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各人の証言調書を元に、
再インタビューした際に得られたPTSDの所見

挺身隊原告Aさんの調書とインタヴューから

映像性(イコン性)の高まりの検証
 「今でも目を閉じると浮かんでくる風景は何ですか?」という問いに対して、「深夜の12時に休憩の時間があって、それは20分ほどだけどその時休むと眠くなってついうとうとしていると防空頭巾の頭の上のところを引っ張られて怒られるというイメージ。その時の吉田係長の声、その怒ったような顔が見えてくる。」
 この休憩の風景は、「嫌な感情」と「引っ張られた感触」が優位で、それに映像性の高い記憶が裏づけしているエピソードである。

音声として記憶されている部分の検証
 「誰かの声や音などで今でも覚えているものはなんですか?」との問いに対して、「寮にいたときの日本人女性の声、彼女は先生だった。歌を歌ったり、しゃべりかけてきたり・・というその女性の先生のことは良く覚えている。
 それから工場の中の騒音。工場中に響いていたその音は今でもよみがえる。町中で鉄を削る音が耳に入ると、今でも胸がどきどきする。」
とあった。これは、音声として深く記録された記憶である。

臭いとして記憶されている部分の検証
 「今でも覚えている匂い、その匂いをかぐと当時のことを思い出すような臭いは何ですか?」との問いに対して、「手を怪我して病院に通っていたときのことで、その病院の売店に売っていたところてんの匂い、昆布をふりかけていたそのおいしそうな臭いが今でもちゃんと残っている。
 それから鉄の臭い、工場の中に充満していた鉄の臭いは今でも忘れていない。それをかぐと非常に不快となる。」
とあった。これは嗅覚として記録された記憶である。

感触として記憶されている部分の検証
 それは、固いもの。鉄のようなものを常に触っていた感触が強い。そして固いものは今でも不快感があるということから、何らかのトラウマの記憶に関わっていることを示唆するエピソードである。

挺身隊原告Bさんの調書とインタヴューから


映像性(イコン性)の高まりの検証
 「今でも目を閉じると浮かんでくる風景は何ですか?」という問いに対して、「たまたまお父さんが隣のサランバンという、これ男の居間なんですが、そこでちょうど昼寝をしていらっしゃるときにポケットの中に潜んであった印鑑を、恥ずかしいことではございますけれども、これを盗むようにして持っていって先生にあげました。」
 はっきりとお父さんの横になって寝ている姿を覚えている。
 暑い日で、縁側のほうの扉をあけており、その外のほうに顔を向けてお父さんは寝ていた。そこの右側に置いてあったお父さんの脱ぎ捨てた衣服の山の中から、お父さんの印鑑を盗んだ。
 その一方で、色として記憶されているものにカレーの色がある。木肌のような色をしたカレー、それは臭いとともに強く記憶されている。
 また、不二越の工場で働かされていた時、「朝は小さな茶わん一杯のご飯と味噌汁、お昼は三角形の食パン三切れ」とあるが、この「3枚であったこと」もちゃんと映像として、覚えている。

音声として記憶されている部分の検証
 道を歩いていると、鉄の旋盤の工場のの近くを通りかかったりする。そんな時、自分が働かされていた工場のことを突如として思い出してしまう。それからはこのことが自分の人生を狂わすきっかけになったことをくどくどと思い、気持ちが悲しくなる。
 他に機械の音で特に「ドロロン、ドロロン」という音がよくよみがえる。苦手なのは機械の音。どんなに小さな時計の音でも嫌で、時計の秒針のカチ、カチという音さえ駄目だ。

臭いとして記憶されている部分の検証
 嫌な臭いで記憶に残っているものは、住んでいた寮の周りが鉄条網で囲まれていたが、それに沿ってドロドロになりながら下水が流れていた。その臭いがひどくて今でも記憶に残っている。
 その一方で、カレーライスの臭いも忘れられない。これがカレーで、なんておいしそうな臭いなんだろうと今でも覚えている。

感触として記憶されている部分の検証
 ドロドロしているものは嫌だ。
 手を切ったとき、作業台の上に置いてあった鉄の粉と油の着いた布切れで思わず押さえた。
 その布の色は今でもちゃんと覚えている。花房さんの着ているベストのような色だった。しかしその布も血で染まってポタポタと自分が使っていた「台」の上に垂れて赤く染まったことを覚えている。その時の染みてくるようなじわっとした感触がとても嫌で、今でも覚えている。その時にはお母さんのことを思い出した。
 録取の中に「ええ、私だけは背が低かったものですから、その箱の上に乗ってやりました。」とあるが、その「台」の感触は今でも覚えている。きっちりとした造りで小さいけれどギシリとも音がしない頑丈な感触。大きさは足にはまる程度で、ほんの少し余裕があるだけも小さな木でできた木肌の見える台だった。

挺身隊原告Dさんの調書とインタヴューから

映像として記憶されている部分の検証
 コンドウさんという憲兵さんのこと。帽子には赤い帯があって、そこには黄色い星がついていた。その星は1つだった。(本人の本来の録取には"赤い星のマーク"とあるが、それは中国のものと思われ、日本のものかどうか要調査であろう)
 父の印鑑を通ろうとしたときの映像も鮮明である。
 前の日、朝の9時〜10時はお父さんなどがいてなかなか印鑑を取れなかった。そこでその日、学校から帰ってきた時、まだお父さんが帰ってきていないのでこっそりとお父さんの部屋に忍び込みタンスの中の一番上に置いてある印鑑入れの箱を狙った。
 しかし背が小さくて届かないので、まくらを2つ重ねて使って高さをつけ、手を伸ばした。その時、ふとんの端に手を添えながら、ぎゅっとそのフトンにつかまって、身体を支えたことを覚えている。
 また、強制的にペンキを塗らされていた経験のためにペンキの色も鮮明に覚えている。その色は、例えば今示すとすると花房さんの着ている服の色に似ている(カーキ色)。
 それが故に、今でも嫌な色と言えば日の丸の赤い色、憲兵の服やこの飛行機のボディに塗られたペンキのカーキ色。
 またスイカの皮の話も非常に鮮明である。
 録取の中に「帰ってくる時に道路脇にすいかの食べかすが残っていましたので、寮長あるいは監察官の目を隠してぱっと二つ、三つうわっぱりのポケットに入れまして、それを一生懸命ほこりをふいて食べました」とある。
 それを再び回想すると次のようになった。
 「あれは仕事が終わって夕方の6時頃にみんなで寮に帰る途中のことです。道端に木の台のようなものがあって、そのうえで子どもたちが遊んでいました。その子どもたちが食べた物なのかその脇にすいかの皮が捨ててありました。まず班長さんを見て、前を見ているので、今だ!という感じでその皮を5つくらいポケットに入れました。
 その時に、その子どもたちのお母さんのような女の人に"どこから来たのか"と言われたので、"朝鮮からだ"というと、"大変だなあ"というようなことを言ってくれた。後で食べたそのすいかは、埃っぽくって砂が着いていたが、とってもおいしかった。絶対に忘れられない味だろう」
 このように、映像的には鮮明に残っていることではあるが、どうもつじつまが合わない部分がある、それは日本人の女性に話しかけられ返事をしたという部分である。
 隊列をなして進んで行くこの時に、すいかを皮をさっとポケットに入れることはぎりぎりできたとしても、日本人女性と会話することは非常に困難であったと思われる。おそらくこれはどこか別の時に経験した「日本人女性との出会い、会話」という記憶が、時経列を入れ換えられて、つながってしまったものと思われる。
 このように非常に外傷体験が続いている時には、本来つながらないような記憶同志が何かの接点でつながり、一つの物語と化してしまうことがありうる。
 またアメリカ兵の死体を踏みに行った時の映像も鮮明である。
 録取の中には「顔もよくわからなかったけれど、米兵らしいものが二人おりました。その二人に足で踏みつけたり、つばを吐きかけたりいたしました。」とある。
 この時のことを再度回想してもらうと次のようになった。
 「山の中の畑のようなところに入っていった。そしてその米兵の死体というものを踏めと言われた。怖くてしょうがなくて、踏めなかったが、何とか胸だけ踏んだ。その踏んだ胸の感触は"固い"という感触だった。とても顔のほうは踏めなかった。そしてその時班長さんの怒鳴るような声を覚えている。「私たちは勝った〜!」「お前たちの作った飛行機でこのものたちが死んで、勝った〜!」という言葉だった。
 この叫び声は非常に今でも耳に残っている。また、この出来事の季節についてだが、それを問うと、秋頃だったという。なぜかというと「その日は朝からちょっと寒くて、上着をはおって出かけたのを覚えているから」とのこと。非常に鮮明な記憶である。
 そのほかの記憶として集められた女性の数がはっきりしている。その数がどうして138人とわかるかであるが、それは、彼女自身がその賢明さを買われて、点呼役となり、何度も点呼を行ったから覚えていたのであった。それでも、138という数を覚えているのは非常に記憶がそこだけ鮮明と言わざるを得ない。

臭いとして記憶されている部分の検証
 ペンキの臭い。鼻がこげるかのような臭いで、今でも町の中にそういった臭いが漂っていたりすると嫌な気持ちになる。
 これは同時に前述の「色」としても記憶されており、そういった色を見ると本当に嫌な気持ちになる。

慰安婦原告Eさんの調書とインタヴューから

映像の鮮明さと時経列のゆがみの検証
 録取の中に「連れていかれる当日、あなたは何をしていましたか?」との問いに対して、「畑に行きましてよもぎを摘んで夜の夕食の準備をしようと思ってました。そして男に引っ張られていきました」とあるが、この時のよもぎの色ははっきりと記憶されており、色鉛筆で言うと黄緑色に近かったという。
 その後「踏み切りのところまで連れていかれた時」と限って自分が、父母に会いたいから帰してくれと言ったことを覚えている。これも「踏み切り」という映像が非常に鮮明である。
 また、イーリーというところの旅館に連れていかれた翌日、いよいよ駅から汽車に乗って出発するというその日の朝の食事を克明に記憶している。
 「その時の朝食は白いご飯、コンムル(豆を細かくして作った汁)、キムチ、そして角切り大根の漬物だった。白いご飯がとてもおいしかった」
 また、到着した上海で出迎えた軍人の服装もよく覚えている。
 「黄色い色の服を着ていた。たぶん国防色という色だと思う」
 一方時経列のゆがみ、ないしは記憶の入れ換りという現象も起きているようである。それは上海について、テントのようなところに入れられた時のくだりである。
 「そこに降りたら正直言ってあまりに小さいテントの中で、もう汚いという一言に尽きました。もう雨は降る、雪が降ったらそのまま降り込むというような状態で・・」
 しかし前述の録取の中で「よもぎを採っている頃につかまった」とある。そしてイーリーから出かける時も「よもぎを採っていた頃だから暑かった」と今回コメントしているが、それから見ると、長くても1週間以内で到着したであろう上海において、「雪が降る」ということはないように思われる。
 これはいわゆる時経列のゆがみであり、おそらく長いテントの中での生活で経験した「雪が降り込んでくる」ということに対するトラウマの記憶が、強いためにどこまでゆがみ、時経列的にはゆがんで、この「連れてこられたときの記憶」とくっついてしまったことが予測される。
 このように連続してトラウマの記憶が繰り返されていると、たがいに入れ違ってくっつき、時間の経過的には離れているであろうことも、一緒になって語られたり記憶されたりすることがある。
 また映像的な記憶としては「606号」がある。
 この注射に対して「色はどうでしたか?」と尋ねると即座に「黄色い色でした」と返ってきた。歴史検証を待たなければならないが、この「606号」の注射が実際は何色であったか、非常に大切な部分であると思われ、調査を期待するところである。
 しかもこの注射に関しては「打つとすぐに臭いがしてきて、それはまるで今で言えば龍角散のような臭いだった」という。これは血液に溶けて全身に回った際に肺のガス交換において二酸化炭素のほうに溶けやすい薬剤であることを示唆しており、この「606号」がそのような「二酸化炭素親和性を持つ」薬剤であることも大切な検証である。
 最後に解放となった時の記憶は音声として記憶されている。
 「前からも、後ろからも何か声が聞こえてきた。聞けばみんな何かを叫んでいる。その言葉は意味が分からず、人に聞いてようやく"解放""平和が来た"という意味だと知った」
 このようにこの「叫び声」はその内容や意味が分からずとも記憶されており、その時の様子を語る状況から判断するに、非常に鮮明な音声優位の記憶であると思われた。

原告のPTSD診断

PTSDの臨床的診断

ロールシャッハ・テスト

バウム・テスト

DSM−IVに関する診断結果

考察