徳さんはこの上なく気持ちの良い表情で、ビールを飲み干し、最高の顔色で、アリランを歌いました。
朴頭理さんもトラジを歌いあげ、踊り、そして皆全員で一緒にアリランを歌いました。私は、これは、十一月の結審の時も、是非来なければーと、強く強く決心したのでした。
(関釜裁判を支援する会(福岡) 阿部妙子)
念願の関釜裁判をはじめて傍聴した者です。
ユンさんの証言では「29・1」(兵隊29人にたいして1人の慰安婦)という日本軍の数字からはじくと元「慰安婦」の数は10万〜20万にのぼるということに驚きました。ひとつの衛星都市の人口に匹敵します。御自分と同世代の元「慰安婦」の方々を一人一人たずねて、証言を具体的に集めていかれたユンさんの精神力にはほんとに頭が下がる思いで証言をメモさせていただきました。
傍聴交代できけなかった朴頭理さんとも本人尋問が終わって休憩にでてこられたところを同席し、ナヌムの家から同行された女性の通訳で思っておられることの一端をお聞きする事が出来ました。つらかったのは「国民は悪くない。政府が悪い」といわれた頭理さんのことばです。
私が日本の「植民地」に対する仕打ちがどんなものだったかしりはじめたのは、20代も後半。元「慰安婦」の方々の戦後の生活が、それもほんの数年前までどんなに苛酷なものであったか、証人尋問でユンさんが個人名をあげながら、静かに話される中ではじめてしったのです。しらないことがひどい差別をそのまま残す_このことを改めて胸にきざみました。
多感な青春の日々を拷問のような生活に耐え、祖国に帰ってからもそれを胸に秘めて、心の痛み、からだの痛みに耐えながら極貧の生活を強いられてきた人たちの存在の重みを私は想像できずにきた。頭理さんは「早く!早く!」と証言の中で何度も言われたとか。老齢の身で、日本まで何回もきて、ふれたくない事を皆の前で何度も証言するというのは、どんなにかつらいことでしょう。
私の母と同世代の方たちが、人間としての尊厳を奪い返すために、心から望んでおられる「国としての謝罪」と国家賠償を責任持ってしてもらいたい。歴史を前に進めるために。
「戦争だから仕方がない」とどんな残虐のことをも簡単に正当化する風潮にたいして「それは人間に対する犯罪だ」とハッキリさせ、現在そして未来に、同じことをおこさないために、はやく理性のある判決がでますように。
今、来日されたハルモニたちが、私の中でとても身近な存在に感じられます。
(下関 I・Y)
関釜裁判の原告と支援の方々に直接お目にかかるのは、98年4月の山口地裁判決以来のことでした。二日間傍聴席に身を置きながら、ハルモニたちの底知れぬ悲しみと痛みを、わたしはまだ自分の内に深く落しきれていなかったと思いました。ハルモニたちを待たせる「むごさ」に、もっと敏感でいなければと思いました。
尹貞玉先生が中国・武漢に置き去りにされた洪江林(ホンガンリム)さんを尋ねた翌日、ハルモニは故郷に帰る手続きのための写真を20枚撮りましたが、実現しないまま亡くなってしまいました。タバコだけが彼女の苦しみを忘れさせ、タバコの煙と共にハルモニの心は朝鮮に帰り、尹先生が尋ねたときもタバコを吸っていて、自分が中国にいるのか、故郷にいるのか本当にわからなかったといいます。
鄭書云(チョンソウン)ハルモニの腕には、インドネシアの「慰安所」で打たれ続けたモルヒネの注射のしこりが残っているそうです。
「ナヌムの家に沢山の人が来てくれるが、本当にほしいのは日本政府の謝罪だ」という朴頭理(パクトゥリ)ハルモニ。李順徳(イスンドク)ハルモニは、「日本はひざまずいて謝るべきだ。賠償金で痛む頭の手術をしたい」と訴えました。
元女子勤労挺身隊の原告、朴・Soハルモニと姜・Yハルモニの胸を今も塞いで息苦しくさせている闇を、早く晴らせてあげたいと思いました。姜ハルモニは「努力と苦労の代価として補償を受けたい」と訴えましたが、思いの丈を法廷という場で語るということが、彼女たちにいかに厳しい決断を迫るものなのか、最後の交流会で時折り見せた強ばった表情から推しはかることができました。
控訴審で証人と原告尋問を実現させた二日間が、これまで支援・準備してきた方たちにとって貴重な時間だと知りながら、VAWW-NETJapan(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)からのアピールと「女性国際戦犯法廷」のための話し合いの時間を割いてくれるようにお願いしました。厚かましいわたしにやさしく対応してくださり、支援する会の財布の中もきっと厳しいはずなのに、「法廷」のためのカンパの呼びかけをするように勧めてくださいました。この場をお借りして、23.622円のカンパと14.000円の法廷基金が集まりましたことを報告させていただきます。ありがとうございました。
しかし、地に足を着けた「運動」を続けている関釜裁判支援の方たちですから、ただただやさしいだけではありませんでした。「女性国際戦犯法廷」をめぐる話し合いでは、前向きの、しかも本音の叱咤激励をいただきました。わたしは今、自分がいつの間にか身に着けてしまった「理念ことば」を警戒しながら、「慰安婦」問題の真の解決とはどういうことだろうとあらためて問い直しています。
(カトリック東京教区正義と平和委員会、VAWW-NET Japan(東京) 高嶋たつ江)
傍聴 8月21日(月) 尹 貞玉さんの証人尋問
8月22日(火) 尹 貞玉さんの証人尋問・朴 Soさんの本人尋問
傍聴したのは、上記お二人の尋問です。
その他、8月21日(月)の報告集会及び交流会に参加しました。
8月21日(月) 尹 貞玉さんの証人尋問
証人尋問の内容はだいたい書きとめましたが、特に印象に残ったところを2、3あげてみます。
@94年ごろまで、元従軍「慰安婦」のハルモニたちが、ひどい生活環境にあったこと
姜(カン)さん…農具にかぶせるようなビニールの下に住んでいた。
文(ムン)さん…アパートの階段下の三角になった狭いところに住んでいた。
金(キム)さん…家とへいの間に住んでいた。
何の補償もないまま、また、心身ともに残る後遺症を誰にも言えずに、ひっそり暮らすしかなかったのかと思うと、旧日本軍や日本政府が放置してきたことの犯罪性に腹立たしくもあり、悲しくもなりました。
A洪(ホン)さんについての話
「17歳の時連れてこられ、軍医に発育不良ということで、麻酔なしにいきなり局部をメスで切られた。自尊心を傷つけられたその日のことを昨日のことのように覚えている。
ひとりずつ交代で前線に連れていかれ、1ヶ月間、ひとりで全員の兵士の相手をしなければならなかった。馬車か何かで前線まで連れていかれたが、戦火の中で、とても恐ろしかった。」
話を聞いていて思い浮かんだのが、今もアフリカの一部の地域で行われているFGM(Female Genital Mutilation)でした。状況は違うにしても、女性の性を男性の性の捌け口としかとらえていないこと、被害女性に一生直らない傷を心身ともに負わせることは共通しています。そんなことまでしていたのかと驚き、男の裁判官にそれがどれだけの傷を負わせたかわかるか?わからないだろうなとも思いました。もし、これが本人尋問だったら、上から見下ろす裁判官たちや男性ばかりの被告席にはさまれ、言葉にできただろうかと思いながら聞いていました。
Bアジア女性基金について
「解決ではなくて侮辱」
その通り。
被告席に座っている方々から質問・意見をききたいぐらいでした。
8月22日(火) 朴 Soさんの本人尋問
ろくに食べさせてもらえず、自由もなく、もちろん勉強やお花も習えない、そんな生活を少女時代に強いられて、用がなくなれば捨てられる=Aそんな体験は思い出したくないだろうと容易に想像できました。
泣きながら出廷する朴 Soさんを見て、「哀号、哀号、わたしの苦しみをなぜわかってくれないのか」という声が聞こえそうでした。
(関釜裁判を支援する会(北九州) 吉田恵美)
本裁判を傍聴し、報告集会に出た私は真実と向き合わされた極一部の日本人です。
真実は古今東西、世界の道理に通じています。小さな小さな私達ですが、真実の力を信じて世の人々に語り、知らせていきたい。やがて見事な花を咲かせ、ユン先生が言われたように、被害者の韓国人のためだけではなく、「日本人のためになる」日が来るように力を合わせたいと思います。それは日本国と日本人が再び侵略をしない、男女が真に対等平等な平和な社会を築いていくことにつながると信じます。
朴頭理さんの証言を聴きながら、心の傷に触れることを何度も証言させられる辛さが伝わってきました。裁判所は早く裁判をすすめて日本国の責任を認める判決を出してほしいと思います。そのためには更に多くの人々の関心の高まりと協力が求められます。
報告集会でユンジョンオクさんのお話を聞いて、戦後、オランダ女性を慰安婦にしたとで関係した日本軍人が死刑にされるくらいの人道への犯罪として重視していたこと。ところが、そのような性奴隷にされた朝鮮の女性が十万人を下らなかっただろうと言われ、その数の多さに改めて事態の重大さを知らされた。
報告集会で山本弁護士から報告された承認と通訳との事前打ち合わせを裁判所が規制していたことは法廷において十分な通訳が行われないことになる。法廷においては「言葉が命」であり、裁判所というところがいかに人権感覚が薄いか知らされましたが、その後どうなりましたか。
山本弁護士がお忙しい中で韓国語を勉強されていたのは知っていましたが、上級の能力を持っておられると知って、私もがんばろうと思いました。弁護士の先生方や、事務局の皆様本当にご苦労様です。
下関から4名参加でしたが、次回はもっと多くの人の参加が得られるようにしたいと思います。支援ネットワークの皆様、今後ともどうぞよろしく。
(関釜裁判を支援する会(下関) 鍬野保雄)
広島ではいろいろありがとうございました。日頃お役にもたっていません私たちまで押しかけてすっかりお世話になり恐縮しています。夏の終り、元気を頂きました!
東京でのいろいろな「慰安婦」裁判はここ2年間、下関判決によって大きな励ましを受けてきました。それで今回の口頭弁論にはせめて傍聴券交付の列に並ぶ一人となりたいとの思いで広島へ向かいました。
第1日の尹貞玉先生と朴頭理さんの証言、第2日午後姜・Yさんと李順徳さんの証言を聞くことができました。多くの被害者たちの痛みを自分の痛みとしてこの10年、文字どおり東奔西走された尹先生と、一審以来、裁判に心を傾けてこられた弁護士さんとのやりとりは、静かな中にも迫力あるものでした。
尹先生の調査の一例として、連行されたとき、余りにも幼くて大勢の兵隊の相手が出来ないと言う理由で軍医に性器をメスで切り開かれた洪江林さんのことがあげられました。洪さんは解放後も帰国できず、中国に残留したまま数年前そこで生涯を終えられました。私はたまたまこの調査報告を日本語に翻訳したのですが、山本晴太弁護士が示された自分の訳書を目にしたときは、びっくりするとともに翻訳してよかったという思いがこみあげました。この証言が訴訟の勝利にいくぶんなりと役立つとしたら、亡き洪ハルモにの恨(ハン)が晴らされるのではないかと思います。
車椅子の朴頭理さんへの証人尋問をはさんで尹先生への尋問が続き、尹先生が日本政府が国民基金のようなごまかしではなく、責任を認めて謝罪することを要求されたことに心からの同感を覚えました。
性暴力の被害者であったことを夫にも告げられなかったという朴さん、李さんの証言には心痛むものがありました。朴さんも、「死ぬ前に早く解決してほしい」とはっきり訴え、2日目の証人となった物静かな李さんも最後に「ひざまずいて謝罪してほしい」としぼりだすような発言をされました。
この法廷の一場面、一場面をもっと多くの人に見てほしいと思います。
2日間の法廷のために、準備を重ねてこられた皆さんのチームワークのよさ、支援者の層の厚さは、おそらく東京での裁判以上のものがあり、私たちも東京の地で改めて「がんばらなくては」という思いで広島を後にしました。本当にありがとうございました。
(台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会(東京) 山口明子)
残暑お見舞い!!
関釜裁判第7回口頭弁論の受け入れ、傍聴そして見送りなど精神的、肉体的疲れは極限にあるのではないかと思います。お疲れさまでした。
このたびの懇親会を含めた写真を送ります。写真を見るたび、疲れは飛びます。どのハルモニもいい顔しています。元気をもらっていることが良く判りますよ。いやはや、原告ハルモニの心的外傷はひとつひとつ薄れていることが判るような写真です。
李順徳さんー交流会の席にて、ビールコップ7分目を一気に飲み干す。
「気持ちがいいから 酒飲むよ」
ホテルにおくっていくと「頭が晴れたよ。日本にくると良くなるよ」
朴頭理さん ーいつもムッツリ。 歌をうたい、舞う。交流会でアリランの歌を合唱したのはよかったですね。気持ちが溶け合うとはこのことか。関釜裁判に関わるものとして,この一瞬がいちばん楽しく,疲れが癒される。本当にお疲れさま!
(広島連絡会 塚本勝彦)
22日裁判が終わって、原告たちはいったんホテルに戻り、ベットに横になる。
朴頭理さんはこの日一度も法廷にでないで、ホテルにいらっしゃった。(彼女の出番は前日おわっている)
6時過ぎ、疲れ果てて寝ている李金珠さんをのこしてみな近くの交流会場へ行く。すでにユン先生、横田弁護士、小野さん、安達さん、高嶋さん,大越さん、志水さん、柴崎さん、新谷さん、山口さん、和泉さんや、広島・県北のメンバーが集まっていて、交流会が始まっていた。
朴頭理さんを先頭に入っていくとすごい拍手。
頭理さんは両手を挙げて歓声に応えている。私はふきだしそうになった。
李順徳さんは皆に支えられて席に着くと、ビールをイッキ飲み。コップに5分の1ほど申し訳程度に飲むのしか見た事無かったのでビックリ。しばらく談笑の後、いきなり順徳さんは日本語で軍歌を自分で手拍子をとって歌い出し、2度ビックリ。彼女が歌うのを始めてみた。負けじと朴頭理さんもつづく。そして2人で「アリラン」を合唱。皆も合わせて大合唱。おおいに盛りあがった。
(静かに見守る姜Yonさんもやり遂げて安堵した満足感が感じられましたが、朴Soさんの物思いにふけっているような、沈んでいる様子が気になりました。)
順徳さん、頭理さんの2人の晴れやかな顔は印象的で、交流会はそれはそれは楽しいものでした。
(関釜裁判を支援する会(福岡) 花房恵美子)
8月21日午後、広島高裁の待合室にて朴・Soさんの穏やかな笑顔に引き寄せられ、抱き合って再会を喜ぶ。彼女の肩はほっそりとしながら、お元気の様子で安堵しました。
この酷暑の中を懸命に海を渡り、福岡で裁判へ向けての準備会、そして皆さん方の歓待をうけてこの広島へ遠路いらしたことへのねぎらいを、唯、その背を撫ぜる事しか出来ない私でした。
しかし今回は控訴審の最大の山場ということで、緊迫感が漂う中、入廷者のくじ引きが始まり、私の分は東京より取材にいらした方にお譲りし、廊下にて待機する。ユン貞玉さんの証言についてはニュースにて予告されていたので、心に噛みしめながら、祈りつつ時をすごしました。
やがて友人と交替して朴頭理さん本人尋問・再びユン先生の証言を聞き胸いっぱいになって弁護士会館へ。報告会にて詳細な情報を伺い、公正なる裁判へと導かれるよう願いながら帰途につきました。
それから、先日よりずーっと案じていた李順徳さんとも、車椅子ながら笑顔で再会でき本当に嬉しかったけど、両手で握手をした時「わたしの手、冷たいでしょう?」といわれた言葉が耳に残り、今でも気になっています。
そして一昨年4月27日下関地裁での判決の夜、ご一緒に菊川温泉に浸った時のことが一挙に思い出されました。
あの傷跡は日本人である私の身代わりとしてのむごい痛みであった事を思い、改めて「許してください」の言葉しかありません。
どうか日本国の公式謝罪と賠償が一刻も早く実施されますように。年を重ねられた彼女たちに心からの笑顔を取り戻すことができますようにと切に祈っています。
(関釜裁判を支援する会(下関) 萩尾楯子)
こんばんは。傍聴券を譲っていただき、ありがとうございました。午後の部でも、青柳さんに譲っていただき、入ることが出来て助かりました。
1日休んだだけでも仕事がたまってしまい、大変でした。
タクシー代がもったいなかったので、裁判所から八丁堀の電停まで歩いたのですが、暑さで、途中行き倒れになるかと思いました(;_;)
エピソードといえば・・裁判所でお昼を食べたけど、めちゃまずかったことでしょうか(笑)。
それにしても裁判って淡々と進むものなのですね。映画やドラマでは「異議あり! 今の質問は意図的に誘導しています!」なんて弁護士と検察がやりあったりなんてありますけどね。
(関釜裁判を支援する会(福岡) 井上由美)
8月19日午後1時
ソウルからの原告たち福岡空港へ到着
朴Soさん ソウルの空港でナヌムの家の朴頭理さんと10時に待ち合わせていたのに、頭理さんが到着したのが11時20分。飛行機の出発は11時30分。
気分が悪くなるほど心配した朴Soさんは、着いた時は顔色が悪かった。朴頭理さんも、渋滞に巻き込まれ2時間も車に揺られて気分が悪いようだった。
頭理さんいわく「ソウルに行くより,日本に行く方が早いじゃないか」
(関釜裁判を支援する会(福岡) 花房)
支援する会には直接の関係はないのだか、福岡のメンバーの一部は、週1回、韓国の留学生から韓国語を習っている。それを知って大喜びしたのが、朴頭理ハルモニである。
8月19日、朴頭理さんを含む原告及び付き添い数名が来福し、夕食会のようなものが開かれた。その席上で、朴頭理ハルモニが「2つ単語を覚える間に3つ忘れる」花房俊雄さんを掴まえて、「自分は日本語を10覚えている。だからお前は10以上言え」と迫ったのである。(花房俊雄さんの名誉の為に付け加えておくと、韓国語を習っているメンバーの中で一番努力して勉強しているのは俊雄さんである。その努力と言ったら、肌身離さず単語帳を持ち歩き、自転車に乗りながらも眺めているほどだ)
脂汗を流しながら、「ハルモニ、オモニ、アボジ…」と、朴頭理ハルモニに言わせれば「小学生」のような単語を絞り出す花房さん。そこに「その単語とこの単語は同じ意味だから、数に入らない」と厳しいチェックが入る。すっかり勝ち誇った表情の朴頭理ハルモニ。ここは若いメンバーが助け舟を出すべきか、と身を乗り出しかけたが、面白いので傍観者を決め込んだ。花房さん、すみません。
それにしても、この日の朴頭理ハルモニは実に楽しげだった。普段は交流会でも余り笑顔を見せない無口な朴頭理ハルモニだが、この日はげらげらと大きな声で笑い、支援する会のメンバーに韓国の歌をリクエスト。三輪直子さんが「アリラン」を歌った。
後日、花房恵美子さんから広島の交流会でもハルモニは大変にご機嫌で、しかも李順徳ハルモニまで加わって二人で大合唱をされたという。
来日前、朴頭理ハルモニは体調を悪くされて、元気がないと聞いていたので、心配だったが、花房さんをからかったり、歌を歌ったり、げらげら笑ったり、今まで見ることのなかったハルモニの新しい一面を垣間見て、こちらもとても楽しかったです。朴頭理ハルモニ、何時までもお元気に長生きをして下さい。次にお会いする時には、単語を20以上言えるよう、私も勉強します。
(関釜裁判を支援する会(福岡) 日高明子)
本当にご苦労さまでした。今回はゲストが多く、直前は不眠不休が続いたのではと思います。広島も大したことはできませんでしたが、事務局員力を合わせて、精一杯受け入れ態勢をとがんぱって、なんとか口頭弁論ができてほっとしています。
さて、受け入れのひとこまですが、、、、
23日、広島空港へお送りした際のことです。11時頃宿舎のKKRを出て、飛行機の出発が13時40分頃ということで楽勝と思って山陽道に乗ったとたん、工事中渋滞ということで少しあせりました。飛行場について、みんなで昼食をとりました。李順徳さんは肉うどんを注文され、おいしいおいしいと全部たべられました。
朴頭理さんは、茶そばセットを注文されました。たぶん韓国風の冷麺だと思われたのでしょう。一口食べられてお口に合わなかったのか、金珠さんの注文されたカレーライスを私にちょうだいと強引に交換して、きれいに平らげられました。
金珠さんは、茶そばを全部食べられないので、李順徳さんにどうかと勧められました。付け汁の小さな器にいくらか茶そばの麺をとって、しむけると、順徳ハルモニはその器を肉うどんの器にぱかっと移して、うどんといっしょにしてこれがおいしいのといってまた全部食べられした。とっても微笑ましい光景に私にはうつりました。
(関釜裁判を支える広島連絡会 日南田)
いまナヌムの家からTELがありました。
朴頭理さんが素晴らしく元気だそうです。
陳述や尋問をして日本から帰ると,今までは寝込んでいたのに今回は元気で、ナヌムの家全体が喜んでいる雰囲気が伝わってきました。
(関釜裁判を支援する会(福岡) 花房恵美子)