広島控訴審について
1998年4月27日に山口地裁下関支部で第一審判決「下関判決」が出た。国の法的責任を明確に認めて、元「慰安婦」原告3人に30万円の賠償を被告国に命じ、補償立法を事実上命令したに等しい判決である。
ただし、元女子勤労挺身隊原告7人全員に関しては、全面的に請求が棄却されており、その為、判決に不服があるとして、同年5月1日、挺身隊原告7人が控訴状を提出した。元「慰安婦」原告は控訴しなかった。「勇気ある判決を書いた裁判官に敬意を表する為」と「日本政府に控訴せずに、立法作業に着手する機会を与える」為である。
しかし、この期待を裏切るように、被告国は5月8日、広島高裁に控訴した。当時の下稲葉法相は、記者会見で「国の責任を認定したことは従来の判決(85年最高裁が「国会の立法行為については原則として政治責任のみが問われ、賠償責任は問われない」と判断・最高裁判例を参照)に反する」と控訴の理由を説明した。元「慰安婦」原告も、控訴審で附帯控訴した。
下関での第一審から、広島での控訴審へと舞台を移し、「関釜裁判」を支援する動きも、広島・三次・福山にも広がっていった。
控訴審の経過
1999年2月23日、控訴審第1回口頭弁論。朴頭理(パク・トゥリ)さん、柳(ユ)・Cさん、朴(パク)・Soさんの3人の原告、および「ナヌムの家」のヘシン僧が来日。朴頭理さんと朴・Soさんが意見陳述を行った。控訴審に向けて「関釜裁判を支える広島連絡会」「関釜裁判を支える福山連絡会」が結成されて、原告らを交えた交流会が広島や福山の地で催された。
5月21日、第2回口頭弁論。朴(パク)・Suさん、李(イ)・Yさんの2人の原告が来日。朴・Suさんが意見陳述を行なった。また、国際的に「下関判決」が評価されていることを主張し、元「慰安婦」原告3人が附帯控訴をした。
8月24日、第3回口頭弁論。原告の梁錦徳(ヤン・クンドク)さん、および付き添いと通訳で光州千人訴訟代表の李金珠(イ・クムジュ)さん、傍聴と証言集会の為に元「慰安婦」の李容洙(イ・ヨンス)さんが来日。梁錦徳さんが意見陳述を行った。
11月26日、第4回口頭弁論。柳(ユ)・Cさん、朴(パク)・Soさんの二人の原告が来日。柳・Cさんが意見陳述を行なった。また、不法行為に関して永野発言に関する主張と、立法不作為についての要旨、および「下関判決」に対する国際的反響についての書証を提出。「関釜裁判を支援する県北連絡会」の立ち上げ総会が三次で催された。
2000年2月25日(金)、第5回口頭弁論。下関判決の国際的評価の高さの証拠として、「指紋署名」を提出。李(イ)・Yさん、姜(カン)・Yさんの二人の原告が意見陳述を行った。また、「ナヌムの家」のヘシン僧も来日し、指紋署名に関する記者会見を行なった。
5月19日(金)、第6回口頭弁論。李順徳(イ・スントク)さんと光州千人訴訟代表の李金珠(イ・クムジュ)さんが来日。金珠さんの通訳で李順徳さんが意見陳述を行った。今回は証人の採否が決まる、つまり結審になるか否かの分岐点となる重要な局面だったが、長年に渡り韓国挺身隊問題対策協議会の共同代表として、多くの「慰安婦」らの生活を支援してきた尹貞玉(ユン・ジョンオク)さん、原告本人である朴(パク)・Soさん、姜(カン)・Yさん、朴頭理(パク・トゥリ)さん、李順徳さんが証人として採用された。
また、報告集会は、5月5日に亡くなった河順女(ハ・スンニョ)さんの追悼集会でもあった。
8月21、22日、第7回口頭弁論、及び韓国挺身隊問題対策協議会 共同代表の尹貞玉(ユン・ジョンオク)さんの証人尋問、及び原告四名の本人尋問が行なわれた。
弁護団が申請した、原告らと法廷通訳との打ち合わせが、何故か「中立性を欠く」という理由で開廷直前まで認められず、その為に通訳の方が日本語に直訳したり、適切な言葉で訳せなくて、原告たちや尹先生が戸惑い、21日だけの予定であった尹先生の証人尋問が翌日にまで持ち越されるというハプニングがあった。
今回の本人尋問は、戦時中の被害ではなく、戦後も被害者が救済されることなく放置されていた為に強いられてきた、過酷な現実に焦点を当てたもので、朴頭理さん(元「慰安婦」原告)は下関判決での30万という賠償を「こじきにでもやれ」と吐き捨てるように語り、朴・Soさん(富山不二越工場)は自殺を考えたと吐露した。また、姜・Yさん(沼津東京麻糸工場)は裁判を起していることすら、未だ息子さんにひた隠しにしており、李順徳さん(元「慰安婦」原告)は「ひざまずいて謝罪しなさい」と叫んだ。
いずれの原告も苦しい現実から目をそむけることなく、堂々と、或いは振り絞るように、語った。その姿は何にもましてかけがえがなく、報告集会での晴れ晴れとした表情がとても印象的だった。
また、22日の交流会では普段見られないハルモニたちの姿も見られ、大変楽しいものであった。
11月10日、第8回口頭弁論。開廷の前に平和公園から広島高裁までデモ行進。約60人プラス福山の方々が原告に思いをはせて作った、発泡スチロールの人形10体が参加。
梁錦徳(ヤン・クンドク)さんと光州千人訴訟代表の李金珠(イ・クムジュ)さんが来日して、金珠さんの通訳で梁錦徳さんが意見陳述を行なった。
今回で結審の予定であったが、国側が「日韓条約で解決済み」論を展開。また、一審原告側も「立法不作為による損害賠償責任も認められない場合には、更に予備的に立法不作為に対する違憲確認を求める」という請求を追加。結審にならず。
2000年12月18日、結審。判決日時は「3週間前にはおって連絡する」(裁判官)。
前回国側が新たに提出してきた「日韓協定で解決済み」論に対し、山本弁護士が鮮やかな反論を行なった。
また、李弁護士が故・河順女(ハ・スニョ)ハルモニも含む、原告10人の長年の労をねぎらい、いたわるように一人一人の名を挙げながら、「(この裁判は)日本国憲法の有り様を、日本国の歩んだ歴史に照らし合わせて問い直そうとするものである」との意見陳述を行なった。