関釜裁判ニュース第54号

合宿学習会の感想

N・T
福岡で今回の学習会の目的の一つは、わたしたちが「慰安婦」問題を語るとき、相手に解かる「語り」を再構築していく、というものであったと思います。その背景には「つくる会」などの保守勢力が強まる中、今ここで、それらに対抗できる理論を打ち立てていくことは緊急な課題でもあるわけです。

東京、京都、大阪、名古屋、宝塚、愛知そして韓国から「慰安婦」問題に取り組んでいる人たちが一堂に集り、解決に向けた具体的な方策を紡いでいくための話し合いでした。

「慰安婦」問題を解くには、性支配、階級差別、民族差別、天皇制、男社会など多様な問題を孕み、それを「語る」ことは、総合的な把握が要求され、わたし(たち)の姿勢が問われることでもあります。

今回、私は被害者と「わたし」の関係性について改めて考えました。被害者が次々に亡くなられ、政府を動かす最後のチャンスかもしれないという時に「わたし」を持ち出すようなような悠長な時間はない、といわれそうですが、彼女らによって照射される「わたし」の問題です。

日本政府への謝罪と賠償の要求は、やっていかなければならないことです。ただ、わたしが拘るのは、昔も今も女性性が「慰安」の提供者とさせられるようなシステムになっているのはなぜか。そして、私のセクシュアリティもこのシステムの中で機能しているのですから、このシステムのどこに自分はいるのか、社会とどのように繋がっているか。このセクシュアリティの問題を歴史、民族のテーマと絡めて考え、「慰安婦」問題をどう語っていけばいいのか、ということを一層強く感じました。「個人的なことは政治的こと」であるから、国家の責任を不問にすることでは決してありません。

もっと、根源的な部分で社会システムを変えていけるような「語り」をいかに生み出していくのか、わたしたちの今後果たすべき課題ではないだろうか。学習会で考えたことです。

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