関釜裁判ニュース第52号

〜少し長い編集後記〜

「関釜裁判ニュース」終身名誉編集長・Y

 

 

編集後記といっても、わたしは今回のニュースは編集作業にはタッチしていない。というのも配偶者の東京本社転勤で、二十二年住み慣れた福岡を離れ、三月から関東住まいだからだ。「関釜裁判ニュース」の編集に一九九四年からたずさわり、「編集長」としてお手伝いしてきたご縁からこれを書かせていただいている。

学生時代から日韓問題に関心を持ち、社会人になってカルチャーセンターで韓国語を教わっていたこともあって、ひょんなきっかけから関釜裁判にかかわることとなった。

一審の山口地裁下関支部で「一部認容」の思いがけない判決をひきだしたものの、「女子挺身隊」への補償は何も得られず、二審では逆転敗訴、最高裁でも敗訴が確定する残念な結末に終わった。

原告の女性たちと接しながら申し訳ない気持ちでいっぱいだった。彼女たちに思い出したくもないことを思い出させて証言してもらい、その結果つきつけられたのが、日本国は過去の罪に真正面から向き合おうとしない、ということだったのだ。

裁判をやっていた十数年のあいだ、めまぐるしく時代が変わった。当初「従軍慰安婦」に同情的だったマスコミだったのに、「新しい歴史教科書をつくる会」をはじめとする勢力に「自虐史観だ」と攻撃され、だんだん保守回帰と言うか、うしろむきに時代が傾いていくのを感じてしまう。それはバブル崩壊で日本経済が落ち込んで、閉塞感がじわじわと社会を覆っていくのと二重写しになっていた。

長い裁判のあいだ河順女さんが亡くなり、そして昨年はドキュメンタリー映画にもとりあげられた朴頭理さんも世を去った。煙草好きで、にっこり笑う頭理さん、ソウル郊外の病院にお見舞いに行ったときの、つらそうな頭理さんの表情など思い出はたくさんある。

不二越の訴訟でも感じたことは、「過去をほじくりかえすな。そんなにして自分の国のことを悪く言いたいか。戦争中はだれしも大変だった。戦争だから仕方なかったのだ」というある種の開き直りみたいなものが、この手に通底していることだった。それがかなり大多数のトーンで現代に満ちていることに、やはり何か不安を感じる。むしろ戦後六○年経ち、今からこそ歴史の検証と反省が強く求められるはずだと思う。

東京の人の多さにうんざりし、とんこつラーメン店がないことを嘆き、そして今一番残念なのは韓国がずっと遠くなってしまったことだ。福岡からは高速船でも行ける韓国はほんとに、東京よりも近かった。博多湾の北の延長は朝鮮半島に続いていた。でも東京では海は南にある。逆方向の東京湾からは、やっぱりアジアが遠ざかる気がしている。

 

 

関釜裁判ニュース 第52号 目次