今も続く被害者の痛み緒方
二月二七日〜三月十日、「ストーンウォーク・コリア 二〇〇七」の打ち合わせを兼ねて韓国を訪れました。ここでは、私がお会いした被爆者の方々と日本軍「慰安婦」被害女性のことを書きます。
■三月三日、陜川訪問
姜JHEさん、長崎の廣瀬さんと一緒に慶尚南道の陜川(ハプチョン)を訪れました。陜川は「韓国のヒロシマ」と呼ばれ、被爆者の方々が多く住んでいる地域です。沈さん(韓国原爆被害者協会陜川支部長)の案内の下、陜川原爆被害者福祉会館を訪問。事務局長の金さんにお話を伺いました。
福祉会館は、被爆一世の方々の療養施設として一九九六年に開館し、現在八十名の方が入居されています。工芸や園芸、絵画等のプログラムもあり、館内に作品が展示されていました。私たちが訪れると十名ほどの人たちが部屋に集まって下さり、短い時間でしたが交流することができました。入居者の中には、被爆者健康手帳を持っていない方もおられるとのこと。現在、手帳の交付申請には来日しなければならず、寝たきりや重病の方には大きな壁となっています。
その後、被爆二世の方のご自宅にも伺いました。広島で被爆した父親は三十年前に他界され、母親(八一歳)と弟さんの三人で暮らしておられました。お母様が話して下さったのですが、被爆二世の息子さん(五六歳)は、十歳を過ぎた頃から徐々に目が見えなくなり、耳も遠くなっていったそうです。外出には母親の助けが必要で、「一番心配なのは、自分の死後、目の見えない息子がどうなるかです」と、時折涙を流しながらおっしゃっていました。
姜さんのお話では、韓国において原爆は極めてマイノリティの問題であるとのこと。原爆資料館のような施設はなく、専門研究自体が進んでいない。被爆二世の人たちに対する支援体制も整っておらず、基本的人権が保障されていない。昨年韓国国会に提出された被爆者のための特別法案は、被爆二世の人たちへの医療・生活支援を含むものでしたが、残念ながら廃案となりました。その他、北側の被爆者問題等課題は山積しており、国境を越えた連帯の必要性を感じました。
■ 三月五〜六日、ナヌムの家訪問
ナヌムの家はソウル近郊の広州市に位置し、日本軍「慰安婦」被害女性のハルモニ(おばあさん)たちが共同で暮らしている所です。今回、特に健康状態が気になったハルモニは、朴玉蓮(パク・オンリョン)さんと文必_(ムン・ピルギ)さんです。日本人スタッフのMさんにお聞きしたところ、パク・オンリョンさんは、一月下旬、夜中に何度も吐くということがあり、二月下旬に退院されたばかりでした。ムン・ピルギさんは、十二月〜一月にかけて三度入院し、一時期はとても危険な状態だったそうです。他のハルモニも入退院をくり返し、決して安心できる状態ではありません。
そのような中、私が訪れる数日前に「慰安婦」の強制性を否定する日本の首相の発言がありました。韓国メディアで大きく報道され、ニュースを見たハルモニたちは皆、怒っていたそうです。「このままでは死ねない」と言って…。日本人として本当に申し訳なく思いました。
■三月七〜八日、水曜デモ参加とウリチプ訪問
ソウルの日本大使館前での水曜デモは三月七日に七五一回目を迎え、多数の報道陣が取り囲む中、ハルモニたちは日本の首相の発言に精一杯抗議していました。この日は「世界女性の日」の前日ということもあり、日本やオーストラリアなど海外でも連帯集会が開かれました。その後、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の事務所とハルモニたちの憩いの家「ウリチプ」を訪れました。ウリチプでは、李順徳(イ・スンドク)さん、李容洙(イ・ヨンス)さん、挺対協の梁さんと一緒に夕食を頂き、楽しいひとときを過ごしました。翌朝ウリチプを再訪し、ハルモニたちに別れを告げました。その時のイ・ヨンスさんの言葉を紹介します。
「日本と韓国は隣同士の国だから、仲良くしなければいけません。それなのに、日本はだんだんひとりぼっちになっているような気がします。若い人たちがかわいそうです。(「慰安婦」問題を)早く解決しなければ…。もう一六年にもなるのに…。日本は、被害者が死ぬのを待っているようです。しかし、被害者が死んだら終わりではありません。きちんと国会で法律を作って、謝罪して賠償しなければ、本当の解決にはなりません。」
別れ際に歌を歌って下さり、イ・スンドクさんも隣で踊って下さり、その心遣いに胸が熱くなりました。
■ 三月十日、釜山訪問
挺対協の姜さん、東京のTさんたちと一緒に、釜山の療養施設におられる黄錦周(ファン・クムジュ)さんのお見舞いに行きました。ファン・クムジュさんは突然の訪問に驚かれた様子で、「(ここで再会できるなんて)夢のようだ」と何度もおっしゃって、喜んでおられました。痴呆が進んでいると伺っていましたが、私にはあまり分かりませんでした。ただ、昨年九月にお会いした時よりも体調は回復されていましたが、今後、集会等で発言されることはないだろうと感じました。お元気だった頃、ファン・クムジュさんは毎週欠かさず水曜デモに参加し、二〇〇五年秋には福岡の集会でもお話し頂きました。日本政府による謝罪を声がかれるほど訴えておられたハルモニの姿が、痛みや切なさとともに思い出されました。
以上、在韓被爆者と日本軍「慰安婦」被害女性のことを書きましたが、その他にも日本の侵略と植民地支配により被害を受けた方々はたくさんおられます。多くの方が無念の内に亡くなられました。生きている方々も心身の傷を抱え、その痛みや苦しみは未だに続いています。「戦後」六十年以上、あまりにも長い被害の継続。被害者の傷の深さを思うと、時に私自身言葉を失いそうになります。被害者の痛みを本当に理解することは難しいことです。しかし、できる限りその痛みを理解しようと努めることは可能だと思います。傷つけた他者の痛みを理解しようとすることが、和解と平和の道につながると信じています。
(以上)