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戦後補償立法運動の現状 朴在哲(「戦争責任研究」30号)
(Last update 2001年1月28日)

■戦後補償立法運動への注目

 1990年代に入り、強制連行、植民地出身旧日本軍軍人・軍属、「従軍慰安婦」、連合軍捕虜、731部隊、南京大虐殺など、アジア・太平洋戦争の過程で大日本帝国がアジアを初めとする諸国民に与えた被害への謝罪と補償・賠償を求める運動が日本国内で大きく取り上げられ、社会問題として浮上するようになった。多くの日本人は、ほとんどその実態を知らされることなく、また知識として知っていた人々も、実際の被害者の声を直接聞くことで、大きな衝撃を与えられた。
 こうした戦後補償・賠償を求める取り組みは、もちろん90年代以前から被害当事者らにより取り組まれていたが、それ以前の運動とのもっとも大きな違いは、日本の法廷で裁判という形で争われた点にあった。
 90年代に入って戦後補償を求めて提訴された裁判は、サハリン残留韓国人の帰還請求裁判を皮切りに58件に達している(2000年9月現在。在日の慰安婦裁判を支える会調べ)。こうした裁判と並行して、中央省庁や各地方自治体関係省庁、企業などにも、交渉や申し入れが行われ、法廷の場だけでなく、直接政府機関などへの要請も行われてきたのである。
 しかしながら、95年を前後して出されるようになった法廷における判決では、軒並み原告の敗訴で終わるケースが続いている。事実関係を認定し、「立法不作為」を指摘するケースもあるが、ごく少数の例外を除き、裁判所は積極的・主体的な判断を回避し、政府見解に追随して現行の法体系では原告の求める謝罪と補償・賠償に応じることは困難とする判断が続いている傾向にあるものと指摘できる。
 一方、政府サイドでは、95年の村山談話で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たことに対し、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」したものの、補償問題については一貫して「サンフランシスコ平和条約並びに二国間条約により解決済み」との態度に終始している。在韓被爆者、サハリン残留韓国人、「従軍慰安婦」などの問題に対しては、例外的に人道的観点や「お詫びと反省」の観点から病院や老人ホームの建設、「女性のためのアジア平和国民基金」という民間募金により対応してきたが、こうした措置は、被害者の求める謝罪と補償・賠償とは全く異質なものであり、かえって問題を複雑にした。
 こうしたいわば司法・行政の責任回避消極的な対応の中で、立法府による戦後補償法の成立を通じた問題解決の道が検討されるようになったのである。
 
 立法による解決の先例としては、1988年アメリカで、戦時中日系アメリカ人に対しておこなわれた強制抑留についての補償立法が米国連邦議会で成立(市民自由法)したことと、同年日本でも台湾人元日本軍人に対する弔慰金を支払う法律(「台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」)が成立したケースがある。これらは、共に裁判を通じた法廷闘争と、議会への働きかけが密接な連携のもとに行われたことが勝因と分析されている。
 立法による解決という選択肢は、以前から議論されていたが、1995年「戦後補償立法を準備する弁護士の会」(今村嗣夫弁護士座長)が「外国人戦後補償法試案」を発表したことが、本格的に検討される契機となった。同法案は、戦後50年の節目に当たり、「女性のためのアジア平和国民基金」が発足したことに対抗したもので、戦後補償問題の立法解決に向けた本格的な議論の素材を提供することになった。(明石書店刊「戦後補償法」参照)

■戦後補償立法関連の取り組み

 現在議論・検討されている戦後処理・戦後補償立法に関連した取り組みは大きく分けて、
・「従軍慰安婦」への補償・賠償を目的とするもの
・植民地出身の元日本軍兵士への補償
・アジア太平洋戦争中の資料の公開ならびに真相の究明を求めるもの
・在日韓国・朝鮮人を初めとする定住外国人への地方参政権を付与するもの
に大別されるものと思われる。本稿では、前三者を取り上げる。
 「従軍慰安婦」問題を立法により解決しようという動きは、1995年、国連人権委員会などを舞台に運動を進めていた戸塚悦朗弁護士が「従軍『慰安婦』被害者個人賠償法案」法案を提案したことから始まる。この法案に触発され、本岡昭次・参議院議員らにより「慰安婦」問題に関連した立法化が検討されていく過程で、被害者の特定・被害の実情を把握する必要上、直接補償・賠償を求める法案ではなく、事実調査をするための法案(「戦時性的強制被害者問題調査会設置法案」)が準備され、1996年6月、26名の参議院議員により国会に提出された。
 この法案は、当該国会の会期末のため未付託廃案となったものの、「慰安婦」問題の立法解決を目指す初の具体的な動きとして注目された。この動きを契機に、「『慰安婦』問題の立法解決を求める会」がアジア諸国の議会関係者を招聘し、日本の国会議員との懇談の場を設けるなど、「慰安婦」問題をとりくむ様々な市民グループにより立法解決を念頭においた積極的な国会に対する働きかけが進められた。その後、真相究明が完了するまでに暫定的に一時金を支給する法案なども提案された。
 1998年4月、山口地方裁判所下関支部において、「慰安所」制度を重大な人権侵害と認め、戦後も被害者を立法措置により救済する義務を放置したことを理由とした被告国側の敗訴判決(下関判決)が出された。この判決をうけ、「従軍慰安婦」裁判を支援する市民グループが「下関判決を生かす会」を発足させて国会に対する働きかけを開始した。また8つの「慰安婦」裁判の担当弁護団も「元『慰安婦』の補償立法を求める弁護団協議会」を結成して法案の準備にかかり、2000年4月「戦時性的強制被害者賠償法案要綱」を完成させた。また、法律家・研究者を中心に構成する「戦後処理の立法を求める法律家・有識者の会」なども法案の検討・署名運動などの取り組みを始めた。
こうした中、99年9月、参議院決算委員会で、野中広務官房長官は、「慰安婦に対して立法を含めどのような措置をとるかは、条約などが規定している問題ではなく、憲法上の問題もない」と言明した。これを受け、本岡昭次参議院議員らは法案の検討を進め、2000年4月「戦時性的強制問題の解決の促進に関する法律案」を参議院に提案した。また、7月には共産党が「戦時における性的強制に関わる問題の解決の促進に関する法律案」を提案している。両法案は、6月の衆議院解散に伴って廃案になったが、その後の臨時国会では、社民党も独自の法案を作成し、10月に三党がそれぞれ「慰安婦」問題の解決のための法律案を参議院に提出した。民主党庵は、11月の臨時国会会期末、ついに参議院総務委員会で法案の趣旨説明が行われたが、会期終了に伴い、廃案になった。

 次に、旧植民地出身元日本軍人への補償・賠償立法の運動を見てみる。
 旧植民地出身の元日本軍人の補償請求の運動では、傷痍軍属と、BC級戦犯とされた元軍属の人々が補償を求めて運動を進めてきた。
 傷痍軍属は、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の戸籍・国籍条項により、同じく日本軍に編入させられ、従軍させられたにも関わらず、日本人なら受けられる傷痍年金を、韓国人だからという理由で受けることができないという問題である。傷痍軍属の補償を求める運動は、同法の戸籍条項を撤廃することを目的に進められた。しかし、厚生省を初めとする日本政府の対応は、「日韓条約で解決済みであり、国籍条項の撤廃は困難」との姿勢に終始した。ところが、韓国政府の解釈では日韓条約(厳密には日韓請求権協定)では在日の戦争被害者については議論の対象外とされており、事実韓国政府が1972年に制定した対日民間請求権補償法でも、補償は日本政府が行うべきとして在日韓国人は補償の対象外とされてきた。こうした経過を追及された被告日本政府の代理人が法廷で言葉に詰まる場面もあり、東京、大阪、大津などで争われたこの種の裁判では、判決において立法不作為を指摘されるにとどまらず、外国籍であることを理由に援護法の適応を除外されているのは「法の下の平等を定めた憲法14条に違反する疑いがある」とまで指摘された(1999年10月15日大阪高裁)。
 こうした中、国会の中でも特別立法の制定を取り上げる動きが生まれ、市民グループ「在日の戦後補償を求める会」などは特別立法の制定を求めて国会への働きかけを積極的に行った。その結果、野中官房長官が99年3月「今世紀末に、どういう処置がお互いの気持ちをやわらげるのか、われわれの責任を果たせるか、検討していく」と述べ、この問題に自民党としてとりくむ姿勢を見せた。その後、自民党政務調査会内に検討チームを設置し、88年の台湾人元軍人に対する弔慰金法をベースに検討を進め、2000年4月自民・公明・保守三党により「平和条約国籍離脱者の戦没者遺族への弔慰金等支給法」を提案し、同法は翌月成立した。
 この法律は、戦傷病者本人には日本政府から見舞金200万円と老後生活設計支援特別給付金200万円の計400万円、戦没者や戦傷病者の遺族には弔慰金260万円をそれぞれ一度限りの一時金として支給するというものである。しかし、旧植民地出身者を排除している「戦傷病者戦没者遺族等援護法」では、日本人なら「重度戦傷病者」の場合最も階級が低い「兵」でも傷病の程度に応じ最低約169万円から最高約1000万円が毎年支給され、現行制度創設以来の受給総額は、一人あたり約1億3400万円から4800万円にも達しており、「平和条約国籍離脱者の戦没者遺族への弔慰金等支給法」との間の格差はあまりに大きい。被害者・支援グループが求めてきた公式謝罪と年金支給も実現しておらず、同法で問題が解決されたとはいいがたい状況である。
 一方、日本軍属として徴用され、連合軍捕虜の監視を命ぜられ、日本敗戦後日本の戦争責任を肩代わりさせられて戦犯裁判でBC級戦犯とされた韓国・朝鮮人は、91年11月に東京地裁に提訴して以降、法廷での争いと並行して国会へも働きかけを進めてきた。99年12月最高裁は「補償立法措置が講じられていないことに不満を抱く心情は理解できる」としたものの、上告を棄却。これにより判決が確定した。被害者及び支援グループは、最高裁の判決に先立って、同年11月「韓国・朝鮮人BC級戦犯の補償立法を進める会」を発足させ、国会議員への働きかけを進めるなど立法運動に取り組んでいる。
 
 最後に、真相究明法を巡る動きを見てみる。 
 真相究明を巡っては、細川首相の「侵略戦争」発言に対する右派勢力の反発が高まっていた敗戦50年目を前に、94年段階で「戦後50年問題調査会設置を求める会」などが、植民地支配と侵略戦争の真相を究明するための取り組みを進めてきた。とりわけ、戦後50年国会決議を巡って右派・保守派陣営の攻勢が強まる中、真相究明の必要性が強く求められる状況だったである。96年6月、戦時性的強制問題調査会設置法案が上程されたが、その後、民主党内では調査の対象を「慰安婦」以外にも広げ、強制連行、南京事件、生物・化学兵器問題までを含む包括的な調査会を設置する法案が検討された。
 この法案は翌年6月、「恒久平和調査会設置法案」として上程が企図されたが、民主党内部の調整がうまくいかず、失敗に終わった。これを踏まえて市民グループは「戦争被害調査会法を実現する市民会議」を発足させ、「戦後処理の立法を求める法律家・有識者の会」と共に院内集会や署名活動に取り組み、国会への働きかけを開始した。98年9月、韓国の金大中大統領、中国の江沢民国家主席の来日を契機に、自民党から共産党まで100人を超える超党派の国会議員が「恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟」を発足させ、法案の検討を進めた。同議員連盟は、自民党の保守派議員の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」と懇談したり、自民党など各党での党内手続きを重視するなど、成立の条件を模索しつつ、99年8月、「国立国会図書館法の一部を改正する法律案」を121名の衆議院議員により衆議院に上程した。同法案は、国立国会図書館に「慰安婦」、強制連行、生物・化学兵器問題などを調査するために「恒久平和調査局」を設置しようというもので、三回にわたる国会で継続審議とされ、先の衆議院の解散に伴って廃案となった。同法案は、2000年11月、第150回臨時国会でさらに提出議員を増やし、再上程され、国会の閉会に伴い、継続審議となっている。

■ 立法への課題

 以上見てきたとおり、戦後処理問題の立法による解決を目指す動きは、95年を前後して本格的に取り組まれるようになった。今日までの5年間は、被害当事者にとっては実に長い年月であり、事実多くの被害者が既に物故している。戦後補償運動は時間との競争とよく言われる所以である。
 このように時間的な制限を抱えつつ、戦後処理問題の立法解決を目指す取り組みは、市民グループによる丹念でねばり強い国会議員に対する働きかけと、少数だが極めて熱心な国会議員との連携の元で進められてきた。こうした取り組みは、国会議員を対象とする国会内院内集会の開催、署名活動、チラシの配布、各党政策機関や地元選出国会議員への働きかけなど、多様な形で進められている。
 「条約などで解決済み」との主張を崩さない行政府に、戦後処理に関連した法案を提出する期待がかけられない以上、この種の立法作業は議員立法での取り組みとなる。その際には、様々な手続きが必要となる。
 まず、国会議員が法案を作成し、衆参いずれかの法制局の諮問をかける。その上で、議案として提案するための必要な賛成者数を確保する(予算の伴う法案の場合、衆議院で50名、参議院で20名)。
 法案が提案されたら、つぎに付託先の委員会での審議にかける。付託先委員会で可決されれば、本会議で採決される。こうした段階を一つ一つクリアしていくためには、超党派での取り組みが大原則となる。つまり、特定の政党だけが戦後処理に関する問題の専売特許を持つのではなく、与野党を越えて問題意識を共有する国会議員同士がネットワークを構築し、共通の認識の元で立法運動を進めることが必要である。現在のところ、国会内での過半数の同意を勝ち得るまでに至ったケースは、前述の「平和条約国籍離脱者の戦没者遺族への弔慰金等支給法」のみであり、同法案も決して充分なものとは言えない。
 また、戦後処理に限らず立法作業は、何よりも社会的な合意を形成することが前提となる。そのためにはどうしても超党派の原則を踏まえた実践が求められる。当然、運動の側も原則的な主張だけでなく、時としては柔軟な対応が求められる局面もありうる。様々な認識や立場の人たちとの合意をいかに積み上げていくか、そのための世論形成に向け、どのような働きかけが効果的か、どのようにマスコミを活用するか、どのようなキャンペーンが必要かなど多くの課題が提起されるだろう。
 もちろん、加害の事実を教科書から削除するよう求める逆風が強まっている状況では、戦後処理問題の法案成立への道のりは、決して平坦ではないと言わざるを得ない。「慰安婦」補償・賠償法、真相究明法などは、現在法案の上程までこぎ着けながらも、実質審議入りというハードルを越えられずにいる。
 それでも、ねばり強く市民と国会議員の力を合わせ、海外の世論なども味方に付けつつ、一つ一つの段階を目標化しながら、地道な取り組みを進めて行くより無いものと思われる。