封印された過去 ー 日本人慰安婦 (前編)

  平尾弘子

 「うめまる」、「うめか」、「はるこ」、「まさこ」…九十歳近い老人は、はっきりとその女性たちの名前を記憶していた。
 六十年前、現在のインドネシア、アンボンで旧日本軍の慰安所にいた日本人女性の名である。

 陸軍の山砲兵第四十八連隊に所属していたという旧日本軍兵士の老人は、慰安婦問題の立法解決を考える集会の新聞記事を読んで連絡してきた。
 戦友会のかつての同僚たちは、慰安所にまつわる話に触れることを快く思わないだろうが、しかし、死ぬ前にどうしても語っておきたいことがあると杖をつきながら不自由な体をおして、訪ねてきた。補聴器を付けていたが、こちらの話は、ほとんど聴こえておらず、会話がなかなか成立しない。老人は、耳が遠いため、野太い声で過去の記憶を行きつ戻りつしながら話をしていった。
 封印されてきた戦争の実相にわずかでも迫ってみたいと願っても、戦後六十年という歳月の長さと、残された時間が限られていることを改めて実感する。

 この元日本軍兵士、Iさん(本人の希望により匿名)は、1939年(昭和14年)に入隊し、台湾から中国海南島、福建省、フィリピン、インドネシアと下級兵士として転戦していった過程で日本軍が駐屯していた様々な地の慰安所を見聞きしてきたという。
 1944年、終戦間際のインドネシア、アンボンの慰安所には、十三名の女性がいて、そのうち、七名が日本人であった。Iさんは、何度も繰り返し語った。アンボンに来るまでは、「朝鮮ピー」(軍隊での朝鮮人慰安婦の蔑称)の存在は知っていたが、日本人の女性まで慰安婦として狩り出されているとは思いも寄らなかったと。
 彼女たちの大半は、看護婦や女給の仕事と誘拐まがいに騙され、慰安婦として狩り出された境遇がほとんどだったという。

 戦前、中国・上海の海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせる目的で、日本から女性をだまして連れて行った日本人慰安所経営者らが、国外移送目的の誘拐を禁じた旧刑法226条の「国外移送、国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で1937(昭和12)年、大審院(現在の最高裁)で有罪の確定判決を受けていた。〈中略〉「国外移送誘拐被告事件」と題されたこの判例によると、事件の概要は、上海で軍人相手に女性に売春をさせていた業者が、32年の上海事変で駐屯する海軍軍人の増加に伴い、「海軍指定慰安所」の名称のもとに営業の拡張を計画。知人と「醜業(売春)を秘し、女給か女中として雇うように欺まんし、移送することを謀議」し、知人の妻らに手伝わせ、長崎から15人の日本人女性を上海へ送った。
       毎日新聞1997年8月6日

 日本から女性を騙して連れていった慰安所経営者らが、「国外移送、国外誘拐罪」で1937年、有罪の確定判決を受けた翌年、1938年には陸軍兵務局兵務課から「軍慰安所従業婦等募集に関する件」、内務省警保局から「支那渡航婦女の取扱に関する件」、と立て続けに通牒が発せられている。要約すれば、中国での慰安所設置のため、慰安婦を募集する際、軍部諒解の名義を利用し、誘拐に類した方法が取られる場合もあり、軍の威信を傷つけ、社会問題化する危険性もあるので、日本内地での募集にあたっては、現在、売春に携っている二十一歳以上の女性の渡航のみ許可し、募集の取扱いに関しては充分、配慮するようにとの内容である。
 日本人慰安婦の場合、公娼制の下で国家管理下、売春をさせられていた女性たちが、まず狩り出されていった経緯があるにしても、この様な通牒が陸軍と内務省から連続して発せられている背景には、慰安婦徴募に際し、人身売買や就業詐欺等の行為が、当時の植民地のみならず、内地においても少なからず横行していたことを物語る。
 そして犠牲者は、同様に当時の社会の底辺に在った貧しい階層の少女たちであった。
 賢明さや理性、様々な情報網からあらかじめ排除され、悪質な業者の魔の手から逃れる術が最初から断たれていた寄る辺のない少女たちーいつの時代も彼女たちが、真っ先に男たちの欲望の餌食に供されていく。過去百年の歴史の中で、日本は、アジア地域において、そういった少女たちの動向を左右する核となる磁力を温存し続けてきたのだ。

 この元兵士は、慰安所や敗戦後の帰還の過程については雄弁に語っていたが、具体的にどのような戦闘行為に携ったかは、多くを語ろうとはしなかった。
 唯、太平洋戦争開始時には、福建省の福州(フーチョウ)におり、討伐(抗日抵抗運動掃討戦)に参加したという。雄弁なIさんもこの時ばかりは言葉少なに、戦場には様々な人間がいたと語った。日本人の工作員も存在したという。
 最新鋭の兵器が駆使される現代の戦闘においても共通することだが、民間人の中に潜伏するゲリラ活動を掃討しようとする場合、兵士の心の中に恐怖と疑心暗鬼が膨れ上がり、必ず凄惨な住民虐殺という結果を引き起こしてしまう。
 耳の不自由な老人は、戦闘についてー殺さなければ、相手に殺されるものだーと太い声量で言い切った。手には、部厚い赤茶けた背表紙の一冊の本が、握られていた。
 『台湾山砲戦記』と刻印されたその本は、自家版で戦友会の者のみが所有しているという。夥しい付箋の付けられた黄ばんだページを合間に時折くって、話を継ぎ足していた。そして、この本を戦友会の者以外に閲覧させることはできないと話した。戦友会に属する人間の氏名や連絡先まで掲載されているという。
 本の中に連隊が関与した住民虐殺や慰安所に関する記述でもあるのだろうか。
 老人は、思わずこんな言葉を口にした。
「嫁さんがいる前で、あの女は良かった、女性を強姦したなどと言えない」と。
 しかし、旧日本軍の内包していた強い連帯感と排除の論理には眼を見張らざるを得ない。それは、六十年の歳月を経て今なお、元兵士の心の中に重く横たわっている。
 山砲兵第四十八連隊の戦友会によって、1984年初版七百部、1987年再版百三十部が刊行された『台湾山砲戦記』は、Iさんの思惑を超えて現在、各地の図書館に蔵書が確認された。
 その戦記の巻頭には、熊本県護国神社内に建立された台湾軍忠魂碑の碑文が掲げられている。

   碑 文
 吾が台湾軍は北白川宮能久親王を奉戴して台湾に進駐以来、全島の治安警備と南方第一線の重鎮として国防の任に当った。
 昭和十二年七月 日支事変勃発するや、勇躍征途に就き、中支貴腰湾に敵前上陸を敢行、尓後揚子江沿岸を遡行進撃して怒涛の如き敵軍を撃破し、遂に武漢三鎮を陥落せしめ、陸の魚雷と激賞された。更に反転南進して海南島を攻略し、これを拠点に欽寧公路をはじめ、南支一円を席巻した。
 昭和十五年十一月機械化部隊として陣容を整え、第四十八師団を編成し、大東亜戦争に突入するや、間髪を入れずフィリピンに進撃して首都マニラを制圧、息つく間もなくジャワ島スラバヤをこれ亦旬日にして一掃平定し敵前上陸の台湾軍として勇名を轟かせた。その後濠北小スンダ諸島に移駐し、新鋭有力なる台湾志願兵を加えて勘定の任に就いた。しかし戦局我に利あらず昭和二十年八月十五日終戦の詔勅を拝するに至ったのである。
 台湾軍創設以来、台湾の治安警備に中支南支の戦線に、将亦南十字の星のもと、南溟の海に孤島に、ひたすら祖国の必勝と繁栄を念じて散華された英霊の忠魂を讃え
  慈に碑を建て篤く顕彰する
  英霊よ 安らかに眠り給え
    昭和五十七年四月四日

 山砲兵第四十八連隊を含む台湾軍の軌跡は、近代日本のアジア侵略の爪痕をそのまま、なぞった感がある。連隊の創始は、碑文にもあるように1895年(明治28年)5月、近衛師団長北白川宮能久親王の率いる征討軍の台湾進駐に遡る。更に日本統治時代の台湾における先住民族の抵抗蜂起として名高い「霧社事件」の制圧にもこの連隊の前身である台湾山砲兵大隊が出動している。
 その後の日中戦争、太平洋戦争での足跡は、碑文に記されている通りである。揚子江中流の要衝であった武漢三鎮への侵攻や海南島侵略にも与し、太平洋戦争勃発後は、フィリピン、インドネシアと転戦し、終戦を迎えている。

   件の『台湾山砲戦記』という本の中で、老人は、慰安婦にまつわる記述がある部分の一箇所だけ私たちに見せてくれた。慰安婦たちを乗せた帰還船と、兵士たちの乗った船が、スンバワ島サペ湾で擦れ違う時の光景を次のように一兵士は、回想している。

 五番目の島スンバワ島。サペ湾を船は静かに港へ向って進んで行く。朝凪ぎの海に漣が、朝日にキラキラと光っている。空には無数のカモメが飛び交っている。其の時、一隻の機帆船が出港して来るのが見えた。我々は上陸準備を初めて居た。我々の船とその機帆船がすれ違う時、誰かが、
「オイ、あの船に慰安婦達が乗って居るぞ」
と叫んだ。みんな荷物の方は放ったらかしにして一斉に機帆船の方を向いた。甲板上に大勢の女達の姿が見える。船と船との間は十米位いだろう。
「オーイ、元気かァ」
と叫ぶと、女達も気が付いた様子で一斉に手を振り出した。
「ヘイタイサン、ゲンキデネ」
ハンカチを打ち振る者や、両手を挙げて飛び跳ねて居る者も居る。
「オーイ、無事に故郷に帰れョー」
横田さんが大声で叫けんだ。
「ニホントアン(御主人様)、サヨナラネー」
「テレマカシイ、トアン(ありがとう、御主人様)」
「病気になるなよ」
「スラマッジャラン(さようなら)」
「さようならァ」
と互いの叫び声が飛び交った。船はすれ違い静かに離れて行く。四、五人の女達が船尾の方に走って来て手を振り続ける。お互いの顔が見えなくなるまで帽子や手を振った。
 考えて見ると、彼女達も戦争の犠牲者なのである。レストランのウェイトレスだと騙されて、故郷から二千粁も離れたチモール島の果てに連れて来られ、兵隊の相手を強いられたのである。貧しさ故に運命に翻弄された哀れな女達なのだ。今は唯、故郷に帰って幸福になって呉れる事を祈るのみである。
  『台湾山砲戦記』 「蟻の群スンダを渡る」 (木下哲夫)

                  凄惨な戦争の様相も南洋の太陽の下、まばゆいまでの光に曝され、一瞬、霧散したかのように見える。暗澹たる時節の後、訪れた平穏な時間を謳歌する人々の姿が生き生きと描写されている。
 そして、兵士の心の奥にも日本軍の支配体系の下、明日をも知れぬ死への恐怖を紛らわし、絶望の果ての頽落の捌け口として虐げてきた慰安婦の来歴を慮り、いたわる余裕がみられた。
 この光景は、敗戦後、日本軍兵士、インドネシア人慰安婦、それぞれの帰還の過程で繰り広げられた情景である。しかし、印象的で叙情味にすらあふれた光景がどうして出現したのか、その背景に思いを巡らす必要がある。
 太平洋戦争も終局にさしかかった時期、戦局は更に酸鼻と凄惨さを極めた奈落の形相を呈していく。

 海軍第二十五特別根拠地隊司令部付の坂部康正主計将校の回想によれば、アンボンでは、戦局が悪化して日本人女性が慰安婦も含めて内地に帰郷したために、司令部の「M参謀」は、現地の若い女性を百名程、慰安婦として狩り出す命令を下したと述べている。

 命の心配がなく、食事も充分と言う事となると夜考えるのは女の事、なんで日本女性を泡を食って帰したか、今更くやんでも始まらない。我々ガンルームは始めから現地女性とうまくやっていたから不自由はなかったが、収まらないのは偉いさん達、特にM参謀はこの件について御熱心で、転勤前に山県長官からお許しを得ているからという事で、アンボンに東西南北の四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とはマレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて原住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、きめられた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に原住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きもできなかった。
 日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。
 果して敗戦後、この事がオランダ軍にばれて、原住民裁判が行われたが、この計画者は既にアンボンに居らず、それらの女性をひっぱった現地住民の警官達がやり玉に上がって処罰された程度で終ってしまった。彼女達が知っているのはひっぱった警官だけで、この事件の真相は闇に沈んだ。
『滄溟』海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編
 「アンボンは今」坂部康正

 アンボン地区においては、飛行場の設営、防禦陣地構築などを任務とする海軍の設営隊・施設隊が、慰安所の建設にまで直接、携っていたと、当時の第二十四設営隊本部高木進主計長も『滄溟』の中に書き記している。(『滄溟』 「海軍の想い出」高木進)

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