Topページに戻る 

原告ハルモニたちの証言
原告たちのプライバシー保護の為、一部名前を伏せさせて頂いております。

「慰安婦」原告
河順女(ハ・スンニョ)さんの証言

李順徳(イ・スントク)さんの証言

朴頭理(パク・トゥリ)さんの証言

挺身隊原告
朴(パク)・Soさんの証言

柳(ユ)・Cさんの証言

朴(パク)・Suさんの証言

梁錦徳(ヤン・クンドク)さんの証言

李(イ)・Yさんの証言

姜(カン)・Yさんの証言

鄭(チョン)・Sさんの証言

河順女さんの証言

 河順女さんは2000年5月5日に亡くなられました。
心よりご冥福をお祈りします。


1 生い立ち
 私は1918年2月2日、全羅南道木浦市で父河東淑、母南東郷との間に長女として生まれました。父は全羅南道霊光郡で小作農をしていましたが、私が生まれた当時、母と出稼ぎで木浦に来ていたのです。私は弟2人、妹1人の家族の中で育ちました。家は貧しく、部屋が二つの藁葺きの家に住んでいました。
 私は霊光郡の小学校に行きましたが、勉強が嫌いで、勉強をした記憶がほとんどありません。しかし、どうにか小学校だけは卒業し、父が心配して親戚の家にあずけ、光州市の女学校に入学させました。ところが私は1ヶ月も学校に行かず途中退学し、そのまま光州の呉服屋の社長の家に住み込んで家政婦として生活することにしました。その家で私は信頼されて数年働きました。

2 「金儲けができる仕事」とさそわれる
 私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました。私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。

3 プサンから大阪へ、そして上海に
 私たちは汽車でプサンに行き、日本人の家らしいところにつれていかれて一泊し、プサンの埠頭から貨客船に乗って大阪の港につきました。そこが大阪だと分かったのは、日本人の男が、「ここは大阪だ」と言ったからです。
 そこでいったん船を降りて下宿屋のようなところへ一泊しました。私以外の娘たちはそこからどこかへ連れていかれましたが、私だけは別の日本人に連れられてなぜか再び船でプサンに戻りました。そしてプサンから私と同じような朝鮮の娘たち7〜8人と一緒に船に乗せられ、天津につき、天津から南京を通って汽車で上海までつれていかれました。上海で、最初に光州で彼が慰安所の主人だということが分かりました。彼がここは上海だと言ったし、前に来ていた女性たちがここは上海だと言ったので、そこが上海だと分かったのです。

4 長屋の慰安所
 上海では、アメリカ人かフランス人の租界区の近くにある長屋に入れられました。その長屋は人が二人やっと寝ることが出来る程度の窓のない30くらいの小さな部屋に区切られており、私はその一つを割り当てられました。
 部屋は板張りの床で毛布を敷き、冬は湯たんぽで暖をとっていました。私は長屋に入れられたときは、炊事・洗濯をさせられるものとばかり思っていました。

5 慰安婦の生活
 ところが翌日、カーキ色をした陸軍の服を着た日本人の男が部屋の中に入ってきて、私を殴って洋服を脱がせたため、私は悲鳴を上げ逃げようとしましたが、戸には鍵がかかっていました。
 その日からたくさんの軍人たちが私の部屋に来ました。私は客を取る以外は仕事をするなと言われ、「マサコ」という呼び名で軍人の相手をさせられました。
 この慰安所には日本人の女が2人、中国人の女が2人、朝鮮人の女が4人いましたが、朝鮮の馬山から来た娘は「オトマル」という名で呼ばれていました。
 主人の妻が軍人からお金をもらっていましたが、私は一度もお金をもらったことがありません。
 上海に来てから3ヶ月たったとき、父母に手紙を書いたことが一度だけあります。住所も何も書かず、ただ金儲けして帰るから安心してほしいとだけ書きました。自分が苦労するのは騙された自分の罪だと思っていましたが、父母だけは安心させたかったのです。
 主人は帰るときに金をやると言っていましたが、私はそんな言葉は信じませんでした。ただ早く国に帰ることだけを願っていました。毎日朝の9時から夜の2時くらいまで、軍人の相手をさせられました。休日というのはなく、ただ生理のときだけ軍人の相手をせずにすみました。1ヶ月に1回くらい病院で軍医の検診を受け、注射をされました。

6 陸軍部隊慰安所
 長屋には「陸軍部隊慰安所」と書いた看板が掲げてあり、食事は台所の横にある食堂でしました。長屋の一番はしに、主人の部屋がありました。主人は日本人で、いつも下は軍服のズボンでしたが、上はシャツだけのことが多く、妻のことを「タカちゃん」と呼んでいましたが、彼らのはっきりした名前は思い出せません。主人は福岡出身で妻は長崎出身だと言っていました。
 慰安所の実際の所有者は主人の妻の兄で、月に1,2回慰安所に来ていました。呉淞路(ウースンルー)にある慰安所の人が私たちを引き抜きに来ましたが、主人が断りました。

7 慰安所を抜け出す
 私は軍人の相手をしたくないので、炊事・洗濯などの家事をしていた「チョウさん」という中国人夫婦の手伝いに時々抜け出していました。私は炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう主人に頼みましたが、その度に激しく殴られ、生傷が絶えませんでした。
 ある日、私はどうしても耐えられず、慰安所から逃げ出して化粧品店をしている西洋人のおばあさんの家にいたところ、主人に見つかって連れ戻されました。

8 激しい仕打ち
 主人は激怒して、炊事場で「殺してやる」と包丁を持ち出しました。チョウさんが止めてくれましたが、いつも女性たちを殴るために主人が帳場においている長さ50センチくらいの樫の棍棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られ大出血しました。
 その後のことは記憶がありませんが、後で聞いたところによると、チョウさんが「血が出て死にそうだ」と言って、西洋人のおばあさんを呼んできて、彼女が私を介抱し、傷の手当をしてくれたそうです。
 3日くらい後に、慰安所に来ていた東京出身の衛生兵らしい優しい日本人がやってきて、私を陸軍病院に連れていってくれました。そこで頭の傷を7針縫いました。その後1月くらいは顔が腫れ上がり、軍人の相手はせずに炊事場で働いていました。チョウさんの話では、その衛生兵は主人から慰安婦が働かないから叩いたのになぜ親切にするのか、もう慰安所に来るなと言われたそうです。

9 解放から帰国へ
 ある日病院に行って帰ってくると主人がいなくなっていました。そして翌日病院に行くと日本人の医者は、私たちは日本に帰るから後は国に帰って治療しなさいと言いました。慰安所に戻るとチョウさんが日本が負けて戦争が終わったと私に教えてくれました。そして軍人たちも私以外の女性たちもいつの間にかいなくなり、私だけが残されてしまいました。そのうち、中国人が建物を壊したり放火しているのを見て、私も日本軍の関係者として危害を加えられるのではないかと怖くなりました。
 チョウさんの奥さんが家で3日間ほどかくまってくれた後、上海の埠頭に連れていってくれました。私は埠頭で3日間乞食のように野宿して帰国船を待ちました。ようやく帰国船に乗り5日目にプサンに帰り着き、船の船長にたのんで麗水まで連れていってもらい、列車に乗って故郷に帰りました。

10 家政婦として生きる
 故郷では母は生きていましたが、父は亡くなっていました。父は解放の頃に「火病」で死んだとのことでした。怒りや悲しみのために死んでしまうことを韓国では「火病」というのです。
 私はやっと故郷に帰ってきましたが、当時は左翼と右翼の対立が厳しい時代で、外国帰りが苛められることが多く、私は故郷を出て一人で光州に行き、もと働いていた家を訪ねました。しかし、すでにそこの主人はいませんでした。そこで、母の実家のある全羅南道のチャンフンにいって農業をして暮らしました。
 しかし1950年に朝鮮戦争が始まると、そこにもいられなくなって、プサンに来ていろいろな家で1年や数ヶ月づつ家政婦をして暮らすようになりました。
 10年前に妹の息子の金鐘浩が自分の家に来るように行って、部屋を空けてくれました。私は家政婦をして働いていた時は、甥にいくらかのお金を入れて来ましたが、歳をとって、家政婦の仕事も出来なくなりました。

11 慰安婦の申告
 私は国に帰ってきてから従軍慰安婦をさせられていたことを誰にも言ったことがありません。母には上海に行って軍人の家で炊事などをしていたと言いました。甥が従軍慰安婦に関するテレビのニュースを見て、私が従軍慰安婦をさせられていたのではないかと気付きプサンの挺身隊対策協議会に申告したのがきっかけで、この裁判を起こすことになったのです。
12 日本政府への怒り
 家政婦をやめてから、私は韓国政府から生活保護として1ヶ月米5升と麦5合、燃料費二万ウォンの支給を受けて暮らしてきました。昨年から挺身隊ハルモニ生活補助金として月一五万ウォンが韓国政府から支給されるようになりましたが、今も三畳一間の部屋で家賃が八万ウォンで苦しい生活です。雨が降ると頭が痛くなり、時々、頭が空白になります。
 日本政府は、私たちのことに日本政府は責任はないとか、私たちは公娼だとか言っているそうですが、私はこれを聞いて腹が煮えくり返る思いです。

李順徳さんの証言

1 生いたち
 私は1918年陰暦10月20日、全羅北道裡里郡の慕縣(モヒョン)どいう村の農家で生まれました。父母と私と三歳下の弟の4人家族で、家は小作地も無く、他の農家の賃仕事で生計をたて、大変貧しい暮らしでした。部屋が一つしかない藁葺きの家に一家で住み、私も弟も一度も学校に行ったことがなく、私は家事をまかされていました。

2 甘言にのせられて
 私が上海に連れて行かれたのば、1937年の春、数えで19歳(満18歳)のときのことです。叔母の話では私が生まれた年は1919年だとのことですので、それが本当なら満17歳の時に連れて行かれたことになります。
 その日私は夕食の準備のため、村の畑の畦道で蓬を描んでいました。当時の朝鮮の田舎では食べるものがない貧しい農民はよく蓬を描んで麦飯を少し混ぜて食べたのです。そこに3、40歳位の見知らぬ朝鮮人の男が来て、「そんな事をしているよりも、自分についてくれば、履物もやるし着物もやる。腹一杯食べれるところに連れて行ってやる」と誘いました。
 私はそのとき履物もなく草鞋をはいていましたし、空腹を癒すことに精一杯だったので、ついその男の言葉に乗せられ、何も考えずについて行くことにしました。私は父と母に挨拶してから行きたいと言いましたが、男は時間がないと言って私の手をとって引っ張りました。当時男から手を取られるというのは大変なことなので、私は驚き、恐ろしくて、恥ずかしくて、そのまま泣きながら連れて行かれてしまいました。

3 上海へ
 私は、裡里邑の旅館まで一時問位早足で歩いて連れて行かれました。旅館には私と同じように連れて来られた人が14、5人いて、一緒に夕食を食べました。皆、私と同じような農家の娘で、誰もどこに何のために連れて行かれるのか分からず、泣いていました。その夜はみんなで一部屋で寝ました。私ば一晩中泣いて一睡もできませんでしたが、部屋の外から鍵がかけられていて逃げることも出来ませんでした。
 翌日になると私を連れてきた朝鮮人の男の姿は見えず、代わりに目本人の男が3人いました。男たちはカーキ色の服を着てゲートルを巻き、腹にサーベルをぷらさげていました。
 私たちは朝食後その日本人達に連れられて旅館を出て30分ほど歩いて裡里駅に着き、どこに行くかも告げられないまま汽車に乗せられました。汽車の中で2回寝て、上海の駅に着きました。上海に着いて食事をした後、幌のないトラックの荷台に乗せられました。日本人の1人は運転手の横に座り、残りの2人は私たちと一緒に荷台に乗りました。運転手も日本人で他の3人と同じ服装をしていました。

4 慰安婦小屋
 約3時間位トラックに乗って日本陸軍の駐屯地に連れて行かれました。そこには大きな軍用テントがあり兵隊たちが住んでいました。軍用テントの近くに、むしろの壁に萩を編んで作った屋根の小さな小屋が点々とたっていて、私たちはひとりずつばらばらにそこに入れられました。小屋は畳2〜3枚位の広さで、床は枯れ葉の上に竹で編んだ敷物を敷いて、その上に国防色の毛布が掛けてあり、雨が降ると雨水が沢山漏れてきました。
 私は軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の3日間は何もなく、その小屋で休んでいました。その間に血液検査と「六○六号」と言われる注射をされました。注射されたと朝鮮人の軍人が一緒に入ってきたので、何の注射かと間いたら、妊娠をしないための注射だと言われましたが、その時の私にはそれが何を意味するかも理解出来ませんでした。

5 慰安婦となる
 4日目にミヤザキという名の年配の将校が入ってきて、私を「カネ子」と呼び、一緒に寝ようと言いました。嫌だというと「大丈夫、何でもないから怖がるな」と言って抱きついてきました。その将校は私を無理やり押し倒して犯し、それから3日間毎晩やってきました。彼の軍服には星が三個ついていて、そこにいた軍人の内で一番位の高い人だったと思います。ミヤザキは土曜日には自分がくるので他の兵隊の相手はするなと言いました。

6 六○六号の注射
 最初の三日はミヤザキの相手だけをさせられましたが、その次の日にはたくさんの兵隊が私の小屋の前に行列をつくり、次から次へと私を犯しました。抵抗しようとしましたが、起き上がると殴られ、蹴られるので、横になって男たちにされるままになっていました。それから毎日たくさんの兵隊の相手をさせられるようになりました。朝の9時ころから、平日には8〜9人、日曜日には15、6人の兵隊の相手をしました。
 私は連れて来られたときにはまだ生理がなく、約一年後に始まりましたが、生理のときにも部屋の中においたバケツの水で洗いながら男の相手をさせられました。軍人のなかにはサックを使う人も使わない人もいました。生理の時だけサックをする人もいました。私は最初サックというものがよくわからなかったので、兵隊が置いて帰ったものを風船だと思って膨らましたことがあります。
 「六○六号」の注射は二週間に一回打たれました。いつも星二つの軍服の同じ人が注射しました。一緒に朝鮮人の軍人が来ましたが、その人の襟章は星ではなく丸が三個ついていました。
 「六○六号」の注射以外に検診などはありませんでした。このような生活の中で、お金や軍票をもらったことは一度もありません。チップのようなものも、もらったことがありません。

7 悲惨な監禁生活
 風呂はなく、部屋の中でバケツに扱んだ水で体を洗いました。食事は小屋の前に軍人がもってきて鐘を鳴らすので、自分で小屋の中に持ち込んで食べました。食事時に男の相手をさせられて、食事ができないこともよくありました。最初は目本語が分からないといって兵隊たちによく殴られましたが、一年後には話せるようになりました。監督が厳しくて、他の女性と話をすることもありませんでした。小屋の前に兵隊がいつも見張っているので逃げることもできませんでした。

8 たった一つの思い出
 こんな生活のなかで、ミヤザキは私に暴カを振るうこともなく、親切にしてくれました。彼は私がチマ(スカート)で顔をふいているのをみて、石鹸とタオルー枚を持ってきてくれました。
 一度だけミヤザキが飛行機に乗せてくれたことがあります。小さなトンボ飛行機で操縦士の外は私とミヤザキの二人だけが乗りました。私は恐ろしくてミヤザキにしがみついていました。私のたった一つの楽しい思い出です。私が上海に来てから一年程してミヤザキが日本に帰ることになり、日本について来て自分の妾にならないかと言いました。しかし、私は故郷に帰りたいので嫌だと言って断りました。

9 軍靴で蹴られる
 解放の1〜2ケ月前、ある将校が自分と約束しているのに何故他の男と寝たかと私を責め立て、軍靴で私の腹を力任せに蹴り上げ、刀で背中を斬りつけました。私は卒倒し、気づいてみると見張りの軍人が人を呼びにいって、小屋のなかで治療してくれましたが、一週間は起きることもできませんでした。
 故郷に帰ってからも傷の治療をしましたが、腹と背中の傷は今もはっきりと残っていて、雨の日には背中は今でも痛み、動きが不自由です。

10 故郷に帰る
 結局私は、1945年の解放の日まで慰安婦をさせられました。いつもの小屋にいると、小屋の裏の道に沢山の朝鮮人が来て、歓声を上げ「解放だ。掃ろう。」と叫んでいるのが聞こえました。日本の兵隊たちはいつの問にかいなくなっていました。私は最初は解放とは何の意味かわかりませんでしたが、説明を聞いてわかりました。そこで、その朝鮮人達について帰ることにしました。屋根のない貨車に乗り雨に濡れながら、何日もかかって帰ってきました。

11 再婚を重ねて
 家に帰ると、両親はすでに亡くなっていて、弟だけが家にいました。両親は私のことを心配し、一生懸捜し回り、絶望して死んでしまったそうです。弟は私にどこにいたかと聞きましたが、私は本当のことは恥ずかしくて言えず、金持の家で飯炊きをしていたと話しました。
 その後、農作業の雑用などの賃仕事をして暮らしましたが、一年後に金堤(キムジェ)に住んでいる17歳年上の男を紹介され、その男の後妻になりました。そこで8年暮らしましたが、夫は死亡し、夫の子供や嫁に出ていくように言われたので、金堤を出ました。
 その後今の夫を紹介され、再婚して光州に来ました。私が慰安婦をさせられていたことは前の夫にも今の夫にも話しませんでした。私が裁判を起こしたので、今の夫は人からその話を聞くこともあると思いますが、教育も受けていないし、もう年をとっているのでよく理解できないようです。長い間慰安婦をさせられていたためか、私には子供がとうとう出来ませんでした。再婚後婦人科の診療を受けたとき、医者から何か無理をしたことがないかと尋ねられたことがあります。

12 貧しい生活
 今は生活保護を受け、政府から月に15万ウォン(2万円弱)と米の現物支給を受けて夫とふたりで暮らしています。支給される米は一月分が二週間位でなくなってしまい、苦しい生活です。日本政府からは何の補償も受けたことがありませんが、昨年の夏韓国の民間募金から500万ウォン(約62万円)を受けとり、やっと一息つきました。いつも頭が痛く、目も良く見えず、足がふらつきます。

13 死ぬ前に補債を!
 私は、日本が補償するなら、私が死ぬ前にしてほしいと恩います。私が生きているうちなら受け取った金で着物も買えるし、病院にも行けるし、薬を買うこともできます。私が死んでから補償していったい誰が金を使うのですか。日本政府は補償の代わりに女性自立センターというのをつくると言っているそうですが、とんでもないことです。個人補償をしないのなら、このまま総理大臣のところに行ってその前で自殺してやろうとも思っています。

朴頭理さんの証言

1 生い立ち
 私の名前は朴頭理といいます。生年月日ば新暦と陰暦がありますが、陰暦1924年9月2日生まれです。ソウルにある仏教団体のナヌメチップ(わかちあいの家)で細々と生活をしております。ナヌメチップの中で家事や掃除の手伝いなどをしており、ときどき日本大使館へのデモにも行っています。文字が読めないので住所が何番地かというのは分かりませんが、住所を書いたメモは私がいつも持ち歩いているカバンにいれています。ナヌメチップヘ行く道は知っています。

2 だまされて台湾へ
 私の家族は父と母、そして兄弟が7人で、兄弟は私も含めて女は4人、男は3人でした。父親の仕事は若い頃は何をしていたのか知りませんが、私の知っている限りでは大工をやっていました。家は貧しくて、一家そろって藁葺き屋根の家に住んでいました。貧しかったので学校に行くこともできず、今でも字を読むことも書くこともできません。
 私が17歳のときに、私の村に「日本の工場で働けば金儲けができる」という話が村の娘たちにもちかけられ、男たちが村の娘たちを集めにやって来ました。日本語と韓国語を話す見知らぬ男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
 私もお金を稼ぐために日本の工場に行って働こうと思いました。その時にしていた仕事は、洗濯をしたり山に薪を取りに行ったりといった仕事をしていました。あまりよく覚えでませんが、私が故郷を後にしたのは暑くもなく寒くもなかったので、たぶん春か秋だったと思います。
 初めは父も母も日本の工場に働きに行くことには反対していましたが、嫁に行くにはお金も必要だし、嫁に行く前に日本の工場に働きに行ってお金を稼ぎたいと私が思っていたので、仕方なく承諾しました。
 日本へ行くことになった日、父は仕事で家を留守にしており、家には母がいました。娘たちは一ヵ所に集められてから釜山に行き、釜山から船に乗せられました。
 何人かの娘たちと一緒で、船に乗るまではどんな人たちと一緒だったのか覚えていたのですが、船に乗った途端に船酔いがひどくて、今はよく覚えていません。船に乗っているあいだもずっど船酔いがひどく、船がどこへ行ったのかどこに着いたのかも分かりませんでした。
 舶から降りたとき、そこが台湾だということも分かりませんでした。降りたときも船酔いの状態がひどかったので、船を降りてからまず病院に連れていかれました。

3 慰安所へ
 病院から家に連れていかれて、その後何日かたってから周りの人に「ここは台湾だ」ということを教えてもらって、そこで初めて含湾に運れて来られたということが分かりました。
 病院から工場に連れていかれるのかと思っていましたが、連れていかれたのは軍人相手に体を売る「慰安所」でした。その時だまされて連れてこられたことが分かりました。
 話が違うと思っても、言葉も通じず、カもなかったので、いくら抵抗してもどうしようもありませんでした。
 「慰安所」の住所は当時は覚えていましたが、今は覚えていません。でも周囲に山があったり田や畑があり景色は今でも覚えているので、私をその場所へ連れていってもらえば分かると思います。
 「慰安所」はコの字型をした建物で、両方の棟に娘たち(「慰安婦」)たちがいました。コの字型の突きあたりは廊下になっていて、庭には薪を置いたり水を置いたりしていました。入り口のほうには食堂があり、そのすぐそばに主人の住んでいる家がありました。窓には鉄格子はなかったのですが、塀のまわりは鉄格子で囲まれていました。その「慰安所」の主人には奥さんがいました。主人とは別に管理人がいて、言うことを聞かないと暴力をふるうのは管理人でした。
 私はその「慰安所」で日本名で「ヒジコ」と呼ばれていました。私は「慰安所」に連れて来られて、客をとらされました。初めて男の人と接したのは「慰安所」でした。客として来る日本の軍人からもお金はもらっておらず、「慰安所」の主人からも一銭ももらっていません。

4 つらい「慰安所」での生活
 「慰安所」では日本語しか喋らせてもらえず、もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました。
 具合が悪くなったときなどは、病院に連れていってもらえることもありました。週に一回は注射を打たれました。
 位の低い軍人からは何ももらえなかったのですが、位の高い軍人のときは、いくらかの小遣いをもらったり、きれいにするためのクリームなどをもらったりしました。
 私の客は多かったので、病気にもなりました。
 食事は朝はなく昼と夜の二食だけで、いつもひもじい思いをしていました。
 台湾にいた6年問のあいだに、主人はどんどん替わっていきましたが、新しい主人になってもお金はまったくもらえませんでした。休みは月に一度で、もし外出するにしても必ず「何時何分までに戻ります」という許可を取ってからでないと外に出ることはできず、それを守らないとひどい目にあわされました。休みの日は、ほとんど一日中寝ていたり、洗濯をしたりして過ごしました。
 ある日外出したときに、たまたまバナナ畑があり、あまりにお腹が空いていたのでバナナを取って食べたら、畑の主人に見つかってしまい、畑の主人から半殺しの目にあわされ、管理人からも半殺しの目にあわされたことがありました。
 私が人に頼んで台湾から故郷に手紙を出していたので、住所を知っていた弟からある日手紙が居きました。手紙の中に「ノートや鉛筆を買ってほしい」ど書いてありました。弟は私が工場で働いてお金を儲けていると思っていたのでしょう。でも私には買えるお金もなかったので、そのことを嘆き悲しんでいると、ほかの「慰安婦」たちがそれを見かねて、一人いくらかずつお金を集めてくれて、そのお金で弟にノートと鉛筆を買って送りました。弟は事情を知らないので、「またノートと鉛筆を送ってくれ」と手紙がきました。
 最初に連れていかれた「慰安所」から2、3回場所を変わりましたが、ただ言われる通りについていっただけなので、どこからどこに行ったのかは分かりません。軍隊が移動するたびに移動していました。
 私が一番嫌だったことは客をとることで、「客をとるのが嫌だ」と言おうものなら半殺しの目にあわされました。

5 故郷に帰る
 ある日、「慰安所」から連れ出されて船に乗せられたので、その船の中で「どこへ行くのか?」と尋ねると、「朝鮮が解放されたから朝鮮に帰るんだよ」と言われました。その時に朝鮮が解放されたことを知りました。
 同じ船に乗っていたソウル出身のおじいさんが教えてくれて、彼にはいろいろと親切にしてもらいました。今から思えば彼の住所でも聞いておけばよかったと思います。
 ようやく故郷に帰ることができ、故郷では父も母も健在で、父と母には「日本の工場で働いていたけれど、お金は一銭ももらえなかった」と嘘をつきました。そのことに対して父も母も別に何も言いませんでした。
 故郷には帰ることはできましたが、6年の「慰安婦」生活のおかげで私の体は満足な体ではありませんでした。
 その後、結婚しましたが、夫には「慰安婦」をしていたことは言えず「日本の工場で働いでいた」と言って隠していました。結婚して6年問は子供ができませんでしたが、そのあと女の子が3人と男の子1人を産みました。
 夫も姑も亡くなった後ば、行商などをやって生活していました。娘2人と息子を亡くし、戸籍上は私1人だけです。
 私の人生ばこれっぽっちもいいことはありませんでした。今は体の調子が悪いので病院通いが多いです。

6 日本政府の責任で補償を!
 今の状態はまるで生き地獄です。生きていく事は一番辛いです。若いころにひどい目に遺ったぱかりに、今、後遺症がでて耳のほうからも血がでたり、ウミがでたりしますけども、年を取って手術は不可能だと言うし、足もどうか手術で直しでくれと言っても、年だから無理だと言います。もう、本当に生きながらえていること、恥ずかしいと言っていいのか、全く地獄そのものです。私はだまされて連れていかれ「慰安婦」を強制されたのです。
 今の日本人は立派な紳士だけれど、昔の日本人は卑怯者で、悪者でした。それから、これだけ6年間も人の体をむしばんでおいて、国家賠償は一切なし。話があれば、民間から募金してうんぬんとかいう話をやっている。我々は申請してから3年問、日本政府は我々が死ぬのを待っているのではないかと、誠意も何もないんじやないかと。
 私は若いころに苦労し、その後も苦労したことは、日本全国をくれてもいやだ、自分を戻してくれというのが本当だ、それが私の気持ちです。私は何億の金をくれとか、何千万の金をくれとかは申しません。私が後何年生きておれるでしょう。いくらかでも誠意を見せて補償をしていただければ、たまにはおいしいものを食って、たまにはいい生活をしたり、たまには友達と食事をしたり、そういう生活を何年問か続けて死ねぱ何十年間かの苦労もわずかでもほぐれるんではなかろうかと思います。
 3年間引っ張って引っ張って、我々が亡くなるのを待っているような、そういう不誠意なやり方、私はもし死んでも、鬼となって日本政府に補償を願いたいと思います。
 裁判官は私がこれだけ話しているのに、黙って聞いているだけで、どう思っているのか、何か言うことはないのか。
(裁判官質問)「今回このような裁判を起こしたのは、どのような気持ちからですか」
 我々をひどい目にあわしたのだから、補償をしてくれということでやっています。高齢者ですから、補償してくださるなら、生きているうちにしてください、ということでやりました。

朴・Soさんの証言

Q 兄弟、姉妹は何人いましたか?
A 全部で8人。私は上から5番目。一番上の兄は名古屋に徴用され、二番目は軍人になっていた。戦後軍服を着て帰ってきた。私は後で知った。
Q いつ、どのように挺身隊に勧誘されたましたか?
A 1994年5月、担任の守谷先生に勧められた。満13歳になったばかり。教務室で勧められた。主に話をしたのは守谷先生。もう一人男の人がいた。「日本国民であれば早く行った方が得だ。日本に行けば学校に行ける。裁縫ができる。」と言われた。どういう仕事をするのか聞いていない。日本に行くことは聞いていたが、工場に行くとは聞いていない。先生に聞いてすぐ返事をしたわけではないが、日本に尽くすのが当たり前だと思っていた。
Q 日本に行ったら両親に会えなくなると思わなかったのですか?
A 幼かったので考えてなかった。今考えると恥ずかしい。
Q 日本は何処にあるか知っていましたか?
A 先生から釜山から8時問で行けると聞いた。いつでも帰れると思っていた。先生も日本でいやだったらすぐ帰れると言った。
Q 親の許可をもらってこいと言われましたか?
A 印鑑を持ってこいと言われた。お父さんには言えなかった。お母さんには打ち明けた。印鑑は眠っているお父さんのポケットから盗って持っていった。
Q 大邸の何処に何人位集まったのですか?。年令は何才くらいですか?
A 道庁の広場に。45人だった。5年生と6年生。11才から12才位で、全て女性だった。
Q 行き先は知っていましたか?
A 何処に行くとは、日本に来て分かった。下関から富山への列車の中で不二越に行くと知った。
Q 工場での仕事はどのようなものでしたか?
A ドリルで穴を掘るのではなく、穴をあけるドリルをつくっていた。ドリルの溝を掘るのに背が届かなかったので箱の上にのって仕事をした。朝8時から12時まで午後1時から5時まで同じ箱の上で仕事をした。
Q 手の指を怪我をしたのはどうしてですか?
A 布で機械を拭く時に指が機械に巻き込まれて、8針位縫った。殆ど指がおちかけた。それでも仕事は休めなかった。怖いから痛いと言えなかった。日本の国民だから・・・。左の手は使えないので他の仕事をさせられた。
Q 食事についてはどうでしたか?
A 日がたって減ってきた。仕事が忙しくなった。朝は一杯のご飯とみそ汁、昼は三角のパンを三切れ、夜もご飯とみそ汁。
Q 外で買ったことはありましたか?
A お金もなかったし、自由もなかった。一年間魚を食べたことはない。まして肉を食べたことはなかった。杉山先生のクラスの人達の書いた寄せ書きの中にパンの絵があり、見た途端お腹がすいて仕方がなかった。
Q 寄宿舎、工場の廻りはどうでしたか?
A 鉄条網が張られていた。一旦入ってしまうと、工場と寄宿舎の往復だけだった。工場は軍人が警備をしていた。
Q 空襲はどうでしたか?
A 日がたつにつれて激しくなっていった。近くのお寺の防空壕の中に布団を敷いていた。B29は地響きがした。韓国に帰れず死ぬのかと思った。
Q 一番辛かったことは何ですか?
A 自由がなかったこと。命令一つで動いたこと。お腹がすいてたまらなかったこと。本当にこんな辛いことがあるのかと思った。
Q うれしかったことはありましたか?
A 当時の皇太子の誕生日、12月23日にまんじゆうをもらったこと。遠足に行って野原をかけたこと。電車に乗っていった。2回行った。
Q いつもどんなことを考えていましたか?
A 勉強をしたかった。仕事を一生懸命したので、疲れて考える暇がなかった。
Q (工場を疎開させるため)沙里院の工場が完成するまで家に帰ってよいと言われて帰って母に会った時はどうでしたか?
A (朴・Soさん泣き出す)あまりにみすぼらしい格好だったので母は私とは分からなかった。「Sです」と言って母は分かった。乞食が来たと思われた。
Q 連絡があったら戻る気持ちでしたか?
A 当時は命令ですから。
Q 給料はもらいましたか?
A 一銭ももらっていない。給料という言葉すら知らなかった。
Q 勉強させると言われたことは?。守谷先生から言われたことは、どうでしたか?
A 百八十度全部ウソだった。教科書を見たこともない。生け花も1〜2回生けているのをみせてもらっただけ。
Q 最後に日本政府に対して何か言うことはありますか?
A 人問欲を言えぱキリがない。命令が法律で、日本国民として幼いながら働いてきた。騙されて苦労して身体はガタガタだ。悔しいという気持ちを知って欲しい。

柳・cさんの証言

(戸籍上は1926年生まれとなっているが、本当は1928年生まれ。父は幼い頃死んだ。3人の兄と母と暮らした。家の仕事は菓子、果物等の雑貨を売る商い。生活はまあまあそれなりに、貧乏でも金持ちでもない。学校は国民学校の三年までしか行っていない。)
Q 挺身隊に行ったのは何歳のときですか?誘ったのは誰でしたか?
A 満16歳で行った。誘ったのは区長。日本人の使い走りをしていて、日本人の言うことに従っていた。家に来て誘った。女学生や働く所の写真を持ってきた。とてもきれいに見えた。生け花やミシンの使い方も教えるからと誘った。給料の説明は聞いていない。日本に行けばお金をたくさんくれるとだけ間いた。
Q 心が動いたのは習い事の為ですか、お金の為ですか?
A 教えてもらえて、お金がもらえるから。
Q 何処に集まったのですか?何人位いたましたか?
A 1944年6月馬山の府役所に集まった。50人位いた。年令14〜16才位だったと思う。
Q 行き先を富山の不二越と知ったのはいつですか?
A 着いてから知った。
Q 不二越に着いたら朝鮮女性は何人位いましたか?
A 合わせて200人位いた。
Q 朴・Soさんを知っていましたか?
A こんな小さくてかわいい子が来ているということで知っていた。
Q 仕事はどうでしたか?
A 鉄棒に穴をあける仕事。ひじから手首位の太さで真っ黒で重たがった。もともと男性のする仕事で本当に重たかった。男性から技術を教わった。20歳過ぎ位の人。覚えた時男性はいなかった。その人達は軍隊に行ったと後で聞いた。1週間毎に昼夜勤務。ずっと立ちっぱなしの仕事で、足が悪くなって2日程入院した。立って歩くことも出来なかった。手術して多くのウミを取り出した。機械で指を切った。ツメの色が今も違う。日本の女学生は多かったが座って働いていた。楽な仕事だった。
Q 挺身隊の替え歌があったそうですが?
A (日本語で)
  「富山くるとき 嬉しかった
   一夜過ごせば 悲しさよ
   いつかこの工場 去るでしょうか
   いつか不二越 去るでしょうか
   ああ金で泣く 涙わく」
これを皆で歌って、皆で泣いた。
Q 北朝鮮の沙里院へはどうやって行きましたか?
A 1週間位かかった。魚雷があるので、ずっと島づたい、陸づたいに行った。船酔いがひどかった。
Q 辛かったことは何ですか?
A 身体が大きかったのでたくさん食べるのに、食べ物がなくてお腹がすくのが一番辛かった。
一旦帰国して、沙里院の工場に行く予定の二日前に戦争が終わった。
Q 話が違っても、再び工場に戻ろうと思ったのですか?
A 軍人と同じ。命令なので「来い」と言われれぱ行く。
Q 給料はもらいましたか?勉強はしましたか?
A もらっていない。生け花は二回程見ただけ。やってはいない。勉強は全然出来なかった。
Q 日本政府に対して言いたいことはありますか?
A 日本の30、40才の人は当時のことを知らないだろうが、本当に辛かった。日本政府はそこのところを考えて欲しい。

朴・Suさんの証言

 以下は、1996年5月22日に第14回口頭弁論でおこなわれた本人尋問です。朴・Suさんは富山の不二越工場に動員されました。質問は李弁護士です。(「関釜裁判ニュース」第16号に掲載されました)
(1930年生まれ。家は農業。兄弟は3人で上から二番目。3人とも学校に行った。)
Q 荒木シホという名になったのはいつですか?
A 国民学校二年生の時。
国民学校は朝鮮人だけで、隣に日本人学校があった。
勤労挺身隊という言葉は富山に行って初めて知った。影山先生から「日本に行ったら勉強ができる。生け花ができる。一番に行くのが有利だ」と説明を受けて、喜んで一番に行ってやろうと思った。影山先生の言うことは何でも信じていた。色々教えてくれるし、学校の時間の方が長いので自然に情が移った。「愛国するように」とすすめられた。
Q 愛国とは?
A 天皇陛下によくやることが愛国と信じていた。
Q 日本が戦争をしていることは知っていましたか?
A 知っていた。「ベイエイゲキメツ」(日本語で)と聞いていたから、アメリカとやっていると知った。
Q 仕事はどうでしたか?
A 細い針金切り。毎日、六干、八千本。終わらなければ残業。一見、身体が弱そうだったのでこの仕事。体格のいい人は旋盤作業。重い。
Q 不二越工場を見た感想はどうでしたか?誰が作業していましたか?
A 何をするのか木安だった。一見、家庭から通っている女学生みたいな人がいた。12〜13才の女の子はいなかった。影山先生の話とは完全に違う大変きつい仕事だったが、国のためと誇りをもってやった。
空襲が恐くて不眠症になった。病気になって病院に行ったけど病名は知らされなかった。薬をその都度、朝夕一錠しかくれなかった。薬を飲んだら力が抜けて寝ていた。今考えるどその薬は精神安定剤だったと思う。一ヶ月程寮の部屋にいたが、早く治って、早く仕事がしたかった。病気だから家に帰す話を聞いたことがあるが、皆がいるのに自分だけ帰るわけにはいかないと思った。
Q どのようにして帰国しましたか?
A 何も聞いていない。ただ船に乗れといわれた。船に乗ってはじめて沙里院に疎開すると知った。沙里院の場所も知らなかった。沙里院に二日泊まってから家に帰れと言われた。両親に会えるのが嬉しいと思う。一方、日本が戦争に勝って帰りたいと思った。
Q 敗戦を知りましたか?
A 周りの人から「解放」と間いた。意味が分がらなかった。天皇の為に尽くしたのに本当に残念だった。アメリカが憎かったのに、周りの人は喜んでいたので、気が狂ったと思った。
Q 朝鮮が日本の植民地になっていたことを知っていましたか?
A 小さい時から日本人でいたので知らなかった。朝鮮がかつて独立した国であったことも知らなかった。戦争に負けたから日本が可哀相だと思った。17才になって働いて、職場で色々な本を読んで、植民地だったことを知った。
Q 勤労挺身隊として働いたことを周りの人に話しましたか?
A 一切秘密。当時「慰安婦」と間違われるので、夫にも子供にも秘密だった。話せなくてずっと胸におさめてきたので、心の重荷になった。ベルがなってもビクビクする。
Q もう秘密にしないでいいと思ったのはいつでしたか?
A テレビで慰安婦と挺身隊は違うと言っていたので、息子にだけは話した。3〜4年前のこと。
Q 原告に加わったのはどうしてですか?
A 幼い時にだまされた。だました日本政府は補償すべきではないか。日本の軍需工場で飛行機の部品をつくっていたのだから、日本の責任だと思う。
Q 名乗るまでの五十年間に補償を求める気持ちに変わったのはどうしてですか?
A 神経衰弱で弱っている。日本のために一生懸命尽くした。尽くした分は補償すべきだと思うようになった。
Q (山本弁護士)国艮学校で朝鮮語を習ったことはありますか?
A 一年生まで習ったような気がする。その後、友人同士朝鮮語で話をしても罰を受けた。ムチで手や足をたたかれたり立たせられたり、トイレ掃除をさせられた。朝鮮の歴史を習ったことはない。日本の歴史は習った。歴代の天皇の名を今も覚えている。
(日本語で)じんむ、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん、こうれい、こうげん、かいか・・・。教育勅語、皇国臣民の宣誓を毎日暗証させられた。天皇に対して忠誠を尽くさねばならないと。
Q 「愛国」とは天皇に対する気持ちの実行ですか?
A はい

梁錦徳さんの証言

 以下は、1996年7月25日に第15回口頭弁論でおこなわれた本人尋問の要旨です。梁錦徳さんは、三菱名古屋工場に動員させられていました。質問は山本弁護士です。(「関釜裁判ニュース」第17号に掲載されました)
戸籍では1931年2月28日生まれとなっているが、1929年11月30日生まれである。韓国の羅州で生まれ、両親は母の実家の土地の小作をしていた。姉4人兄1人合わせて6人兄弟の末子。
Q 勤労挺身隊の勧誘はいつ受けましたか?
A 羅州公立国民学校6年の5月。1943年です。満13才の時。
Q 勧めた人は誰ですか?名前は?
A 校長先生と憲兵が二人教室に入ってきた。校長先生の名前はマサキ先生。憲兵の名前は近藤。校長先生が「コンドウさん」と呼んだ。
Q 憲兵はどんな服装をしていましたか?
A 背が高くて、体格が立派で、黄色い帽子に赤い星のマークがあった。日本刀を下げていた。
Q 憲兵は他の時にも教室に入ってきましたか?
A 挺身隊の勧誘の時以外はこなかった。いつも校長先生と一緒だった。
Q 校長は何と言ったのですか?
A 近藤さんについていけぱ、女学校も行けるし、お金も儲けるし、いい服も着れるし、帰ってくるときは家一軒建てるぐらいのお金がもらえる。ごはんもいっぱい食べられる。
Q 近藤さんは何と言ったのですか?
A 同じことを言った。
Q 日本に行くことは聞いていたのですか?
A はい。しかし日本の何処に行くかは聞いていない。
Q 日本で働くということは聞いていましたか?
A 教室では聞いていないが、働けばお金もうけになると聞いていたようだ。
Q 給料とか労働時間については?
A 聞いていない。
Q 校長と憲兵の話を聞いてどう思いましたか?
A 幼い心で、女学校に行けること、お金がもらえるということで有頂夫になった。
Q 韓国にいたら女学校に行ける境遇でしたか?
A 末子で頭が良かったから行けたと思う。お父さんが勉強すれば行けると言っていた。
Q あなたの他に行きたいといった人いましたか?
A クラス全員が手をあげた。頭が良くて、体が丈夫な9人が選ばれた。
Q 指名したのは、担任の先生ですか?
A 校長と憲兵が指名した。担任の先生は女でマスモトといった。
Q 両親の許可はもらいましたか?
A 担任の先生から面親の許可をもらうように言われたが、両親、兄弟、身内まで全員反対された。両親が寝ている間に棚の上にあった印鑑を盗み出して、担任の先生にわたした。その書類の内容については知らない。他の友人も皆同じように親の目を盗んで印鑑を持ち出した。両親は出発前日まで猛烈に反対したが、校長先生と憲兵から、印鑑を押して行かなかったら親を捕まえると言われて、私が行けばお父さんが警察に行かなくてすむと思った。
Q 日本がアメリカと戦争していたことを知っていましたか?日本に行けば空襲にあうことを知っていましたか?
A どちらも全然知らなかった。
Q 何処から行きましたか?何名行きましたか?
A 羅州から24名いった。13〜16才だった。麗水には32〜33名いた。光州・木浦等、麗水に集まったのは全部で約140名。皆女性。着いて降りたところが名古屋だった。
Q 麗水まで連れていった人は誰ですか?
A 憲兵の近藤という人。
Q 羅州から学校の先生がついて行きましたか?
A 孫先生。創氏改名された名が松山先生という人がついてきた。校長先生から言われてただ一緒についてきただけ。我々が泣いたりするので校長がついていけと行ったのではないか。
Q 行き先が「三菱」だといつ聞きましたか?
A 寮に入ってから聞いた。
Q 授業は受けなかったのですか?
A 飛行機の部品等を黒板に書いて、研修を二週間うけた。このまま女学校に行けると思って一生懸命だった。
Q 仕事はどうでしたか?
A 二週間程ヤスリをかける事を教わってから、アルコールで部品を洗い、ペンキを塗る仕事をさせられた。6時起床、8時から仕事。冬は5時まで。夏は6時まで。ずっと立ったままだった。
Q 辛かったことは何ですか?
A お腹がすいたこと。小さい体だから大きな機械をもって動くだけで精一杯で辛かった。ペンキの臭いで鼻がきかなくなった。最近手術をした。アルコールが目に入って視力が半減した。今は殆ど見えない。
男がげんこつで殴りながら仕事を教えた。
Q その男性は日本人ですか?年令は?
A 日本人の男性。裁判長位の方もおったし、40代の方もおられた。幼いもので覚えが悪くて「これだけ教えてもわからんか」と叱られて、殴られた。
Q 服装は何を着ていましたか?
A 山添寮長から上衣とズボンをもらった。真ん中に日の丸、左右に「神風」と春いたハチマキをして働いた。
Q 寮はどうでしたか?
A 6畳の部屋に7〜8人ずつ年令別に入った。山添三平寮長は父親のように可愛がってくれた。「母さん」「兄さん」と呼べと言われた人達は仕事をせかすだけだったが、山添さんだけは実の父親のような気がしていた。立派な人だった。
Q 寮から工場へは行くときはどうでしたか?
A 四列縦隊で軍歌を歌いながら行進をした。30分程。帰りも一緒だった。帰りは近所の日本の子供達から「朝鮮人のルンぺン」と、からかわれた。怒って向かっていくと監督に殴られた。工場の外に団体で出たことはあるが個人では出たことがない。
Q 食事について。魚を食べたことはありましたか?
A 一週間に一回位は最初は出たが、だんだんなくなった。
Q いつもお腹をすかしてスイカの皮を食べたそうですが?
A (号泣しながら)スイカの皮が捨ててあったので寮長さんに見えないようにとって上衣の中にいれて、帰って砂をはきながら食べた。
食事のときは日本人が終わってから食べることになっていて、残飯のバケツに手を入れた途端、日本の女学生から手を足で踏まれ「半島人ルンペン」と言われた。
Q 1944年終わり頃地震がありましたが、どうだったですか?
A 韓国では地震というものは体験したこともないので、空襲と思ったが、地面が揺れていた。旋盤の上においてあった器具が全部おちて、脇腹や肩に当たって怪我をした。生き埋めになって何とか口が出る位の穴をほって助けてくれと叫んだ。男の人が来て助けてくれた。一緒に来ていた二人が亡くなった。自分のすぐ後を逃げていた金田武子さんらが壁が崩れて即死した。
Q 甲九号証「全羅南道羅州隊」の写真にあなたはいましたか?
A 前列の真ん中で、右から6人目が私。亡くなった2人もいる。
Q 空襲はどうでしたか?
A 毎日、夜中の1時、2時に来るので防空壕に逃げた。走りながら、父母に会えなくなるかもしれないと思った。同年輩の日本人が疎開していたとは知らなかった。米軍機が落ちた時、遠いけど行ってへ米兵の死体を踏んだり、つばをかけたりするよっに言われ、させられた。
1945年の暖かくなった頃、工場ごと富山に移った。
Q 給料をもらったことはありましたか?
A (机をたたいて泣きながら)一銭ももらっていない。このうっぷんを誰にはらしたらいいのか。一年半働いた。売店で必要なものを少し買う位で、お金は帰る時に全部あげるから貯金しなさいと言われた。
Q 学校に行かせる約束はどうでしたか?
A 聞く度に「来月から」「来月から」と言うだけだった。
父は私が終戦後ニカ月たっでも帰ってこないので心配で死んでしまった。母から勉強もしてお金ももらったかと聞かれて、「全てがうそだった」と言っていつまでも二人で抱き合って泣いた。
Q 結婚しましたね?
A (泣きながら)結婚の話があったが、勤労挺身隊に行っていたということで皆断られた。20歳にもなって隠れて全然知らない所の人と結婚した。その頃の結婚年令は17〜18歳だった。夫には亡くなるまで隠していた。
Q 体調はどうですか?
A 薬で生きているようなものだ。夜になると頭が針でさすように痛い。雨が降る前などは体全体が針でさすように痛い。
Q 日本政府は個人補償をしないと言っていますが、どう思いますか?
A 私の体に後遺症が残ったが補償をしろとは言わないが、私が1年半働いたお金と利息を払って欲しい。青春を棒にふったことが梅しくてならない。

李・Yさんの証言

Q 勤労挺身隊として日本に行ったのは何才でしたか?
A 13歳です。国民学校6年生。
Q 日本名は何でしたか?
A 岩本えい子。
Q 家族は何人いましたか?
A 両親と兄2人、弟3人、と私。8人です。
Q 勤労挺身隊に動員されたきっかけは何でしたか?
A 校長と担任の先生が、給料もたくさんやるし、勉強もさせてやる。これからも韓国の人がいっぱい行くから一番に行った方がよいと。
Q 何年働くと聞きましたか?
A 2年満期。行き先は聞いていない。
Q 校長と担任の勧めで行くと決めたのですか?
A 先生の言葉は絶対でしたから。
Q 親に相談しましたか?
A 親に言えば反対されると分かっていたので行くことが決まってから言った。
Q 誰が引率しましたか?
A 担任の先生。
Q 東京麻糸での仕事はどうでしたか?
A 工場は、麻の繊維を電気で回る心棒に巻きつけることをしていましたが、私の仕事はローラーに巻きついた繊維を取り除くことでした。
Q 働く時間は何時間でしたか?
A 一日12時間です。朝5時に起きて、朝食をとって工場に行き、6時か7時から、夜6時か7時まで。
Q 食事はどうでしたか?
A さつまいもが主で、韓国の両親のもとでお腹を空かすことがなかったのに、お腹が空いて一日中立って仕事をするのが辛く、夜になるとお腹が空いて家族のことを思い出して泣いた。
Q 外に出ましたか?
A 外出できません。ただ天野さつ子さんという同じ工場で働いていた人に誘われて、彼女の家に行ったことがある。
Q 東京麻糸で働いて恐ろしい経離をしましたか?
A 地震と空襲です。工場に爆弾が落ち、寄宿舎も燃え、田んぼに避難して水の中でじっとしていた。
Q あなたが辛い時歌った歌がありますか?
A (日本語で)
一つとや、人も知らない静岡の、静岡の、麻糸会社は籠の鳥。
二つとや、二親別れて来てからは、来てからは、二年満期は勤めましょう。
三つとや、皆さん私の事情を見て、事情を見て、哀れな女工さんと見ておくれ。
四つとや、夜は3時半に起こされて(以下不明)
五つとや、いつも見回り言うとおり、言うとおり、心棒遅れず綿を取れ。
六つとや、向こうに見えるは沼津駅、沼津駅、乗ってゆきたい我が故郷。
七つとや、長い間の散る涙、散る涙、流しているのも国のため。
八つとや、山中育ちの私でも、私でも、会社の芋飯食い飽きた。
九つとや、ここで私が死んだなら、死んだなら、さぞや二親嘆くでしょう。
十とや、とうとう二年の満期が来、満期が来、明日はうれしい汽車の窓。
Q どのようにして帰国したのですか?
A 誰が連れて帰ってくれたのか分からない。
Q 給料はもらいましたか?
A 一銭ももらっていない。
Q 現在誰と暮らしていますか?
A 夫と大学生の三男と3人で。
Q 体の悪いところありますか?
A 頭痛がひどいです。毎日のように病院に通っています。

姜・Yさんの証言

(1930年12月12日生まれ)
Q 日本名は何でしたか?
A 河本ハナ子。
Q いつ勤労挺身隊に入りましたか?
A 1944年の4月か5。満13歳の時。小学生です。釜山有楽国民学校6年生。公立学校です。
Q 勧めた人は誰ですか?
A 担任の先生で、斎藤シヅエ先生。日本人です。担任が変わったばかりで、どんな先生だったか覚えていない。
Q 先生は何と言って勧めたのですか?
A これから皆が行くことになるから、先に行った方が給料も多いし、勉強もさせてくれると。
Q 女子勤労挺身隊という名前は知っていたのですか?
A はい。
Q 工場に働きに行くと聞いていたのですか?
A はい。
Q 先生に勧められて日本に行こうと決めたのですか?
A はい。
Q どうして行こうと思ったのですか?
A 給料もいいし、立派な寄宿舎にも住める。
Q 先生を疑うことはしなかったのですか?
A 先生は神様のような方ですから、夢にも疑わなかった。
Q あなたの学校からは何人行きましたか?
A 5人行きました。
Q 親に言いましたか?
A 両親に大変叱られた。行く約束をしてから親に言った。
Q あなたの仕事はどんな仕事だったのですか?
A 糸巻に巻きつける時、麻糸が切れたりするので、糸をつなぐ仕事をしていた。
Q 何に使われていたのですか?
A 落下傘で物資を落とす時の麻袋をつくっていたと、クラスも工場も間じだった鄭水蓬さんが言っていた。
Q 一番思い出すのは何ですか?
A 両親に会いたかったこと。お腹が空いてたまらなかったこと。夜中の空襲がこわくてブルブル震えていたこと。
Q あなたと同年齢の日本人の子供は疎開していたことを知っていますか?
A はっきり知らない。
Q 沼津工場が空襲で焼けたあと別の工場へ移ったが、その場所を覚えていますか?
A わかりません。
Q 私達の調査では富士紡小山工場ということですが、覚えていませんか?
A はい。
Q 戦争が終わった日のことを覚えていますか?
A 天皇陛下から放送があると聞いた。日本人の方はうなだれていた。その日以降、仕事は無かった。
Q あなたは一人だけ取り残されたそうですが?
A 外出の許可をもらって出ていって帰ったら誰もいなくなっていた。
Q 数時間外出していたら誰もいなかったということですか?
A はい。泣きながら外に飛び出したら50〜60歳の男性にどうしたかと聞かれた。その人が助けてくれた。開放されたから一緒に帰らないかと言われて、その人の家で家事をしながら一ヶ月いて、その家族と一緒に韓国に帰った。
Q 両親は帰った時元気だったですか?
A 母は他の人が帰ったのに私だけ帰らないので大変心配していたそうです。
Q 挺身隊に行ってお金を少しでももらえましたか?
A 一円たりとももらえなかった。
Q 日本国に言いたいことはありますか?
A たくさんあります。幼い13歳の時だまされて日本にきました。いつもお腹が空いてたまりませんでした。
毎日空襲にあいまして震えながら仕事に励んできました。給料もくれて、勉強もさせるということでしたが何一つ実行されませんでした。腹がたってたまりません。働いた分だけ返して下さい。日本政府は一日も早く給料を返して下さい。

鄭・Sさんの証言

 私は釜山の有楽国民学校六年生の時、勤労挺身隊として動員されました。1944年の5〜6月で、6年生になったばかりのころです。担任の斉藤シズエという日本人の女の先生が、勧めたのです。先生は、挺身隊に行けば勉強もさせてくれるし、待遇もよい、給料も良いし、寄宿舎もよい、第二次も行くが、第一次の方が待遇がいいと言いました。当時は先生と言えば神様と同じで、担任る先生が言うことは全て信じました。担任の先生が日本人だからもっと信じたのです。父母は泣いて反対しましたが、私は先生の話を聞かなければいけないと思いました。満期は2年という話は聞いていましたが、2年という歳月の実感はありませんでした。解放後釜山に帰ってみると、斉藤先生はもう居ませんでした。
 その日、学校に集まり、旅館で一泊しました。旅館には各地から100人位の人が集まっていました。翌日検疫所に行き、裸になって消毒水の風呂に浸かってから、連絡船に乗りました。翌朝下関に着き、すぐに汽車に乗って沼津に行きました。
 沼津の駅前には楽隊が来て出迎の式をして、30分位歩いて工場に行きました。他からも若い女ばかり沢山来ていました。

原告のPTSD(心的外傷後ストレス障害)診断