金順徳ハルモニとのおわかれ

     福山ワッタガッタ会 都築寿美枝

   韓国平和博物館建立委員会メンバーと有意義な交流をし、その1週間後の6月30日、悲しい知らせが入った。ナヌムの家の金順徳ハルモニがなくなられた。第一報を耳にしたとき、我が耳を疑い、「金順徳ハルモニって、あの金順徳ハルモニ?」間違いではなかった。メールで確認した後、韓国へ電話し詳細を尋ねた。前日までお元気で広島からの九条連のメンバーに自作のトマトをごちそうされていたが、翌朝自室で意識不明状態になっているところをスタッフが見つけ、病院に運んだが、脳内出血(脳卒中)で意識が戻らず30日午後1時58分に永眠されたそうだ。何かの間違いであってほしいという願いは届かなかった。喪服と数珠をトランクに詰め、悲しい韓国行きとなった。

  ソウルまでの機上、金順徳ハルモニとの思い出が走馬燈のようによみがえる。確か95年冬、二度目の引っ越し先であるピョンファ洞のナヌムの家を尋ねたとき、雪の降る表通りまで迎えに出てきてくれたのが、金順徳ハルモニであった。この頃、心の傷をいやすために姜徳景ハルモニらと絵を描き始めておられ、おみやげに色鉛筆を持参した。現在のナヌムの家に引っ越しされてからも訪れるたびに、優しい笑顔で迎えてくださった。ワッタガッタツァーでナヌムの家を訪問するメンバーに自らの被害体験を何度も証言して下さり、いつも傍らで聞きながら証言を繰り返すことの厳しさ、つらさに「ハルモニごめんなさい。」と頭が下がる思いであった。
 97年「ハルモニの絵画展」全国26カ所巡回展のおり、福山にも来られ証言集会や全国連絡会に参加された。このとき我が家でハンセン病回復者の金泰九さん、私のハルモニである金連順と3人の金さんがご対面となったわけである。以来、金順徳ハルモニはお会いするたびに「ハルモニは元気か?」と尋ねて下さった。
 98年7月、金順徳ハルモニは北海道での絵画展と証言に行かれることになった。「北海道は初めてなので、心細い。」という連絡が入り、急遽広島から私が付き人としてお供することになった。証言後、函館山に登り、電動のイタチ人形が本物そっくり動くのを見て「キャッ、キャッ。」とはしゃいでいた姿が目に浮かぶ。
 98年8月に日本軍「慰安婦」歴史館が開館した。それから何度目かの訪問時、地下の慰安所再現コーナーでハルモニと二人きりになったときである。「ハルモニ、このコーナーを作るのに賛成、反対意見があったと聞きましたが、ハルモニは今どう思っていますか?」という私の問いにハルモニは「見たくもないよ。」と顔を背けられた。忌まわしい記憶が再燃することを承知で、それでも再現コーナーにOKを出されたハルモニたちの時代に対する期待に私たちは答えなければならないと思った。
2000年8月、ソウルで「鳳仙花によせる告白」出版記念パーティーに金順徳ハルモニも他のハルモニと共に参加された。日本各地でのハルモニの絵画展感想文を本にした「ハルモニの絵画展」(梨の木舎)をソウルの姜淑済さんが韓国語で編集した本である。初めハルモニたちが元気よく歌ったり、踊ったりしていたが、やがて若者たちの歌が始まった。金順徳ハルモニは体調が優れない中、若者への激励を示されようと頑張って折られたが、とうとう熱が出てダウンされてしまった。「老いは確実に迫っている。時間がない。」ひしひしと感じられた夜だった。
 水曜デモのハルモニの思い出もつきない。極寒の中、マスクとスカーフで完全装備して立ちつくしていた姿、支援者と報道陣、警察官に取り囲まれても凛として無言の訴えを貫いていた姿・・・。緊張の後は近所の食堂でほっとするひとときである。昼食後出されたミカンの皮を耳と鼻につっこんでおどけたまねをして、みんなで腹を抱えて笑ったことも・・・。
2003年8月、ワッタガッタツァーでの訪問がハルモニとのお別れになってしまった。ゲストハウスの2階に作品を並べて二人で話し合ったことが昨日のように思える。「ハルモニはもし、日本が朝鮮を植民地支配しなかったら、日本軍の性奴隷にされなかったら何になりたかったですか?」ハルモニは少しはにかむように、そして寂しそうに「戦争がなかったら私は学校の先生になりたかったよ。戦争がなかったらね・・・。」と目線を床に落とされた。申し訳ない気持ちの一方、私はハルモニのこれまでの行動力を尊敬する意味で「学校の先生になれなかったけど、私たちに戦争の悲惨さを教えて下さる立派な先生ですよ。」と伝えた。笑顔で答えて下さった。
あのトウモロコシやミルクコーヒーはもういただけないんですね、ハルモニ・・・。

 ハルモニとの思い出をたどる間に飛行機は仁川につく。21時姜済淑さんとアサン病院での通夜に赴く。以前中央病院とよばれていたこの病院は大企業が出資しており、ハルモニたちを無料で治療、入院させてくれる。姜徳景ハルモニも入院されていた。病院の西側に大きな葬祭場があり、弔問客が訪れていた。大邱のイ・ヨンスハルモニ、挺対協のユン・さん、太平洋戦争犠牲者補償推進協議会のイ・さんらの顔が見える。ウリ党のキム国会議員も私のとなりにいらっしゃった。彼は今年2月に制定された「戦争被害真相究明特別法」立法化やイラク派兵反対に積極的に取り組んだ国会議員の一人でもある。ナヌムの家の院長スニム(おぼうさん)たちの読経が始まり、一人一人が白菊を祭壇に供える。祭壇の金順徳ハルモニの遺影を見て「ああ、ハルモニは本当にお亡くなりになったんだ。」やっと、ハルモニの死が実感された。東京のOさんも空港から直接駆けつけてきた。
 ナヌムの家で4時間ほど仮眠を取り、7月2日午前4時再びアサン病院に向かう。出棺式である。冷暗所に保存していたご遺体を親戚縁者の男性が霊柩車へ運ぶ。金順徳ハルモニには3人の息子さんと1人の娘さんがおり、お孫さんは7人いらっしゃる。家族の死を悼む心に国境はない。昨夜から何度も泣いたが、またここでももらい泣き。私たちは霊柩車に続き、バスで隣のソンナム市火葬場へ移動する。土地問題から最近韓国では伝統的な土葬でなく、火葬が増えてきているらしい。「ナムアミダブル、ナムアミダブル」の読経に送られながら、ガラス越しにハルモニのお棺が台に乗せられ、いよいよ鉄の扉が閉まる。みんなが号泣する。「ハルモニお別れです。さようなら。」 骨上げまでの間、私は金順徳ハルモニのお孫さんである ヤン・さんと日本語で話しあった。日本から来た弔問客にお父さん(ハルモニの長男)が日本語のできる娘を紹介してくれたのである。彼女は26歳のとき2年間日本の大学に留学した。ハルモニが日本軍性奴隷にされていたことを知ったのはそのときである。日本へ行く前、彼女のお母さんが話し、その後ハルモニの口から直接聞いたそうだ。初めはショックだったが、そのうちハルモニのことがかわいそうに思えてきたと言う。今の心境を尋ねると、「当時の戦争状態の中でハルモニ一人の力ではどうしようもなかったことがわかる。ハルモニの問題について、日本という国にはあまりよいイメージは持っていないが、こうしてやってきてくれた日本人がいるということがうれしい。」ハルモニのことを共通話題として話し合えたことはよかったが、この好意に甘えてはいけない。つぎつぎと  ハルモニたちが亡くなられるのに、公式謝罪を拒み続ける日本政府を許している国民でもあるのだ。
 小さなお骨となったハルモニは遺族に抱えられ、黒色のリボンを掛けた霊柩車へ。ハルモニたちに協力的である葬儀会社の社長さんが自らの車に私と李容洙ハルモニを同乗させ、その後に続く。同乗の娘さんはビデオで記録を取っている。単に営業上でなく、彼女もまたハルモニの問題に関心があるようだ。悲しみの雨の中、葬列はゆっくりとしたスピードでハザードランプを点滅しながらナヌムの家に向かった。
 お骨がナヌムの家に着いたとき、ハルモニたちは既に表に出迎えていた。パク・オンニョハルモニー一番古くから共にナヌムの家で過ごしていた。言葉がなかった。ただ黙って抱きしめることしかできなかった。どうしようもない老いの我が身は人ごとではないだろう。やがて来るその日を誰もが想像しただろう。ホール2階に安置された金順徳ハルモニのお骨に向かって一人のハルモニが泣き叫ぶ。若いスタッフが抱きかかえる。葬礼式が始まる。読経の後、院長スニムはあいさつの途中、悲しみのあまり絶句されてしまった。ユン・さんがハルモニの一生を紹介する。全てはわからないが「日本政府」「謝罪」の言葉が痛い。恨を慰める踊り、詩の朗読、パンソリや太鼓の演奏が続く。金順徳ハルモニ個人のお葬式というよりも性奴隷問題セレモニーという葬礼式であった。そのくらい金順徳ハルモニが絵や行動を通して象徴的存在であったということを改めて実感させられた。
 遺骨は49日の法要後、ナヌムの家の納骨堂に納めるそうである。葬礼式の後、日本式の焼香をする私の姿が韓国の写真ニュースに載ったらしい。別に日本を背負って行ったのでなく、金順徳ハルモニ個人への思いから参列したが、写真のコメントには「日本からの参列者」とあったそうだ。結果的には日本の中にも良心的市民がいるというように解釈されたようだが、これに甘んじてはいけない。度重なる国際社会からの勧告にもかかわらず、公式謝罪をかたくなに拒絶しつづける日本政府の主流は、今回の参議院選挙でも大きくは変わらなかった。三権分立と言いながら、被告の国に有利な判決や棄却を繰り返す裁判所、それを監視するシステム作りに無関心であった私たちではなかろうか。ハルモニたちの遺言が続くこの現実を、もっとシビアに受け止める自分でなくてはならない。
 金順徳ハルモニ、見ていてください。約束はきっと果たしますから。


P.S
 ナヌムの家で葬礼式を済ませたのち、平和参与連帯の姜済淑さんたちと一緒に朴頭理ハルモニのお見舞いに行った。5月福岡の花房さんたちが行かれたときは口から食事がとれず、鼻から管を使っての流動食で、元気がなかったそうだが、今回はかなり回復されている様子だ。管もとれ、液体食事をスプーンで口から食べることができるようになった。事前に確認して持参したバナナとヨーグルトを少しづつ、口に運ぶとおいしそうに食べられた。やけどの後を手でかきむしるからと、両手はベッドにくくりつけられていたが、あまりにも痛々しいので私たちがそれを外し、両手をマッサージすることにした。そうこうしている内に手の指を自分で動かすようになり、機嫌も上々になる。ついに足を投げ出し、「足ももめ。」と言うことらしい。4人に両手両足をもんでもらい、もう最高の表情だ。そう来なくっちゃ。これで入れ歯が入ればいつもの朴頭理さんだ。6人部屋のお年寄りを二人の付添人が見てくださっている。漫才パーフォマンスなどして明るく朴頭理さんたちを支えて下さっている。ちょっと安心したが、補聴器がないことと、娘さんに連絡が取れずそのことを盛んに気にするハルモニの姿が淋しそうであった。


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