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原告の河順女(ハ・スンニョ)さんが亡くなられました。

 5月5日、元「慰安婦」原告の河順女さんがなくなられました。この3、4年間足が悪くて歩けなく、便秘と下痢のくりかえしで、薬で押さえていましたが、今年から体力も落ちていたそうです。亡くなる2週間前からは、昼も夜も静かに寝ていたそうですが、急に心臓麻痺で入院して6日後に亡くなられたました。享年82歳でした。7日に葬式をされたそうです。知らせが、5月9日の夜入ったため、葬式に出席することもできず心残りです。
 河順女さんは、1992年12月の提訴の時、翌93年4月の支援する会の結成集会の時、同年9月の第一回口頭弁論で意見陳述された時、合計3回来日されました。その後94年本人尋問で来日する予定でしたが、家の前で転倒して足を悪くされたこと、それ以上に、長い裁判に気力が続かず来日されませんでした。以後来日することはありませんでした。
 河順女さんは、19歳でだまされて上海の陸軍慰安所に連れて行かれ、7年間「慰安婦」生活を強制されました。途中あまりに苦しくなって慰安所から逃げ出して捕まり、経営者から全身を棒で強打され、特に頭に深い裂傷を負い、生涯頭痛に苦しめられました。
 解放後は各地を転々とし、朝鮮戦争で釜山に逃れて来て以降、家政婦などをしながら独身を通しました。晩年は甥の家を頼り、軒先3帖ほどの部屋で生活していました。雨の日は頭痛がひどく酒を飲んで痛みを紛らわしていたそうで、長引く裁判に気力が耐えられなかったようです。
 最後にお目にかかったのは、98年9月、私と連れ合いが尋ねた時です。韓国政府から出た一時金で妹さんと小高い山の中腹のアパートに部屋を借りて静かな生活をしていていました。久しぶりに尋ねた私たちをうれしそうに迎えてくれましたが、裁判の話はほとんど関心を示してくれませんでした。足も悪く家具に捕まりながらよろよろと歩いていました。そうした事情で、控訴審への出廷の誘いを断念していました。まさかこんなに急に訃報に接しようとは思いもよらず、妹さんとの連絡態勢を密にしてなかったことが悔やまれます。
 関釜裁判の原告たちは提訴して8年4カ月、全員生きて裁判を続けて来ました。しかしついに一番高齢だった河順女さんが亡くなられました。長い裁判は原告たちの老齢を重ね、入退院の報に接することが多くなってきました。残された原告たちの多くは裁判を生きがいにしておられます。日本における戦後補償裁判は多くが控訴審に入り、無残な判決が続いています。あらゆる手立てを使って原告たちの希望を持続できる法廷内外の闘いを続けて行くこと改めて肝に銘じたいと思います。
( 関釜裁判を支援する会福岡 花房俊雄)


恨を解かずに逝った河順女さん
安らかに眠って下さい


 昔、チョウオリョンという水泳選手が泳いで渡った玄界灘。その歴史の海を中にして韓国と日本は数世紀の間、恨の年月を泣きました。いや今も泣いています。
四百年余前豊臣秀吉の野望による壬辰倭乱で日本に連れて来られた陶工らの血と涙が流れ、侵略の船の道となった玄界灘。
 太平洋戦争の時は、日本軍の「慰安婦」として連行され、その痛苦の波はより高く、より激しく泣いた。純白な心と体を取られて恥辱で傷だらけ、血みどろになった恨を解こうと玄界灘を行ったり来たりして裁判所にも通った。
最後まで恨を解かないまま、天に逝ってしまった河順女さん。解決を見ずしてこの世を去ったあなたたちの憤怒や民族の怒りを神さまは知っており、じっと見つめています。
 河順女さん
永遠の世で会うその時まで安らかにお眠り下さい。
(光州遺族会会長 李金珠)


河順女さんを悼んで

 五月五日、元「慰安婦」原告・河順女さんは心臓麻痺で八二歳で亡くなられました。関釜裁判の十人の原告の中で始めての死者です。高齢だから考えていなかったわけではないですが、「死」が現実になると、胸が締め付けられるように痛み、後悔の念で頭を抱えました。もちろん死に目に会えなかったことではありません。名乗りでて、日本国を相手に裁判をしながら、彼女はその思いを貫く事の出来なかった人だからです。九二年十二月提訴の時、九三年九月第一回口頭弁論で意見陳述された時と計ニ回来日されましたが、「本人尋問」に耐えることが出来ず、打ち合わせの途中で拒否されてから二度と日本に来られていません。
 おしゃれでかわいいおばあさんで、解放後独身を通し、住み込みの家政婦などをしていて、働けなくなってからは、甥の家の軒先三帖ほどの所でやっかいになっていました。挺対協を中心に韓国で国民募金運動がなされ、支援金が出たときに靴を八足買って甥を激怒させました。韓国政府から一時金がでてからは、妹さんと釜山の小高い山の中腹で家を借り穏やかに暮らしておられました。しかし上海の慰安所から逃げ出して捕まった時に酷く殴られた頭の傷の後遺症で終生頭痛に苦しめられ、酒とタバコで痛みを紛らせておられたようです。九四年に家の前で転んで足を痛めてからは外出もままならず、ここ二‐三年は歩く事も出来ませんでした。
 穏やかな「死」であったこと、苦しまずに亡くなられたことがせめてもの慰めなのですが、河順女さんが長引く裁判に気力が続かず、自分の被害事実に正面から向かい合うことなく、逝ってしまわれたことを無念に思います。他の二人の『慰安婦』原告の方が苦しみながら自分の被害と向き合う中で素敵に変わっていかれた事を私たちは目撃しているからです。

 李順徳(イ・スンドク)さんは十八日に日本についてから河順女さんの訃報を聞くと、順女さんの遺影を慈しむように撫ぜながら「可哀想に。オレと同じ目にあって、子供もいなく、ひとりで…可哀想に…」と何度もつぶやいておられました。
 順徳さんは昨年夏死にかけたそうで、生還してからは一皮むけたように感情が開放的になってきているように思います。夢の中で白い服を着た白いひげのおじいさんが、扉の前で「おまえはここにきてはいけない。その犬についていきなさい」と白い犬を指さしたという。その犬についていったら湖に入っていって、一緒に彼女も中に入ったら、犬が死んで彼女は目が覚めたそうで、気がついたら寝床の周りで大勢の男女が泣いていて、彼女は死装束を着せられていたそうです。「死」んでいた時間は四時間だったそうです。 李順徳さんは今回の意見陳述で、「神様がもう一度生きて裁判する時間をくれた」と語っています。
 順徳さんは八一歳、朴頭理さん七五歳・・ 裁判を生きがいにしている彼女たちと生きて共に闘える時間はそう長くはないと、今回、思い知らされました。一回一回の裁判を大切に、悔いのないようにしたいです。
 河順女さんは私たちの心の中で生きていて、傍聴席から原告席にニコニコと座る彼女をみることでしょう。河順女さんは、原告ハルモニたちと私たちのなかで生きています。
(関釜裁判を支援する会福岡 花房恵美子)