関釜裁判ニュース第57号

インドネシアにおける日本軍「慰安婦」問題  

まとめ K・Y(下関)


十二月四日、福岡市(福岡聖パウロ教会)で表記テーマの集会がありました。
主催は「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会でした。この集会は大阪、名古屋、東京で開催されてきました。インドネシアは人口約二億二千八百万人(その面積は日本の約五倍)、その人口は世界第四位です。戦時中、この国に日本軍が進駐して各地に慰安所をつくりました。インドネシアの「慰安婦」問題を発掘してきた木村公一牧師は集会で、中曽根元首相の責任を追及しました。〈中曽根康弘元首相はその回顧録『終わりなき海軍』(一九七八年出版)で「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」(九八頁)と書きました。〉

 続いてエカ・ヒンドゥラテイさん(ジャーナリスト)の報告がありました。彼女は木村牧師と連係して被害者の発掘をし、その証言をもとにした『モモエ:彼らは私をそう呼んだ』(二〇〇七年)を発表。その本は一万部をこえ、インドネシアでの「慰安婦」問題の理解が浸透する助けになっています。


*エカ・ヒンドゥラテイさんのお話 
  ― くりかえし殺される人々のこと ―


 インドネシア歴史教科書は「慰安婦」を「日本兵相手の売春婦である」という理解を大きく変え、「インドネシア国民史、第六巻」に取上げられ、解決されるべき人道問題となりました。

私は木村牧師の調査の延長で全国に及ぶ調査をしましたが、調査をして初めて彼女らの苦しみを深く理解できるようになりました。インドネシアには様々な島があり、いろんな被害者が各地に居ます。私が最近調査したブル島の「慰安婦」被害者のことを話すときに“MATAORI”という概念が欠かせません。アリフル族の言葉で「くり返し死ぬ」という意味です。

先ず、彼女が殺されたのは日本軍によりジャワ島からブル島に連行されたこと。次に日本軍兵士によってくり返し犯されたこと。第三に日本敗戦で彼女らは放置され、現地で男達と強制結婚させられたこと。 彼女らはこうした経験から人間が生きる歴史を断たれました。ジャワという過去にも帰れず、未来にも希望がないのです。彼女らは日本の敗戦で故郷に帰れずブル島を支配している因習にがんじがらめにしばられ固定されました。

東ジャワからムカロミさんは連れて行かれ、一九四五年、日本兵の子を宿したムカロミはブル島から脱出をはかります。そうして七日間、山を逃亡してレナンムリアという港に着き、小船でジャワへ帰ろうとしたが、日本軍に捕らえられました。そうして日本兵の子を生みます。日本の敗戦により今度は現地住民と強制的に結婚させられ、この社会に同化するように強制させられました。それに従うことが生きる唯一の道でした。ムカロミさんは二度結婚させられました。女は物件で相続物件として扱われます。兄が死ねば、その弟の物となるのです。

このようにしてブル島の被害者はくり返し殺されたことになり、最後に日本政府によりとどめを刺されて終わることになるのでしょうか。




 *スハルティさんの証言

こんばんは、ジャワ島で生まれ今バリクパパン(ボルネオ島)に住んでいます。私は日本軍によって連れてゆかれましたが、直接でなく日本軍は一つ一つの村に人員供出を命令し村の長が私の家に来ました。

村長が私の家に来て、この村から五十人の男女を日本軍に供出せねばならなくなったので協力してくれと言った。私の家に村長と一緒に来た町の役所幹部が来た。私はその時一人で家に居た。役人が隣の人に聞いて「ステファルファの子ども」と言ったのを今でも覚えている。役人が「父に明日は畑に行ってはいけない、私が来るから家で待っているように」と言った。翌日、役人が来て「年が十五歳なら五日以内に事務所で登録するように」と命じた。父はその事務所に行かねばならなかった。

父は「この子は十五歳で学校にも行っていない。そういう娘は行かせられない」と言うと役人が「自分は命令に従っているだけだ。この命令に従ってもらわねば」父は「それでは娘はどこで何をさせるのか」と言うと「知らない。命令に従っているだけ」父は「何をするか、どこへ行くかも分からずに娘を渡せない」と拒んだ。すると「娘さんに日本軍は教育の機会を与え、タイピストか看護婦か学校の先生にする」と言った。父は仕方なくサインした。そして娘を渡すことにした。

父は私を連れて夜中の二時に村を出て早朝六時に約束の町に着いた。そこには沢山の娘達が集まって出発を待っていた。十時になると出発で、二台のトラックが来て役人が点呼を取った。私はトラックに入るように命じられ、イヤと拒否した。父は「いつ再び会えるのか」と私に声をかけた。

トラックはスラバヤという大きな港町に着き、船に乗せられた。午後五時に着いて、船に乗って食事を与えられ「一人も乗らない者はいないな」と点呼を受けて七時に出港した。

食事が与えられても食べる意欲はなく、私に幻のように現れるのは父の最後の姿だった。

船は二泊三日してバリクパパンに着いた。

着くと日本兵と兵輔が来て皆、車に乗れと命じられ、車に乗せられた。私たちは長屋(慰安所)に連れて行かれ、そこにジャワ語を話せる男が居た。何をするのか?と聞いても応えなかった。ナカソネという男も居た

着いて二日後、身体検査をさせられ四日目、券を売る男からある所へ行けと言われた。何をしに?とたずねると「働くんだ」と応えられた。

私が待っていたところ車が来て、それに乗った。運転手はジャワ人でどこへ行くのかと聞くと「オノの所」だと言う。オノはバリクパパンの住人でなくサンダカン(ボルネオ北部)という町から来た客であった。 私はオノの家に連れて行かれ、ナカソネという兵士が命令した。ジャワ人は命令に従っているので何も聞いてくれるなと言った。将校が生活する場所でオノに初めて会った。ゲストハウスに泊まっているオノと五日から六日間、伴にするように命じられた。オノは私に最後の日に、サンダカンに一緒に来るかと言った。私は無知であり、何も返事をしなかった。バリクパパンで働き始めた。働き始めることは働かされることだ。


午後一時から五時まで夜は七時から十二時まで一時間に一人を相手せねばならなかった。バリクパパンでは毎日同じことの繰り返しだった。

連合軍の爆撃が始まり日本軍はどこかへ行ってしまい、一人の兵士も来なくなった。連合軍がバリクパパンを制圧し、受付係の男が女達を集め、今から自由に歩むが良いと言った。もうここにいてもどうしようもなかった。

私はジャワへ帰ると言うと、この男は「今、戦争中のこの港からジャワに帰れない。バンジャルマシン(ボルネオ南東部)に行ったらそこからスラバヤに帰れる。」という。(バリクパパンからバンジャルマシンはジャングルを越えて福岡〜大阪ぐらい距離)歩いていくといっても地理は分からず皆で行こうとなった。 そこからその道の入口まで(四十二km)は車で送っていこうとその男が言った。私たちはそこで下ろされてそこから三十日間位、家を見ることなくジャングルの中を逃避行した。食糧も尽き、そこらのものを食べないと生きられなかった。空腹の中で大きな木の下で休み、そこらの食物を取って進んだ。三十日位かかってバンジャルマシンとバリクパパンの境界線で民家を見ることができた。その家の持主がバナナに似たものを炊いてくれて体力を回復した。五十二日間かかりバンジャルマシンに着いたのだった。

ジャングルを抜け出るとき、村人が私たちを取り囲んだ。彼らはダヤック人で言葉は全然分からなかった。バンジャルマシンに行きたいがどう行けば良いか?とインドネシア語で聞いたら、インドネシア語の出来る者が教えてくれた。そこでそのインドネシア語が出来る男が酋長を呼んで来た。

酋長が、なぜ女ばかりがここに来たかとたずねたので、バリクパパンが焼かれてと言うと、酋長が「どうして?」と聞きさらに説明をすると、土曜日にトラックが来るので、土曜日まで待てばバンジャルマシンへ行ける。そのトラックはその村のゴムなどを運ぶためのものだという。

酋長の言うとおりトラックが来て、翌日それに乗ってバンジャルマシンへ向かった。

バンジャルマシンに着いたら運転手がどこか?とたずねたので住所を書いた紙切れを示すと、「そこは行かない。立入り禁止だ。その手前まで」と応えた。そこはバリクパパンの慰安所だった。トラックを降りてそこまで歩いた。その建物で掃き掃除をしていた男は驚き「いったい何しに来たのか」とたずねるので「行けば何とかなると聞いた」と応えた。男は自分の妻を呼び私たちはそこの休息所で休み、その人の妻が世話をしてくれた。午後六時頃だった。

そして既に働いていた沢山の女たちが私たちを見て泣き始めた。初めその意味が分からなかった。

バリクパパンは爆撃されて日本兵は居なくなったが、ここは爆撃されず、日本兵が沢山居た。私たちには着物が与えられ、チカダという男が来て受付の男に一人ひとりに部屋を与えて、二日後から働きはじめるように命じた。それから六ヵ月間働かされた。

六ヶ月後バリクパパンと同じ状況が行われ連合軍が爆撃、制圧した。受付の男が私たちを集め「日本兵は居ない。皆責任放棄して逃げた」と話した。私たちは帰るところに帰るがいいと言われたが、その手段は与えられなかった。

四日後にシティという婦人が来た。シティさんは町でレストランを経営していた。働きたい人は私の所へ来るが良いと言ったので、みんながシティさんの下へ行った。シティさんは気の利く、容姿の良い女の子を選んで働かせた。そこに多くのインドネシア青年が働きに来ており結婚させて社会復帰させた。シティさんは「あなたも結婚して」と声をかけてくれたが私は結婚はしない、お金を貯めてジャワに帰ると言った。シティさんは「両親が知ったら自殺するぞ」と言われた。シティさんは毎日毎日、あの人、この人はどうか、と勧めた。私はジャワへ帰ると言っていた。

ある日「お前は何十人断るのか」と真剣に私の目を見て「夫と一緒に帰れば、お前の村と家族はお前を受け入れてくれる」と迫った。そこで結婚を決めた。ジョグジャカルタ(ジャワ島)からの青年で、カトリック、自分はイスラムだった。私は夫から信頼され、愛された。近所の人からも受け入れられ、夫は一九七〇年に他界した。夫以外に私の過去は誰も知りません。夫はどんなことがあってもそれを持ち出すことは一度もなかった。私と夫の間に七人の子、二十七人の孫、十六人のひ孫が与えられた。

今はバリクパパンに住んでいます。日本政府に対しては、正式に謝罪してほしい。「慰安婦」を代表してそう思う。

私たちに対して公式の賠償をしてほしい。そしてこれがどれだけひどい人権蹂躙であるかを私たちは学んでいる。

日本の学校、歴史教科書にこの事実を書いて子どもに教えてほしい。二度と戦争を起こさないために。

 聴いて下さった方々に感謝します。

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