関釜裁判ニュース第56号

ユさんの発言  

  

十月五日結審後の記者会見にて

 国に帰ってきたときのことを話します。私たちが国に戻ったときは終戦間近で、沙里院に工場を建てるから、先生から働いてほしいといわれました。幼いときで、先生のいうことを信じたが、みんな嘘でした。船は牛馬を乗せるような大きな船でした。

当時は戦時中で、機雷がたくさんあり、まっすぐ向かえず、私たちの船の横には、小さな船が二隻あり、機雷を処理しながら進み、目的地まで一週間かかりました。清津(チョンジン)まで、ろくなものを食べられず、船酔いで苦しかった。清津について、学校に泊まりました。一晩寝て、翌朝、まだ工場ができていないので、一ヶ月間の休暇を与えるから、家で待機するようにいわれました。だまされ続けて、給料をもらえないまま家に帰りました。

 工場ではお腹がすいて、腰ひもをきつく締めて、空腹に耐えて仕事をしました。私は背が高く、身体が大きかったので空腹はつらかった。足には霜焼けができ、病院の帰りに道ばたの草を摘んで、茹でてもらって食べました。とてもお腹がすいていて、その上仕事の対価も支払われずに済ませていいのでしょうか。私は我慢して耐えましたが、あまりにつらくて、工場から逃亡した人もいました。不二越は対価を支払うべきです。嘘をついて幼い十二〜十五歳の子どもをこき使ったことが許されるでしょうか。こんな高齢になってまで、争うことになりましたが、皆さんの力を貸してください。
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