封印された過去 −日本人慰安婦たち− (後編)

  平尾弘子

 アンボンの滝の流れる近くに在った慰安所には、日本人の他、朝鮮人、中国人、タイ人の女性もいたが、この人は、日本人慰安婦の境遇にことの他、同情を寄せていた。話の合間にもIさんは、何度か、
「政府もあんたがたも韓国人の慰安婦の支援ばかりして何故、日本人のことをほおっておくのか。」
と、激しい口調で言い募った。謝罪と補償を求めて名乗り出た日本人がいないからだと言っても、老人は聞こうとはしない。
 思えば、戦後六十年も経ちながら被害者が名乗り出られないような状況が続くこの社会の在りかたとは何なのだろう。真相も責任も全てがうやむやのままで、国が膨大な資料を隠匿したままにしていること…近代日本の公娼制の問題点を共有することもなく、また、慰安婦は、全て元々、売春に携っていたというような誤った認識が広く流布されている状況を放置していること…これらが相俟って、硬直した社会認識を変革できずにいるのだ。
 そして、老人の話を聞くうちに、何故、彼がこれ程までに日本人慰安婦の問題にこだわるのか、理由が明らかになってくる。

 1944年7月、スラバヤからアンボンに転属したIさんは、兵舎にいても寂しいから外出しないかと同僚に誘われ、慰安所に行った。「うめまる」と名乗る十六か十七歳の日本人慰安婦が出てきた。どう見ても子どもにしか見えず、相手にしなかったところ、あどけない顔の「うめまる」は、ふて腐れたように自分を抱けと迫ったという。
 この間の事情は、多分にIさんの脚色があるような気がする。
 そうこうするうちに「うめまる」とけんかになり、騒ぎを聞きつけ、そこへ姉さん格の紅い友禅の着物を着た女が現れた。慰安所のような所では、こういった騒ぎは日常茶飯事であったろうから、手慣れた年長の者が仲裁に入ることになっていたのだろう。
 しかし、忽然と現れたこの女は、何を思ったのか、彼にいきなり故郷の九州の言葉で話しかけてきた。
「兄さん、めずらしか、私やが。」
逆上していた男は、事情が呑み込めず、
「お前に兄さんと言われる筋合いはなか。」
と怒鳴りつけたそうだ。女の方は、冷静で、
「七年も会わんから、わからんのやろう。『石原の手切れの娘』(文中仮名)と言ったらわかるやろう。」
と平然と言い放った。
 その時、始めて眼前の紅い友禅の女が、親戚の娘、「まさこさん」であることに気づいたそうだ。「まさこさん」の父親が海南島に軍属で行って、手を負傷したため、『手切れの石原』と通称されていた。無理もない。Iさんが入隊した時、この女性は、まだ幼い少女であり、それから七年近い月日が流れていた。その間に彼女の身に起こったことを考えれば、変貌ぶりも窺える筈だ。
 驚いたことにその慰安所には、「まさこさん」だけでなく、妹で当時十六歳位の「はるこさん」も連れてこられていた。姉妹で同じ慰安所に入っていたのだ。
 「まさこさん」と「はるこさん」が、同郷のしかも親戚の娘でもあることから、Iさんは、慰安所の日本人慰安婦と急速に親しくなっていった。
 人間の記憶というのは、ある部分、極めて鮮明に昨日のことのように残影が凝集されていく。日本人慰安婦たちと親しくなったIさんは、ある時、将校が土産として慰安婦に与えた干し鰯二十匹をもらったそうだ。兵舎に戻ってから誰に何匹ずつ、分け与えたかを今も正確に覚えていた。
 日本人慰安婦にまもなく、自分の所属部隊がセラムに移転すると告げると、女たちは、泣いて連れて逃げてくれ、日本に帰りたいとIさんに懇願した。しかし、七名もの女性を連れて見知らぬ南方の地のどこに逃げる場所があるだろうか。また、捕まって一番最初に憲兵に殺されるのは、自分でもある。日本に戻ることができるように話をつけるからと、なんとか女性たちをなだめたという。
 「うめまる」と名乗っていた幼い慰安婦は、歌を作っていた。

 アンボンの港は 夜霧がふかい ふかいはずだよ 軍服濡らす
 濡れた軍服は どなたが乾かす 立つや かもめの三本マスト

 その歌をもし、生きて日本に帰ることがあったなら、必ず覚えておいてくれと彼女は、Iさんに頼んだ。
 結果として彼は、この日本人慰安婦たちの帰還に少なからず尽力することになる。

 軍隊というのは、私たちが想像する以上に一人一人の兵士の来歴から行動まで全てを把握、管理していた。当時、七年兵の万年兵長であったIさんは、慰安婦の帰還に関する内容を含んだ指令と推測される四通の手紙を大阪出身の楠本副官から直々に公用証を付けて、慰安所へ届けるよう命令されている。
 どういう経緯があったのか、慰安所には中将や憲兵隊の者が来ていた。四通目の手紙の文面に眼を通した憲兵は、それまでの態度を一変させ、伝令役に過ぎないIさんに「ありがとうございます」と敬礼したという。紙面の内容をIさんは、知らない。
 多くの日本人慰安婦は、名目は看護婦として日本内地に帰っていったとIさんは、証言する。Iさんの所属していた第U大隊も1944年8月4日にアンボンを出発し、セラム島に向っている。
 しかし、戦局の悪化したアンボンの地から日本人慰安婦を本国に戻した後、日本軍は、先に言及したような更なる暴挙を重ねていった。

 Iさん自身は、1946年6月15日、インドネシアのスラバヤから和歌山に上陸し、帰還を果たした。(戦記連隊略歴によれば、第U大隊は1946年6月14日和歌山県田辺港帰着、復員完結と記)
 しかし、やっと故郷に戻ることができたというのに、そこには衝撃的な事実が待っていた。家に帰ってまず帰還の報告をするため、仏壇に手を合わせると、なんと妹の写真も仏間に飾られてあった。驚いて母に問い質すと、妹の一人も看護婦の仕事と騙されて南方で慰安婦にされ、猫いらず(殺鼠剤)を飲んで自殺して果てたという。
 骨も戻ってこなかった。老人は、この事実を思い出すと、未だに死んでも死に切れない思いに捉われると語った。
 実の妹を含めた犠牲者をいったい誰が連れていって、誰が利権を得ていたのか、真相を知りたいと願い、復員後、市役所の援護局などにも出向いてみたが、まったく相手にされなかったそうだ。
 結局、Iさんの周辺で実の妹を含め、三人もの女性が、日本軍慰安婦制度の犠牲者となっている。
 この元兵士は、二回目の聞き取りの際も初年兵の時に受けた暴行やいじめの話を繰り返したが、ざわついたファミリーレストランの一角で、急に太い濁声を押し殺して、周囲を訝るかのように指をそっと四本立ててみせた。私は、その意味をすぐには呑み込めなかった。
 四つ立てた指は、「四つ足」、すなわち被差別部落を現す隠語を指していた。
 初年兵に対するリンチは、日本軍の体質から派生し、恒常的に存在したものと考えられたが、Iさんが受けた暴力には、それを凌駕する理不尽さが隠されていた。
 厚生係の兵士が指摘してわかったことだが、Iさんの名簿には赤線が入っているとのことだった。赤線の持つ意味を厚生係の者も知ってか知らずか、Iさんには告げなかった。
 兄は、兵士として狩り出され、被差別部落出身であるが故に軍隊内で凄まじいリンチや苛めに遭う。しかし、反面、日本軍の一兵卒として殺戮や強姦を中国やフィリピンの村々で平然と行ない、慰安所にも出入りする。一方、妹は、戦争・国家・貧困・部落・女性―幼い少女の身で担うには担いきれない様々な円環の連鎖の果てに性奴隷とされ、自ら命を絶ってしまった。
 把握しようとしても把握することのできない、戦争というもの、そして人間が編み出した差別構造というものの、混沌とした言語に絶する形相が浮かび上がってくる。
 思えば、この眼前の老人も軍隊内や戦後の社会の中で、一定の地位や名誉、財産を得ていたならば、戦後六十年も経ってから私たちの前に出てきて慰安婦に関する話をすることもなかっただろう。
 もっと言えば、この社会の差別構造の中に一生を陥れられていたため、恨みや憤りの熾火を燃やし続けてこれたのかもしれない。

 冬の白い寂寞とした空の下、Iさんが住む市営住宅の灰色の棟が連なって見える。
 杖をつき、高血圧症で病院通いが欠かせないというIさんを自宅まで聞き取りに同行した三名で送っていった。
 この元兵士は、帰還後、故郷で釣具店を経営し、生計をたててきたという。同じ地区出身の「まさこさん」、「はるこさん」もまた、部落に戻っていた。
 建てられてから何十年の歳月を経て、老廃したコンクリートの棟が立ち並ぶ団地の中を老人の手を引き、私はゆっくりと歩いていった。
 戦後、結婚し、養子を迎えた「まさこさん」に一度だけ、Iさんは出会ったことがあるという。いったい、いつ、どこで、どのような経緯で「まさこさん」と言葉を交わしたのか、老人の記憶は曖昧だった。
 Iさんは、多分、今と変わらないような野太い声で、
「子どものできんような体にされて、金をもろうたか。」
と頭ごなしに問い質したのではないだろうか。それに対して、「まさこさん」は、
「誰に言っても同じこと。子どもに知られたら生きておられん。子どものためにほっといてくれ。」
と答えたそうだ。
 慰安婦とされた女性の多くが、生殖器を悪くして子どものできにくくなっていることは事実である。どうしても子どもが欲しい場合は、「まさこさん」のように養子を迎えたりしただろう。実子として手塩にかけて育てた子どもや家族の者に、まず自分の過去を知られたくないという思い、そして、何よりも養子であることを明かしたくないという二重の煩悶があったと想像できる。
 しかし、その時の彼女の苦渋の表情や内面の真実を誰も読み取ることなどできないだろう。
 私もIさんの記憶の中で生きている、一面的に捉えられた彼女の肖像のごくわずかな片鱗しかここに留めおくことができない。
 「まさこさん」は、K市内の総合病院で既に亡くなっていた。過去は、封印されたままであり、一人の女性の胸をかきむしられるような慟哭も怨嗟も白い虚空に葬られていった。
 今は、ただ何も語らない暗い二つの眼窩が土の中に眠っている。 

 民族、国家、戦争、性、部落差別…あらゆる問題が交叉する断層に身を置いたため、彼女たちの被害は、捨て置かれた。
 しかし、戦前の被差別部落の閉塞した空間の中で、苛酷な差別と貧困に曝され、充分な教育を受ける機会も与えられないまま幼くして日本軍の性奴隷とされた彼女たちと、当時、日本人としての権利を充分に享受し得た人々の責任とを同列に付してはならない。
彼女たちの存在を懊悩を、これ以上、黙殺していてはならない。既に戦後、六十年近い月日が経過しようとしている。
 この国の明るく糊塗された何気ない日常の光景の深部には、未だに何一つ変わらず、分け入ることのできなかった闇が、揺らぎなく横たわっている。 

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