関釜裁判ニュース第58号

韓国訪問記  

花房恵美子

 八月十七日から二十一日まで韓国訪問して原告の皆さんや関係者にお会いしてきました。
仕事柄夏が一番「暇」なので、毎年夏の訪問が恒例となり、今回はSんと花房二人で、三人の旅でした。

八月十七日
 お昼、釜山の金海空港から柳CAさんとの待ち合わせ場所・ササンのバスターミナルへ。そこからバスで一時間あまり宜寧(ウィリョン)の朴SUNさんの家に行きました。犬猫病院の二階の半分を借りてお一人で住んでおられます(不眠症がひどいので家族に迷惑をかけたくないため独り暮らしをされています)。この日は長男のお嫁さんが来られていて私たちを待ってくださっていました。

順福さんは、昨年は痩せて足元もふらふらして、日本語も出てこなかったのに、今回は全体にふっくらして日本語で良く話されました。

「ふとる薬」を飲んでいたそうで、医者から怒られたそうですが、お元気そうでした。

柳賛伊さんは「聴いた話を何度も聴いても仕方がない。」と、一人昼寝をしてしまわれましたが、その間SUNさんは体の具合のこと、最初に結婚した相手のこと、再婚した夫が亡くなった後日本語で手紙を代筆したり、国際市場で着物を売ったりして生活したことなど良く話されました。

国民学校八十名の中で四年生まで一番だったそうで、日本の百二十四代の天皇の名前を三日間で覚えたと、途中まで「暗誦」してくださいました。朝鮮語の授業は一週間に一時間だけだったそうです。

彼女がもし勤労挺身隊で日本に行かなくて両親の愛情に包まれたまま日本の敗戦・朝鮮の解放を迎えていたならばどのような人生を送られたのだろうと思いました。
他の全ての原告の方たちに対しても思うことですが…・

夜は釜山に戻り、柳CAさんの家の近く・海雲台でCAさんの娘さんが営まれている食堂で夕ご飯を頂きました。

近くで不動産屋を自営されている息子さん夫婦も来られて、料理上手な賛伊さんの味を受け継いでいる娘さんの料理はタラとモヤシのコチジャン炒め煮のような鍋料理をはじめ新鮮で美味しく、賛伊さんの家族総出の歓待を心から嬉しく思いました。

翌早朝、高速バスターミナルでCAさんと再会を約束してから、光州行きのバスに乗りました。


八月十八日
 バス道路沿いにはサルスベリの花が盛んに咲いていて、西日本で公園以外ではほぼ壊滅状態の松が生延びていて嬉しい風景だなと窓から眺めていました。

正午前に光州に着き、ナヌムの家の村山君に紹介してもらった大学を卒業したばかりで現在NGOで活動しているHさんと合流しました。彼女は昨年福岡での日韓学生のワークショップに参加していたそうで、実に気持ちの良い女性でした。

四時間バスに揺られて縮こまった胃にきりっと冷たい冷麺を入れて心身をピリッとさせてから、工事中の道庁をみた後、国立五・一八民主墓地にいきました。(今回、光州抗争と関わりのある場所に是非行きたいと思っていた)国家の弾圧による犠牲者がこのように葬られている墓地は日本にはないし、厳粛な気持ちになります。

広大な敷地で、遺骨のないお墓も一隅にありましたが、一人一人の顔写真を添えた墓標を見ながらゆっくり歩くと、「死者たちと、なおともにあろうとする生者たちの思いが磁場となった地なのである。」(山口泉)まさにそのように感じました。異次元の時間を経験したようでした。

隣接する追悼施設を見学してから、光州遺族会会長・李金珠(イ・クムジュ)さんの家に行きました。何度も伺ったのに、「開発」で近くに新しいビルが建っていて違うところに来たような気がしましたが、金珠さんの家の前に立つとああ何も変わっていないと安心しました。

迎えに道路まで来てもらった金珠さんは腰が曲がり痩せられましたが、毅然として上品な雰囲気は変わらず、まだ激しい戦後補償運動をなさっているのに穏やかなお顔をされていました。遺族会の会員の方が相談に見えたりして、相変わらず忙しそうです。
息子さんのお嫁さんが骨折して入院されていて、孫のポナさんが病院で付き添っているとのことで、家の中は静かでした。

懐かしく、嬉しく歓談していてもあっという間に時間が過ぎ、おいとますると、私たちが見えなくなるまで家の前の歩道でずっと見送ってくださいました。

「解決するまで死ねません。」との声が耳に残っています。お元気でいてほしいと心から思いました。 

 三菱に動員された勤労挺身隊として韓国でもっとも有名かもしれない梁錦徳(ヤン・クンドク)さんにはお会いできませんでしたが、日本の新聞やテレビにも登場されているので何年もお会いしていない気がしません。あのバイタリティでご活躍のご様子です。


八月十九日
 ソウルにむかうKTXのなかでは俊雄は韓国の民主化闘争と光州闘争の歴史をHさんに「説明」していました。韓国でも次世代に民主化運動を継承することは難しいようでした。

Hさんにはとてもお世話になり、また、彼女との旅は楽しいものでした。カンピョン駅で彼女とお別れして、ナヌムの家に。  新築された生活館は気持ちよさそうで、エレベータが付いて2階がカフェテラスのような食堂になっていました。早速お昼ご飯を頂いて、歴史館を見学しました。

歴史館を多分十回近く見学していると思いますが、この空間はいつ来てもタイムスリップして、ハルモニたちに近づけるような気がします。二〇〇六年に亡くなった朴頭理(パク・トゥリ)さんの墓参りをして、亡くなった一人一人のおばあさんたちを懐かしく思いながらも、現在ここで暮らしているおばあさんたちと話していると、自分が「一過性」の人間であるという違和感はぬぐえず、後ろめたい感情をもちました。

夜はソウルに戻って、明日は日本に行くというナヌムの家のスタッフ・村山君たちと楽しく食事をしました。先ほどの「違和感」や「後ろめたさ」を若い彼等に肩代わりしてもらっているようで申し訳なく思ったものです。

八月二十日
 朝一番にウリチブの李順徳(イ・スントク)さんに会いに行きました。昨年は「遺言」めいたことを言われたので、「この一年よく生き延びてくださいました」という感謝の気持ちが涌いてきます。スタッフの呉さんによると、朝から具合が悪くて病院に行こうと言われていたそうですが、私たちが訪問すると聞くと急に元気になったそうです。自分の老いた親たちのことが頭をよぎりました。

「(慰安婦時代に)よく殴られた。キセルでたたかれた。頭が痛いし、耳も遠い。薬をたくさん飲んだ。早く死んだらいいよ。」「死んだら可哀相と思ってくれるか?」「早く死んで、良い所に行って、可愛くなって、また戻ってくるよ。」 「若いときは可愛かった。今はダメ」「内地に行ったときは若かった。今は年をとって仕方がないよ。(日本に)来いと言われてももういけない。」

下関判決を勝ち取ったのは李順徳さんの本人尋問によるところが大きかったというと「ありがとうね。そう言ってくれるのは。」 秘蔵の写真を見せてくださって、それは七十年代の終わりからのものでしたが、ゆっくり見て説明を聞きながら、彼女の半生を皆で慈しんだ楽しい時間でした。

ジャージャー麺をおごってもらって、おいとましようとすると、「昼寝をしていけ」とか、何とか帰すまいとなさって、申し訳ないやらありがたいやらで言葉が出てきません。順徳さんに玄関先で泣きながら見送られて、何度も振り返りながら、この坂道を帰るときはいつも泣いていると思ったものです。

 午後一時の金JOさん、羅FAさんとの待ち合わせにはかなり遅れましたが、坂本さんがお二人の話を聴いてくださっていました。

JOさんは高裁判決のあとの裁判所構内での抗議行動について、「年も年なので覚悟を決めてきたのでずっと構内にいたかったが、日本の人たちに迷惑をかけてはいけないと思った。」と、日本の運動と警察との関係について心配しておられました。

また、彼女のお姉さんは名古屋・三菱訴訟の原告ですが、一人では外に出れない病状なのでJOさんは付き添いとして光州での三菱の原告団会議や東京行動にも参加されていて、三菱訴訟を光州で支援する市民たちや日本の支援団体の活躍に感謝しておられました。

「市民がこれだけ頑張っているのに(韓国)政府は何もしてくれないだけではなく、関心ももっていない。こんなに簡単に『棄却』になどならなかったはず」「今年に意味があるので、今年に(不二越が)やってくれないとだめではないか」など、韓国強制併合百年の今年にかける意気込みを熱を帯びたように語られ、返答に窮しました。

不二越では敗戦を知らされず、十月まで仕事して、突然船に乗れといわれたが、帰国するとは言われなかったので、荷物は全部置いてきたし、給料の事も考えもしなかった。

夜は靴を履いたまま、防空頭巾をかぶったまま寝て、空襲警報が出て逃げて、帰ったらすぐ出勤時間だった。あまりおなかがすいて寮の周りの草を食べたが、除草剤が撒いてあって、髪の毛が抜けた。」など、当時のことも話されました。四時間近く喫茶店にいたので、羅FAさんは腰がかなり痛そうでしたが、決して横になろうとはせず、JOさんの話を「私の言いたいことは全部言ってくれている。」と楽しそうに聞かれていました。

八月二十一日
 朝、認知症の進行が心配な朴小得(パク・ソドク)さんのお見舞いに行きました。驚いたことに息子さんが待っていてくださいました。チョンリャンリ駅の近くの療養所(老人ホーム)におられて、おじいさん(小得さんの連れ合い)が今年の一月に肺がんでお亡くなりになったそうで、おじいさんの一年あまりの闘病の間、小得さんは彼にひどい言葉を投げかけていたそうで、息子さんは二人を引き離すために療養所に入れたそうです。

入所者十二人のこじんまりとした所で、同室のおばあさんにもよくしてもらっているそうで、認知症が進んで息子さんも分からなくなっておられましたが、気分はよいようでした。

小得さんにお会いしたときにあまりに痩せられてドキッとしましたが、話していくと「ああ!やっぱり小得さん!」私たちの顔はわからなくても目は強い光をもって、彼女の世界で尊厳を持って生きておられました。息子さんの温かいまなざしと彼女の気の強い子どものような仕草は彼女の最晩年が理不尽ではなく尊厳を持って終わろうとしていることを感じることができました。


 昨年までの訪問と今回の感想が違うと感じるのは、おばあさんたちの最晩年の命の輝きを強く感じられたことです。前は、できることが少なくなっていく彼女たちを見て切なく、苦しかったのですが、今回は命の強い光を見たように思います。

あの認知症が進行して息子もわからなくなっている朴小得さんの目にもその光を感じました。責任、義務、罪悪感などの感情に縛られることなく(解放されたわけではありませんが・・)、村山君やHさんや坂本さんたちの助けを得て、貴重な時間をおばあさんたちとすごせたことは幸せでした。
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