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広島高裁 控訴審 口頭弁論報告記

*原告たちのプライバシー保護の為、一部名前を伏せさせて頂いております。

第一回口頭弁論(1999年2月23日)

第二回口頭弁論(5月21日)

第三回口頭弁論(8月24日)

第四回口頭弁論(11月26日)

第五回口頭弁論(2000年2月25日)

第六回口頭弁論(5月19日)

第七回口頭弁論(8月21、22日)


第一回口頭弁論 報告記
「関釜裁判を傍聴して」 小林洋子

 (1999年)2月23日、関釜裁判の控訴審が広島高裁において始まった。最初ということもあるのだろう、全国各地から支援者を中心に100名を越える傍聴希望者が駆けつけてきた。広島ではこんな裁判は久しぶりだそうだ。
 それだけにこの裁判の意義も、注目度も大きいと再確認した。
 当日は、朴頭理(パク・トゥリ)さんと、朴(パク)・Soさんが意見陳述をされた。朴頭理さんは、映画「ナヌムの家」でもおなじみのハルモニだ。私は、広島市で1996年10月と1998年7月にこの映画の1と2の上映会を主催した女性達のメンバーの一人だった。「ナヌムの家1」の上映収益全を届けにナヌムの家を訪れたのが1996年のクリスマスだった。その時初めて朴頭理さんに会った。少しはにかみやで、物言いがとても率直で、それでいてナヌムの家の職員の子どもさんと自然にふざけあっておられる。そんな印象だった。
 その朴頭理さんが関釜裁判の原告であると知り、しかも今度は広島高裁で意見凍述することになつていると聞いて、とにかく傍聴に行こうと思った。いや行かなければならないような気がした。
 緊張の中、いよいよ意見陳述が始まった。朴・Soさんが、少し震えるような声で話し始められた。ひとつひとつ言葉を選ぶように話しを進めていく。そんな朴小得さんの話しは絶対ききもらすまいと思った。
 「私は何かの日本の法律によって日本に来たのに、そして、日本の天皇のために一所懸命に働いたのに、今更現在の日本には法律がないからもう賠償は期隈切れといわれても、納得いかない。私は日本政府に物乞いをしているのではない。当時の賃金を払ってくれと、当然の要求をしている。」
そう、静かに主張された。
 朴・Soさんがつらい体験を話されているとき、「挺身隊というと『慰安婦』と勘違いされ、解放後もその体験を目にできなかった。」という言葉が出た。その瞬間、隣に座る朴頭理さんの顔が少し苦しそうに見えたのは、私の恩い過ごしだろうか。
 次は、朴頭理さん。「私は頭が悪いから、昔のことは、もう忘れていることもたくさんある。それに思い出したくもない。6年も裁判してまだ自分たちが悪いと何故わからない。17、8歳であんなひどい目にあって、三○万円だなんてとんでもない。謝罪、賠償が出来ないなら、そう言ってほしい。私は物乞いじやない。」時析、呆れ果てたように、ため息ともとれる笑いと共にポツポツと話していかれた。ぽそぽそつぶやくように。
 二人の朴さんは、「こんな思いを抱えたまま死ねない。謝罪して、補償してくれ」と個人として全く正当すぎるほどの主張を繰返した。改めて、国家というのは個人に何をしてくれるのだろうか、と思った。あの戦争はいったい誰に責任があったというのだろう。その責任者をあいまいにしたまま私達の国は五十数年を経てきている。そして、韓国の女性が個人としてそういう国家や国民相手につきつけていることの凄さを感じた。
 昨年11月、中国の旧日本軍による性暴力被害者の証言を間いた。そのとき、「ある日テレビで、自分と同じ被害にあった韓国の女性が問っているのを観て、自分も名乗り出ようと恩った。」という言葉があった。確実に個人の恩いが、時を越え、国境を越えて当事者の女性を動かしている。まさしく時空を超えて人を動かしている。この裁判は世界が注目している。私も、個人として国家を間うこの裁判に注目している。頑張らなくてもいいから、粘りに粘ってこの裁判は維持していかなければ、と恩った。
  そして裁判を終え隣の弁護士会館に朴・Soさんと話しながら歩いて行った。きれいな日本語だった。(私はハングルができない。)
 「日本はこんなに金持ちになったのに、どうして私たちに賃金が払えないのか。おかしい。」その朴さんの言葉が耳に残る。何度も言うが当たり前すぎるほどの個人の主張。戦争でひどい圏に会った多くの日本人もいる。誰のための戦争だったのか。改めて腹が立つ。ひどい目にあった日本人も、もっと個人の主張をしなければ、国家にすくいとられてしまう。ひどい目にあっても戦争だからしかたがない、と諦められる訳がない。裁判を傍聴してそんなことを考えた。
 次の公判は5月。出来るだけ多くの人に傍聴の機会が与えられるようにと願いつつ、傍聴感想記の結びとしたい。

第二回口頭弁論 報告記
「関釜裁判控訴審 第二回口頭弁論報告」 山下英二

 爽やかな緑の風が季節を運んでくる(1999年)5月21日、広島高裁で朴(パク)・Suさんと李(イ)・Yさんを迎え、第二回口頭弁論が開かれた。画期的な下関判決を絶やすまいと、各地から多くの支援者が駆けつけ、90名で抽選が行われ46名の傍聴者と記者席で304号法廷は埋め尽くされた。原告側弁護士は福岡から山本晴太、山崎吉男、李博盛、大阪から松本康之、島根から水野綾子さんの五名。
 広島高裁は傍聴できない人も廊下で待機しながら、声を聞くことが出来ないが、法廷の前後に二つ設けられた扉の小さなガラス窓から、裁判の様子を見ることができるようになっている。特に裁判官の近くのガラス窓からは、手を取るように裁判官の顔を伺い取ることができる。
 13時30分きっかり、公判は開始された。いつものことであるが裁判長の小さな声の喋り方は、どうにかならないのだろうか。何を言ってるのかほとんど間き取れないのである。あえて間き取れないようにしていることが、権威の象徴だとするならば間題である。
 まず、山本晴太弁護士から準備書面を提出した事が報告された後、いよいよ朴・Suさんの意見凍述が行われた。朴・Suさんは最初に裁判官に向かって、証言できることに感謝の気持ちを伝え、挺身隊としての苦しいきつい労働の実態と、今でも精神的な傷が癒えてないこと、そして、今なお肉体的な苦痛に悩まされ続けている実態を切々と訴えられた。
 自分の想いを伝え、じっと下を見つめていた朴・Suさんは、改めて当時の辛く苦しい幼い日々を思い返したのだろう。今にも泣き出したい気持ちを必死に堪えて、とつとつと語りかけた証言は、裁判官の人としての心を、揺り動かしたに違いないと思う。
 続いて山本弁護士は、5月19日付けで提出した準備書面について説明し、下関判決後の国際的な情報として、韓国,北朝鮮。フィリピン議会・マクドゥーガル報告・IL○勧告などを紹介し、各国で非常に高い関心が寄せられていることを、強く主張した。このことは国際世論は、日本の裁判所が期待できる応えを出すことが出来ると判断をしていることではないだろうか。次いで「慰安婦」原告三人の附帯控訴をし、証人申請(田中宏一橋大教授、戸塚悦郎弁護士、尹貞玉挺対協共同代表)を行った。次回の公判について打ち合わせをしている時に、突然裁判長から「進行について協議をしたい」との発言があり、一瞬緊張が走ったが別に何もなく、次回は8月24日13時30分に公判が行われることを確認して、14時10分に閉廷した。
 今回の公判には釜山に住むハルモニ達に日常的に連絡をとってもらっている、姜蓮淑(カン・ヨンスク)さんが通訳をされて、素晴らしい活躍をされた。特に、下関判決で訴えを退けられてしまった女子勤労挺身隊ハルモニ達の気持ちは、ややもすると気落ちして、広島高裁に来ることにも足取りが重くなってしまいがちだが、妻蓮淑さんが頻繁に連絡を取り合い、励ましてこられたことが、大きな力となっていることを特筆すべきだと思う。
 山本弁護士は、裁判所は急いでいるように感じられると語っていた。このことが今後の裁判の進行に、どのような影響を及ぼしてくるか、注意深く見守って行かなくてはならない。
 緑の5月から、次回は灼熱の太腸が照り注ぐ8月である。四季析々の中、裁判は直ぐさま過ぎ去ってしまう。一つひとつの公判を大切にして、ハルモニ達と支援者の心をひとつにしてたたかい続けよう。

第三回口頭弁論 報告記
「注目が高まる広島控訴審」 井上由美

 (1999年)8月24日、関釜裁判の第三回控訴審では、国の被害者への戦後の不法行為に対する請求を、一審で棄却されたことに対しての反論の準備書面が出され、勤労挺身隊原告 梁(ヤン)・Kさんの意見陳述が行われました。梁さんは名古屋ではじまった朝鮮女予勤労挺身隊訴訟の、名古屋三菱を訴えた原告でもあります。
 当目は傍聴のため、新幹線で広島に向かいました。梁・Kさん、付き添いと通訳で光州千人訴訟代表の李金珠(イ・クムジュ)さんといっしよの座席で広島駅に着くまで、いろんなお話を伺いました。
 梁さんは工場で働いたつらかった日々のことがずっと深い傷あとになっています。五十年以上たっていっそう、無念さが大きくなっているように思われました。李さんは「学校では朝鮮語をしやべるとひどく叱られていた」と母国語さえ自由に話せなかった時代のことを語りました。ついわたしたちは「本当に目本語がうまい」と感心して、通訳なしでの会話を有難がってしまいがちなのですが、彼女たちが語る日本語にも、重い歴史がかぶさっています。
 裁判所では傍聴席に入れない人が四十人も出て、関釜裁判への関心の高さをうかがわせました。広島では「関釜裁判を支える広島連絡会」、「関釜裁判を支える福山連絡会」が結成され、「県北連絡会」の準備会も発足しています。
 梁錦徳さんは、昨年4月の一審判決で、勤労挺身隊の訴えがしりぞけられたことへの無念をにじませながら、改めて当時の自分たちがおかれた状況、それがかえりみられることなく半世紀を経過したやりきれなさを訴えました。
 女学校で勉強できると喜んだのもつかの問、両親とも連絡が取れないまま日本で苛酷な労働を強いられた寂しさやつらさは、胸に訴えるものがありました。
  しかし、彼女の意見陳述の途中、裁判官のひとりが居眠りをしていたのには憤慨。全身全霊の訴えにはもっと厳粛に耳を傾けるべきでは。

 口頭弁論ののち弁護士会館に移って、記者会見と報告集会が行われました。「戦後補償を考える弁護士連絡協議会(弁連協)」の今村、鈴木、高木、横田、永野弁護士らも駆けつけられ、「関釜裁判」の昨年4月の「下関判決」の重要性を重ねて述べられました。
 戦後補償裁判ではこのところ「韓国人BC級戦犯」の裁判などで、立法措置を促す判決が出ています。「下関判決」はその頂点に立ち、大きな位置を占めているのです。
 「被害者たちの状況は、その問題の解決にはほど遠く、違憲状態といえる中、何らかの形で早急に立法を行うことが国の義務であり、この画期的な『下関判決』をどのように高裁で展開していくかが、今後の課題である。立法化運動を進める上でも、立法化の義務を示した『下関判決』を擁護していくこのがたいへんに重要」といったことを解説し、「戦時性的被害者補償要網」の案も鈴木弁護士から提示されました。
 「正義」の実現のためには、現在の法律が間に合ってないのが現状となっています。戦争犯罪については時効がない、ということを念頭に、目的に合わせて法を解釈するのが法律家の努め、という弁護士の言葉が印象的でした。
 梁さんは会場の参加者に感謝の言葉を述べながら、裁判でのいい結果を待っています、と付け加えました。梁さんが切実に求めているのは、「ふみにじられた人格の尊厳を回復してほしい」ということなのです。「女子勤労挺身隊」とは、歴史的に見れば、皇民化政策による、人権侵害ではないでしょうか。
 そして今回の傍聴、報害集会にテグから参加されていた元日本軍「慰安婦」の李容洙(イ・ヨンス)さんは、語りかけるように聴衆に訴えました。歴史のはざまで苦難を味わった人だから言える言葉です。
 「いつまでも謝罪と賠償をしないと、日本という国がもっとひどくなりますよ。日本は忘れても、当事者である被害者はこうして生きているのです。この間題が解決すればもっと日本もいい国になるし、日韓の問係だってよくなるに違いありません」。

第四回口頭弁論 報告記
「20世紀最後の年に真の解決を!」 松岡澄子

 二十世紀末の暦がめくられました。「今世紀に起こったことは今世紀中に解決を!」と街頭で訴えてきましたが、いよいよその最終年の到来です。1992年12月25日に提訴した関釜裁判も丸7年が経過しました。7年の歳月にはあの「画期的な判決」がありました。その後、期待された元「慰安婦」裁判判決は裏切られ、反動的司法界における戦後補償裁判の逆風の中で唯一の輝ける星でありますが、原告たちは確実に7歳年を重ね老いを否定できません。長期化と先行き不透明の裁判ですが、一縷の望みを託して日本の良心に挑戦しています。正念場の2000年をハルモニと共に闘おうと決意を新たにしています。今年も御支援、よろしくお願い申し上げます。

第四回口頭弁論
 安芸広島は紅葉が晩秋の風情を漂わせていました。11月26日(金)広島高裁に参集したメンバーは60余名。抽選にはなりましたが、回を重ねるにつれて、抽選の列が短いのが寂しいかぎりです。前回から開廷五分後には記者席の空席に傍聴できる便宜が図られたので、下関の裁判所の恨めしかった「もったいない空席」は解決されました。
 最初に柳(ユ)・Cさんが「15才で役場の募集に応じて富山の不二越に来たこと、旋盤の仕事の辛さ、食事の貧しさ、ひもじさでボロボロの身体になったことを述べ、韓国に帰るときに渡すと言った賃金の支払いと謝罪を求める」と意見陳述をしました。
 続いて山崎弁護士から、前回提出した不法行為に対する国家賠償請求として戦後の永野発言に関する主張、李弁護士から今回提出した立法不作為についての準備書面の要旨が説明されました。「一審被告国は、立法不作為の違憲審査の『間口』は積極的立法に対する違憲審査の『間口』より狭いと明言しているが、原判決は違憲審査の「窓口」の判断においては三権分立制度、特に国会の立法権に十分かつ慎重に配慮し、「奥行」の判断においては積極的に人権保障に配慮することによって、三権分立制度とその目的である人権保障を調和させた憲法解釈を行なっているのである」と格調高い論旨を熱っぽく語りました。(準備書面を資料集として発行予定)
 また前々回予告していた書証(一審判決に対する国際的反響について準備書面で引用した証拠)として韓国、台湾の新聞、アメリカのAP通信、ILO専門家委員会の報告書、国連のマクドゥーガル報告書が提出されました。

エピソード
 5月21日の第二回口頭弁論で「慰安婦」原告三人が附帯控訴しましたが、一人当たりの請求額一億一千万円に対する印紙代免除の訴訟救助を広島高裁に申請したところ、半分しか認められず、(半分の印紙代百万円)最高裁への特別抗告も却下されたため、認めてくれた分で控訴する「請求の主旨の限縮の申し立て」を行なったところ裁判長が限縮ではなく減縮であると指摘した場面がありました。「一審原告の請求が減るわけではなく訴訟救助で認めてくれた請求額に限定した」という弁護団の反骨精神を垣間見た「限縮」の申し立てでした。

口頭弁論今後のゆくえ
 一審原告側は予告しておいた論点は大体主張し終えたので一審被告は次回までに包括的反論を出すようです。前に証人申請していた尹貞玉(ユン・ジョンオク)挺対協代表、田中宏一橋大教授、戸塚悦朗弁護士に加えて、今回専修大学憲法学の古川純教授と一審原告のうち朴頭理(パク・トゥリ)さん(台湾で「慰安婦」)、李順徳(イ・スンドク)さん(上海で慰安婦)、朴(パク)・Soさん(不二越で勤労挺身隊)、姜(カン)・Yさん(東京麻糸で勤労挺身隊)の四人を健康状態等によって替えることも有り得ることを前提に証人申請しました。一審被告は証人申請について意見を書くと言っています。弁護団は「証人調べを何もしないことはないだろう」と語っていますが裁判所が証人申請をどう判断するかが今後の大きな分岐点といえるでしょう。
 支援する会では山形の精神科医桑山紀彦氏に一月、四〜五人の原告たちのPTSD(心的外傷後ストレス障害)について診断してもらう予定です。それを基に、一審判決全面棄却された、勤労挺身隊原告の現在に及ぶ精神的被害について、診断報告を提出すると予告しました。
 次回は2月25日(金)午後2時からです。三ヵ月ごとに開かれる口頭弁論ですが、今年がヤマ場になります。一審判決の灯を消さないためにも多くの眼で関釜裁判を注視していきましょう。

第五回口頭弁論 報告記
「早期結審させないため 指紋署名を提出」 三輪直子

 原告ハルモニと通訳、福岡の支援する会の一部は新幹線の改札口で待ち合わせて広島に向かった。私は原告の李(イ)・Yさんのそばについていた。李・Yさんは時折眉間にしわをよせて、きつそうな表情をしており、元気がない。体調はいかがですか、と尋ねると、(挺身隊時代のことは)思い出すだけで頭が痛くなると答えた。
 新幹線で私の隣に座った姜(カン)・Yさんは、座ってすぐ原稿を取り出し、今日の口頭弁論の予習を始めた。李・Yさんもしばらくして、原稿を黙読し始めた。
 通訳の姜蓮淑(カン・ヨンスク)さんも加わって打ち合わせが始まった。そのままの席ではやりにくいので、姜蓮淑さんと、私が席を交替した。
 「裁判では李・Yさんを先にしたほうがいい、李さんの歌は本島に心に訴えるから」「最初に挺身隊の歌を歌った方が思いが伝わるのではないか」など三人で話し合っていた。「こういう表現は日本語としておかしくないか」と支援する会のメンバーに聞いたりしていた。
 昨夜の交流会の前後も李・Yさん、姜・Yさんは長時間に渡って原稿を推敲したり念入りに打ち合わせをしていた。この裁判に対するハルモニの思いの強さを感じる。
 打ち合わせが終わってもなおハルモニたちはおさらいを続けていた。広島に着く前に姜・Yさんは「もう大丈夫。」と原稿をしまいながら、にこっと笑った。通訳の姜蓮淑さんが「姜・Yさんはほんとにしっかりしている人だ。」と言った。
 口頭弁論が始まった。李・Yさんが、「私は話がうまくないので」というようなことを前置きして、彼女の思いを託すように挺身隊の数え歌を歌った。異国の地でほとんど監禁されたような状態で、一日十二時間も働かされ、親と連絡をとることすらできない挺身隊の少女の境遇を表現した歌だ。彼女たちはこの歌を歌って自分たちを慰めていたという。李・Yさんは始め声が震えて途切れそうになりながら、最後まで歌い切った。傍聴席からはすすり泣く声が聞こえた。姜・Yさんは落ち着いて原稿を読み上げていた。
 李弁護士は、桑山医師のPTSD診断報告をもとにして書いた準備書面を読み上げ、挺身隊原告は現在まで癒されない傷を負っている、と主張した。
 「今回の裁判で結審になるかもしれない、証人申請が認められないかもしれない」ということで、いつもは原告の証言は一人づつなのだが、二人にした。ヘジン僧(ナヌムの家院長)が中心となり集めていただいた韓国・カナダ・日本の人々の、公平な裁判を求めますという内容の二万五千もの指紋署名(注)をカラーコピーして資料として裁判所に提出した。ヘジン僧は広島にかけつけて下さり、裁判の後、記者会見を行なった。
(署名そのものを提出しても事務室に留め置かれて裁判官の目に触れることはないと考えられるので、「一審判決に対する国際的評価」の資料として提出。約四千枚の葉書署名を裁判官にはカラーコピーを、国側には白黒コピーで提出した。資料なので彼らはずっと持っていなければならず、裁判長は記録がやたら長くなるので資料にして欲しくなかったようだ。署名提出のタイミングとしては良かったと思う。日本側では「ナヌムの家」歴史講演会のほうで中心的に取り組んでいただき感謝しています。)
 裁判官が退出して再び出てくるまで、いつもより時間がかかった。次回の口頭弁論のやりとりや日程を決めるのだが、今回は結審になるかどうかなので緊張して出てくるのを待った。裁判官が出てきて、「証人申請は次回検討ということで」といって退出すると、傍聴席の人たちはほっとした表情で顔を見合わせた。
 次回までに原告側は、PTSD診断報告書を提出する。また、証人が採用されるかが決まる。結審の可能性はこれからも常にあり、油断は出来ない。
 次回の口頭弁論では、これまで病気で来日できなかった李順徳(イ・スンドク)さんがいらっしゃるので、ぜひ傍聴にご参加下さい。

(注)指紋署名
元「慰安婦」のハルモニたちが集団で生活している「ナヌムの家」院長のヘシン僧が中心となって集めている、指紋捺印された署名。
「指紋署名」とは 〜ヘシン僧の記者会見〜

第六回口頭弁論 報告記
「証人採用される」 日高明子

 「この胸の傷を見てみなさい。…どうして見ないの!」
 それまで李金珠(イ・クムジュ)さんの通訳で意見陳述していた李順徳(イ・スンドク)さんは、日本語でそう叫んだ。
 五月一九日の第六回口頭弁論。結審になるかも知れないという緊迫感が、法廷内、いや法廷の外で見守る支援者の間にも、みなぎっていた。この日の傍聴希望者は百十名。マスコミの為の報道席も満席で、関心の高さがうかがえた。
 李順徳さんの意見陳述は、初め、順徳さんの韓国語を、光州遺族会の李金珠さんが日本語に訳すという形で行われた。「八年間、ブタ小屋と同じ部屋に監禁され、日本軍人に強姦された」「その時怖かったことは今でも怖いし、苦しい」「叩かれた頭と日本刀で刺された傷が、雨の日に痛む」…韓国語でしゃべる順徳さんの声も震えていた。時に語調が強まり、この五十五年間の怒りや苦しみ、悲しみが抑えようにも抑えがたく、順徳さんをさいなんでいるようだった。
 「話したいことは沢山あるけれど…」
 意見陳述の途中、不意に金珠さんの通訳をさえぎるように、順徳さんは日本語でそう言った。そして叫んだ。
 「この胸の傷を見てみなさい!」
 私の席からは見えなかったが、順徳さんは服のすそをまくりあげたらしかった。法廷内の空気が、急に凍りついたように感じられた。見なければいけない。彼女がどんな目にあい、どれほど苦しんだのか、「それ」をこの目ではっきり見なければいけない。そう思ったが、身体が動かなかった。国側の代理人も、まるで彼女と目を合わせるのを避けるかのように、うつむいていた。その態度にいらだったのか、順徳さんは更に叫んだ。「どうして見ないの!」
 ようやく、国側の代理人が、ちら、と目を上げた。少しだけ見て、再び目を伏せた。順徳さんが嗚咽し始めた。
 「毎日頭が痛い。雨が降っても雪が降っても、風が吹いても痛い」
 「大丈夫ですか」次第に嗚咽の大きくなる順徳さんに、裁判長がいつになく狼狽した様子で声をかけた。その声が聞こえているのかいないのか、順徳さんは泣きながら訴え続けた。
 「よく考えたら、身体全部が悪い」「無理矢理連れていって、無理矢理こんなことをして…!」

 順徳さんの嗚咽が続く中、李博盛(イ・パクソン)弁護士が準備書面についての説明を始めた。憲法九条の観点から、日本は平和的生存権を関係諸国民に保証し、植民地支配の被害者に対して謝罪と賠償を行う義務があること。また、従軍慰安婦は公娼であったというような発言が責任ある立場の政府からたれ流されることが、被害者の心の傷に塩をすりこむかの如き行為であり、彼女たちの心の安寧が確保される為にも、何らかの補償を行うべきであると述べる李弁護士の口調は、静かだったが、泣き崩れた順徳さんの後を引き継ぐかのように、力強くも聞こえた。
 そしていよいよ、証人の採否である。裁判長が淡々と言った。
 「証人として尹貞玉(ユン・ジョンオク)、原告本人である朴小得(パク・ソドク)、姜容珠(カン・ヨンジュ)、朴頭理(パク・トゥリ)、李順徳(イ・スンドク)を採用する」
 こういう時、「一瞬何のことだかわからなかった」という表現がよく使われるが、本当である。少し間を置いて、あっと思った。結審にならなかった!証人が採用された!閉廷になるや否や、後ろの席に座っていた、顔見知りの支援者と手を取り合わんばかりにして喜んだ。「良かったですね」「良かったですね」お互い、同じ言葉しか出てこない。立ち上がると、知らない間に背中に汗をびっしょりかいていた。

 報告集会では、五月五日、意見陳述をすることもないままに亡くなられた河順女(ハ・スニョ)さんの追悼が行われた。
 李金珠さんが遺影に向かって、「安らかに眠って下さい」と呼びかけ、順徳さんは遺影を抱きしめて号泣した。順徳さんと順女さんはほとんど面識がなかったという。しかし、前夜、福岡での交流会の際、順女さんの境遇について聞かされ、「私と同じ…」とつぶやいて涙を流した順徳さんの姿が思い出された。年齢も近く、自身、昨年の夏「臨死体験」をなされた順徳さんには、自分のことのように感じられたのかも知れない。
 私は残念ながら、河順女さんとはお会いしたことがない。そのことが悔やまれてならない。改めて支援とは何なのかということを考えた。裁判に関して既に気力を失っていたという順女さんに、裁判の支援以外にも、何か出来ることはあったのではないか…
 せめて裁判が終わるまで、慰安婦原告にも挺身隊原告にも納得のいく判決が出るまで、これ以上一人も亡くなって欲しくない。「恨」(ハン)を解いて、安らかな余生を送って欲しい。そう強く願う。残された時間は決して長くはない。

第七回口頭弁論 報告記
「連帯の輪が広がる」 松岡澄子

◆はじめに
 8月の広島は人が集う。6日の原爆記念日と並び評したいのが、関釜裁判広島控訴審である。
 8月21日、22日に行われた第7回口頭弁論には、戦後補償や女性の人権に取り組む人達が、全国各地から馳せ参じてくれた。東京高裁の「慰安婦」裁判で証人申請却下という厳しい状況に比して「集中証拠調べ」となった関釜裁判を見守るべく110名の支援者が傍聴の列を作った。恒例の傍聴券の当たりくじの抽選に替って、コンピュータによる傍聴者番号が掲示された。
 弁連協を代表してフィリピン人「慰安婦」裁判の横田弁護士も副代理人として弁護団に加わる。本人尋問に先立って宣誓があるが聞く度に権威をふりかざした威圧的内容にまるで罪人扱いだとハルモニ達に申し訳ない。

◆尹貞玉(ユン・ジョンオク)さん証人尋問
 証人申請をした5人の中で唯一採用された、韓国挺身隊問題対策協議会の尹先生の証人尋問から始まった。裁判官に事実関係として「慰安婦」問題の全体像を知ってもらい、多くの被害者と接している尹先生に被害者がどのような身体的、精神的被害を受け、今までどんな生活をしていたかという実態を語ってもらうのが狙いの尋問であった。
 事実関係に続いて、国民基金の活動の評価、永野法務大臣の公娼発言、下関判決に対する評価、姜徳景(カン・ドッキョン)さんの「責任者を処罰せよ、平和のために」という最後の絵に象徴される被害者の願いなど、尹先生の思いや信念が法廷に響いた。尋問を担当した山本弁護士によると10万人以上という「慰安婦」の数に裁判官も驚いてメモしていたようだ。
 1945年の解放後ずっとこの問題に関心を持っておられ、1980年から調査を始めた尹先生は弁論後の報告集会で、「『男女七歳にして席を同じくせず』の風潮だった当時の朝鮮の未婚女性ならば性病はないから安心できると日本の首脳は解っていた。朴頭理(パク・トゥリ)さんだからではなく、また10万人の女性だけの問題でもなく、これは大きな歴史の課題であるからこそ、この問題を解決せずに日本はそのまま行く筈はない。アジアに平和がある筈がない。日本政府はあらゆる方法で謝罪しようとしないが、謝罪は自分をかける行動であるが、事実があるから、日本は苦しくても謝罪をすべきであり被害者が望んでいることである。日本の将来の為にも日本政府を動かして下さい」と語られたように、被害者と共に歩み、公正と信義の実現にかける思いが滲み出た証人尋問であった。

◆原告本人尋問
 10人の原告を代表して元「慰安婦」原告の朴頭理さん、李順徳(イ・スンドク)さん、元「挺身隊」原告の朴・Soさん、姜・Yさんだった。弁護団の今回の本人尋問のねらいは、書証として提出した戦時中の被害事実を前提とした上で、心の中にしまって誰にも言えずに五50年以上過ごした痛みはどういうものだったのか。下関判決に対する思いや日本政府に訴えることなどであった。
 海を渡って、加害国日本の権威の象徴たる裁判所で宣誓を強いられ、かたくなな権力者の国側代理人と裁判官、支援者ではあるが多くの傍聴人の前で、言いたくもない、思い出したくもない過去をひきずっての尋問はどんなにか精神的緊張と苦痛を強いたであろうかと「裁判」という非情さを思い知らされて辛いものがある。でも原告はこの非情に打ち勝っていかねばならない存在なのだ。
 今回の本人尋問の内容はハルモニ達の内面を問う抽象的なもの、プライバシーに関する内容であっただけに、弁護士、原告双方が難しかったであろうが、充分な打合せ、コミュニケーションの不足を多少感じさせた。下関の判決文を書かしめたように裁判官の心に響いてくれることを願う。
 尋問を終えたハルモニの印象は、朴頭理さんが「何故いつまで同じことを聞くのか」という不満。李順徳さん、姜・Yさんは試験か宿題を終えた解放感や安堵感。朴・Soさんは不完全燃焼で涙が光っていた。二人が車椅子で出廷する程の健康状態だったが文字通り、生命を削っての裁判闘争なのだと実感する。しかし、全てが終わった広島の夜は晴れやかな顔つきでトラウマの薄皮が一枚ずつ剥がれるように、楽しく心が溶け合う交流会だったようで、喜び安堵した。

◆通訳は「生命(いのち)」なのに
 今回の口頭弁論で問題になったのは通訳である。意見陳述と違って本人尋問は裁判所指定の法廷通訳者だったが、適正な通訳でなかった場面も多かった。通訳との事前の打合せは「中立性を損なう」と書記官に拒否され、尋問事項書も渡せないまま、当日簡単な打合わせで本番に臨んだ結果と言える。裁判所によって対応が異なるようであるが外国人の場合、通訳が生命であるのに、禍根を残した尋問となった。しかし、二日目の報告集会に通訳二人が参加して「ハルモニ達の気持ちがうまく伝えられなかった」と力不足をお詫びされた。

◆国際女性戦犯法廷
 一日目の夜に各地から参加した50名で交流会を持ち、それぞれの裁判報告と12月に開催される日本軍性奴隷制を裁く「女性国際戦犯法廷」について共有化した。
 「姜徳景さんの描かれた責任者処罰の絵は三方から銃で撃とうとしているが、白い鳩が舞い、枝には六個の卵が入った巣がある。これは責任者処罰は平和につながるという象徴である。二度とこのようなことがないように、平和を望むからこそ社会の正義を望むのである。
 女性戦犯法廷はどの国の勢力にも属していない純粋な市民の集まりでやっているので、本当の人権を重んじ、社会正義を望んで平和を夢みながら、20世紀の戦争の歴史から離れて、21世紀は人権が守られ、新しい平和が世界に創造されるように、新しい歴史の章を開くようにと被害国代表でもある尹先生のメッセージであった。
 責任者の特定、天皇の「慰安婦」制度における責任等、困難は多いが、被害者の痛みと恨(ハン)を原点に10年間活動してきた韓国挺対協始め、被害国の運動団体、戦時性暴力を裁くフェミニズム運動の今世紀の到達点とも言える国際女性戦犯法廷が是非とも成功してほしいと願わずにおれない。

◆次回は結審の予定(11月10日)
 今回、各地から多くの方々が広島に結集して「集中証拠調べ」を応援して下さったことに、心強さと感動と感謝があった。注目されていることの自覚も増す。「慰安婦」「挺身隊」裁判をはじめ、戦後補償実現に向けた情報交換、12月の民衆法廷の紹介、呼びかけ等、広島での二日間、実りの大きさと課題の重さを共有できたと思う。地元広島で大勢の受け入れに尽力下さった連絡会の皆さん、ありがとうございました。
 次回は11月10日(金)、国側の反論がなければ結審になる予定である。