関釜裁判ニュース第52号

『戦時下支那渡航婦女の記』(1)

平尾弘子

 

〈序にかえて〉

「女たちの戦争と平和資料館」に協力して、

戦時下、炭鉱や鉱山等、企業の周辺で接客業

に従事した朝鮮人女性の動向について調査を

行なうべく、主として一九三七年から一九四

五年の新聞調査を実施した。

 福岡でも戦後六十年以上経た二〇〇六年五

月から二〇〇七年一月にかけて、『早よつく

ろう!慰安婦問題解決法・ネットふくおか』

のメンバーを中心に大学院生、大学教員を含

めた構成員で、福岡日日新聞(西日本新聞の

前身)、門司新報(一九三七年終刊)、長崎新聞、

糸島新聞の戦時下発行分の調査を行なった。

 

 その調査過程のなかから、日本内地から外

地の占領地に渡った女性たちー戦時下「支那

渡航婦女」(日本から中国大陸に渡り、結果

「醜業」に従事させられた女性たちを当時の

内務省の文書では「支那渡航婦女」と記して

いる。)の動向を独自に辿ってみることにす

る。

 

(一)「支那渡航婦女」の残影

 保養所の庭には、桜の樹が何本も植えられ

ていたという。病室の窓から眺める祖国の桜

は、女たちの眼にどのように映ったのであろ

うか。

 六十年前、福岡市の近郊、二日市の地に戦

争で傷ついた女性たちが、引揚港から秘密裡

に運び込まれ、収容されていた。

 二日市保養所は、引揚者の救済活動をして

いた在外同胞援護会救療部によって、戦時中

の愛国婦人会の建物を利用し、一九四六年三

月に開設された。引揚の混乱の中で暴行を受

け、妊娠した女性の中絶やさらには、性病の

治療等まで約一年半にわたって携った。

 二〇〇五年九月末、私は、二日市保養所に

看護師として勤務した経験をもつ村石正子さ

んからお話を聞く機会を得た。二日市は、古

い温泉街しかない寂しい場所だったと村石さ

んは、当時を回想する。人目につかぬよう、

鄙びた温泉地の奥にその場所は、選定された

のであろう。

 

 村石さんは、この診療所で一人の女性に出

会った。穏やかで優しい表情のひとだったと

いう。

 ここに運ばれてきた女性たちの多くが、精

神と肉体に凄絶な傷を負い、口数も少なく虚

無的なまなざしをしていたなかで、にこやか

で笑みを絶やさなかったひとの面影は、心に

深い印象を残した。

 この女性は、性病の治療のため、入所して

いた。梅毒の三期で粘膜まで損傷し、唇も割

れ、皮膚の表面から膿が出ている状態だった。

治療といってもまだ当時、抗生剤などなく、

毎日、洗浄を行なうばかりだったという。病

気のため、髪は既に抜け落ち、坊主頭に布を

ターバンのように巻きつけていた。入所して

いる他の女性たちも中絶の手術後、しばらく

休養すると顔もふっくらとしてきて、看護師

が髪を結ってあげたり、化粧品を貸したりす

ることもあったという。

 しかし、どの女性に対しても本名、年齢、

出身地など尋ねることはなかった。また、聞

く必要もなかった。村石さんは、このひとに

も、もちろん聞いていない。当時、二十歳で

あった村石さんより明らかに年長に見えたと

いう。

 ただ、この女性の場合、話の端々から親に

身売りされ、国内の遊郭で売春に従事後、外

地に行ったら借金も減り、賃金が高くなると

いう業者の甘言を信じ、大陸に渡り、日本軍

の「慰安婦」として狩り出された経歴が自ず

と偲ばれたという。

 談話室であや取りに興じたり、他愛のない

話をするのだが、辛い過去が表情を曇らせる

ことなどなく、小太りの顔は、いつもにこに

こと優しく笑っていたという。あるいは、梅

毒が既に脳症にまで進行していたのかもしれ

ない。この世のあらゆるものから背かれ、痛

めつけられてきても誰を恨むことなく、なお

優しく柔和な表情であった。

 このひとは、保養所にいた時、ひょっとし

たら生まれて初めて、穏やかな誰にも苛まれ

ることのない日々の幸福を噛みしめていたの

かもしれない。なぶりものにされず、殴られ

ず、痛めつけられもせず…この世で初めて取

り戻した肉体の自由だったのではないだろう

か。

 たとえ、忌まわしい病魔に苛まれていても

その表情はもの柔らかく、曇ることはなかっ

たという。

 

 この女性のように業者に様々な手口で移送

され、或いは喰いはぐれて外地へ否応なく渡

っていった女たちの総数も知れず、その暗澹

たる足跡も暗闇に沈んだままだ。ここ数年、

戦争の記憶の聞き書きを行なってきたが、そ

の過程でも個人の記憶の中に長い歳月、沈潜

してきたこのような日本人女性たちのわずか

な陰影に遭遇してきた。

 内地においても「大和撫子を守る防波堤」

と目された彼女たちは、戦場においても裸体

のまま生死の交錯する苛烈な奔流の中に無防

備に追いやられ、打ち捨てられていった。

 当時、日本から中国大陸に渡り、結果、「醜

業」に従事させられた女性たちを内務省の文

書では、「支那渡航婦女」と記している。

(内務省警保局資料《一九三八年十一月四日

起案八日施行》「支那渡航婦女に関する件

伺」、

内務省警保局通牒《一九三八年二月二十三

日》「支那渡航婦女の取扱に関する件」、『従

軍慰安婦資料集』編吉見義明 参照)

 

 

〈二〉大陸の玄関口―門司港

 「博多玉屋で訪問衣や帯や買ってもらった、

勿論借となるそうだが私は嬉れしい。淋みし

いけれども満州に行って働いて良い物を送っ

てあげませう。」

 これは、長崎県彼杵郡宮村(現佐世保市)出

身の若い女性が、満州から来たという男に連

れられ、門司港へ向う汽車の車中から妹に宛

てた手紙の文面である。(1937.3.9門司新報)

新聞に拠れば、この女性の父親から、一九三

七年三月八日、門司水上署に「私、三女が新

聞広告に釣られて満州へ誘拐されました」と

保護願いが出されている。更に記事は、続く。

 「最近筑豊炭田や長崎の炭坑方面には新聞

の広告欄を利用して娘誘拐の魔手が伸ばされ

彼れ等は門司から日満連絡船に乗船に場合に

は兄妹とか夫婦とか偽証する者多く、門司水

上署防犯係では『春の波止場』を守るため一

段と検索を厳重に行ふと」

 その後、この女性の身の顛末について、新

聞は何も記していない。(1937.3.9門司新報)

 同年、七月七日盧溝橋事件が起こり、中

国戦線は泥沼化の様相を呈していった。そし

て、戦線の拡大と共に一九三七年末から一九

三八年にかけて中国大陸に軍慰安所が、本格

的に設置されていくことになる。

 大陸情勢が風雲急を告げる一九三八年春、

西日本の玄関口となっている門司港の水陸両

警察署には、娘の保護願いが、急増していた。

(1938.4.21福岡日日新聞)多い日には十二・三

件、平均五・六件保護願いが出されているが、

これはあくまで親が、きちんと保護願いを出

した場合に限られている。

 当時、門司港は、外国航路客船の主要な出

港地であり、陸軍船舶部隊支所が置かれた港

である。太平洋戦争開戦後は、第一船舶輸送

司令部となる。広島の宇品と並んで陸軍徴傭

船舶の国内での重要な寄港地であった。この

港から恒常的に皇軍兵士が海外の戦地に運び

込まれていった。

 同時に、この大陸への渡航基地は、日本軍

「慰安婦」に狩り出された女性たちの移送の

拠点でもあったと推測される。

 一九四一年九月に完成した日本郵船所有の

豪華貨客船三池丸は、竣工後すぐに陸軍に徴

傭され、御用船として多くの日本軍兵士を東

南アジアや南洋の島々に輸送する任務に就い

た。この船は、一九四二年三月から八月にか

けて、門司もしくは宇品から南方軍総司令部

が置かれた昭南(シンガポール)の間を途中の

寄港地は異なるが、みたび往復している。(『陸

軍徴傭船舶行動調書』厚生省援護局一九六一

年十二月一日)〈防衛庁防衛研究所図書館〉

 その行程の中の二回の航海で、乗船してい

た元船員(当時、三池丸の三等給仕)の証言に

拠れば、船底に二十〜三十人の朝鮮人女性が

押し込められ、厳しい監視の下、昭南へ移送

されている。(『季刊戦争責任研究』第五十

一号二〇〇六年春季号「慟哭の航路」参照)

                (続く)

               

               

               

               

 

 

関釜裁判ニュース 第52号 目次