『戦時下支那渡航婦女の記』A(関釜裁判ニュース52号より続く)
平尾弘子
〈三〉国外移送・国外誘拐罪
日本から女性をだまして慰安所に連行する行為を旧刑法の「国外移送・国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で有罪と処罰した日本の司法判決が、現在、一件だけ明らかになっている。「国外移送誘拐被告事件」と称されたこの事件は、まず大審院(現在の最高裁)判決(一九三七年三月五日)が発見され、その後、戸塚悦郎龍谷大学法学部教授(国際人権法)により下級審判決が見出され、判決文の全容が報告されている。
「長崎地方裁判所判決からわかることを要約すれば、同地裁は、被告人らが共謀の上昭和七年(一九三二年)に起こした事件について、上海に設置される海軍の「慰安所」で「醜業」に従事させるために日本内地の女性を騙して誘拐し、これらの女性を長崎港から乗船させて国外に移送したとして有罪と認め厳しく処罰した(判決の言い渡しは事件発生から四年後の昭和一一年(一九三六年)二月)のことである。また、長崎控訴院は、刑期を短縮したものの、基本的にこの地裁判決を支持した。」(『戦時女性に対する暴力への日本司法の対応、その成果と限界』戸塚悦郎 季刊戦争責任研究二〇〇四年春季号、二〇〇四年夏季号)
前掲報告によれば、十五名の被害者は、全て長崎県在住の日本人女性で、連行の手口は、いずれも甘言をろうしての就業詐欺行為であった。すなわち、上海での労務が、「醜業」であることを秘し、食堂の女中や女給、仲居等の職をあっせんするとして言葉巧みに海外に移送した後、海軍指定慰安所で性行為を強制した。
長崎地裁判決(一九三六年二月十四日)の直後に白銀の首都を血で染めた二・二六事件が、勃発している。軍部台頭の時代背景から言えば、女性の尊厳に与した極めて良心的な判決と言えよう。
しかし、日本軍「慰安婦」制度の核心に当たる箇所は、この判決でも言及処断されることはなかった。「国外移送誘拐被告事件」は、そもそも上海事変後、同地に開設されたごく初期の段階の海軍指定慰安所に長崎の女性を騙して移送したケースである。当然、推測される軍との共謀関係には、一切、触れられておらず、軍関係者の訴追も行なわれていない。
福岡の新聞調査チーム(第一章参照)では、戦前の日本の司法府で日本軍「慰安婦」制度について唯一、処罰判決を言い渡した地が長崎であり、また近代、「からゆきさん」と言われた海外渡航女性を多く輩出した県でもあることから長崎新聞の調査も行なうことにした。調査の過程で特筆すべき事実が浮彫になってきた。
「国外移送誘拐被告事件」の被告人は十名であるが、その内の首謀者二名は、両名とも当時、長崎市会議員を務めていた。大審院で上告が棄却され、有罪が確定した時点でやっと市会議員の職を失格している。(長崎新聞〈夕刊〉一九三七、三、七)
底辺で手を汚す業者だけが網にかけられたと推測していたが、軍と業者を仲介する議員の存在もあった訳だ。もちろん当時、貸座敷業者等が政界に進出し、既得権を保持しようとするような動きもみられ、この両名は、議員と接客店経営両方を兼ねていたのかもしれない。
長崎新聞(一九三七、三、七夕刊)に拠れば、長崎市会議員藤田稔、同岡崎安太郎両名は、一九三〇年秋、相携えて上海の魔窟街を見物し、同地に日本婦人専門の魔窟街を造ることを思いつき、上海事変後、その鎮静を待って上海に渡ったとある。
長崎市会議員二名が相携えて事変後、上海を訪れた時点で、上海派遣軍と何らかの形で接触があったのではなかろうか。
この事件に対し、大審院で有罪が宣告された一年後、内務省警保局と陸軍兵務局から相次いで「支那渡航婦女」に関し、通牒が発せられている。(内務省警保局通牒「支那渡航婦女の取扱いに関する件」一九三八年二月二十三日)(陸軍兵務局兵務課通牒「軍慰安所従業婦等募集に関する件」一九三八年三月四日)軍も内務省も「軍慰安所従業婦」募集に関し、深刻な問題が生じていることを把握していた。
陸軍省兵務局兵務課起案
「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」
一九三八年三月四日
紀元庁(課名)兵務課軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件
陸支密
副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛
通牒案
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ故ラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ或ハ募集ニ任スル者ノ人選適切ヲ欠キ為ニ募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少カラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於テ統制シ之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ其実施ニ当リテハ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上並ニ社会問題上遺漏ナキ様配慮相成度依命通牒ス
陸支密第七四五号 昭和拾参年参月四日
通牒の文言に即せば、これ以後、軍は憲兵及び警察との連繋を密にし、本格的に日本軍「慰安婦」募集の統制に乗り出そうとしていった。
〈四〉女性へ大陸に進出せよー新聞広告の陥穽
体の線も鮮やかに華麗なチャイナドレスに身を包んだ女性の後ろ姿が、新聞の紙面を飾っていた。中国人女性かと思えば、新聞の見出しには、「晴れの会場として登場した東亜倶楽部、サーヴィスガールは殆ど筑後むすめ」と大書されている。南京陥落後の南京の夜を彩るこの女性たちの多くが、福岡の田園地帯筑後の出身であるという。(一九四〇.三.二十一福岡日日新聞)
「東亜倶楽部」は、南京における在外領事館職員や中国側要人の夜の社交クラブとして蒋介石の国民党政府が使用していた建物を、日本軍が占領後、接収して使用したものである。
福岡は、地理上、大陸の玄関口に位置し、日本の東アジア進出への足場となった地である。また、国内有数の採炭地を抱え、石炭産業の隆盛は、風俗営業の隆盛ももたらした。しかし、日中戦争が長期化の様相を呈し始め、青壮年男性が兵役に召集されていくなかで、国家総動員体制へ邁進し、国内の歓楽街は、段階的に縮小されていった。このような背景のなか、占領地が拡大するにつれ、接客業婦たちもまた、続々と大陸へ渡っていった。
長崎新聞(一九三九.・十・十三)には、大連と長崎を結ぶ近海郵船大連航路淡路丸という船の長崎港からの乗船客の約半数が、相も変わらず〈娘子軍〉(2)であったという記事が、掲載されている。中国戦線にまず、男たちが投入され、後を追うように女たちも海を渡った。
それは、当時の新聞の求人欄からも伺い知ることができた。〈外地〉、特に中国の占領地への女給等の接客業婦の求人が、非常に多い。
一九三九年八月〜九月の福岡日日新聞の求人欄には、「女性よ大陸に来れ」「女性へ大陸に進出せよ」など、《娘子軍》−文字通り、戦いに付き従う娘たちの軍隊といった趣きの勇ましいスローガンが、紙面に跋扈している。売春に充当させる内地の女性を戦地に大量移送するべく、新聞というメディアがフルに活用されていることがわかる。
思えば、長崎の「国外移送誘拐被告事件」(第三章「国外移送、国外誘拐罪」)の場合も、連行の手段は暴力によるものではなく、あくまでも高給で有利な就職口を斡旋すると騙して海外に移送する就業詐欺行為だった。この事件と同様の被害を惹起するような求人広告を堂々、西日本で有数の発行部数を誇る新聞の求人欄に掲載してもはばかることがない。募集元が○○旅館内○○と滞在先の宿泊所を指定して募集先の身元が確認できないようにしていたり、調べていくと同じ業者が様々な募集名、募集元を使い分けて徴募しているケースもみられた。
なかには軍との関連をはっきりと明示した求人もある。たとえば、一九四〇年の福岡日日新聞の求人欄には、次のような募集広告が出ている。
● 二月二十五日 中支行募集 町尻部隊本部酒保付属第一食堂サービス係嬢数名 年齢二十歳以上三十歳位迄固定給五十円。別収二百円確実。料理○○
● 六月十二日 急募中支軍人会館行き 女従業員 満二十一歳以上三十歳迄 月給六十円外月収百円以上 健康者の美人を求む。毎月公休二回 旅費支給。親権者の承諾を要す。委細面談。遠方の方は写真送付。○○新聞舗
● 九月十一日 海軍指定大食堂女給仕数名急募 中支漢口行月収百二十円位。年齢満二十歳以上二十四五歳迄。旅費当方より支給します。親の承諾書入用本人面談。○ ○糸店
このような募集のすべてが就業詐欺行為と断定することはできないが、法外な賃金や別収を提示しているケースは、文字通りの職務であるのかどうか疑惑が生じる。また、その多くが前借に応ずとか親の承諾書が必要など身売りや醜業目的の渡航証明書発給に必要な条件を提示している。さながら新聞が、占領地下の人身売買ネットワークの連絡網を呈する観がある。実際、当時、新聞広告に釣られて娘が誘拐されるというような事件が頻発していたことは、前述のとおりである。(第二章 大陸の玄関口―門司港参照) (続く)