関釜裁判ニュース第52号

アメリカ下院での「慰安婦」決議をめぐって

花房俊雄

                        

 今年初めに米下院に提出された「従軍慰安婦」決議案への安倍首相の発言をめぐり、国内外の厳しい批判が引き起こされた。安倍首相は日本の前途と歴史教育を考える国会議員の会と連携して河野官房長官談話を変更するために、日本軍や警察の強制連行を否定する発言を記者会見でした。日本政府の「慰安婦」問題認識の公然たる変更に踏み出したのだ。

 

 第二次世界大戦中の悪行に対する日本の過去清算が不十分という認識を共有し、中国や韓国をはじめとするアジア諸国との和解を日本政府に期待する欧米メディアは、安倍発言を驚きをもって迎え、一斉に厳しい批判を展開した。日米首脳会談を控えた安倍首相は「河野房長官談話を継承する」と繰り返し、必死の沈静化を図りながら訪米の旅にたった。

アメリカ下院に提出された「慰安婦」決議をめぐる経過と問題の所在、ことの問題をめぐる経過は以下の通りである。 
(1)昨年十月、安倍首相は国会で河野談話の継承を表明。
(2)今年一月三十一日 米下院に「慰安婦」決議が提出される。

その要点は

*日本政府による軍事強制売春の「慰安婦」制度は、その残虐さと規模の大きさにおいて先例がない……二十世紀における人身取引の最大の事例である。然るに
*日本の学校で使用されている教科書での「慰安婦」記述が後退している。
*日本の与党議員が河野官房長官談話を薄めるか無効にする望みを表明した。   
*アジア女性基金を通じての生存者への金銭的補償提供の努力は評価するが、三月三十一日をもって解散となり、受け取りを拒否している被害者が多数いる。

以上から

*日本政府が、明瞭で明白なやり方で正式にその歴史的責任を認め、謝罪し、
*日本国首相が…公式謝罪をするべきである
* 日本政府は明白かつ公開の場で性奴隷制や日本帝国軍人のための慰安婦の人身売買は決してなかったという主張にはいかなるものであれ反駁すべきである
* 現在と将来の世代を教育すべきであるという切実な内容のもので、決議案が米下院を通過しても強制力はないが、日本とアジアの被害当事国に対して強力な影響力をあたえるものである。

 

(3)

二月十五日 米下院外交委員会で元「慰安婦」であった韓国人二人とオランダ人一人を招いて公聴会を開く

(4)

三月一日 安倍首相 記者団に「当初定義されていた強制性を裏付けるものはなかった」

(5)

三月五日 安倍首相は決議案に対し「われわれが謝罪することはない」と国会で発言 一連の安倍発言に韓国などの当事国は勿論、欧米のメディアも激しく反発、ワシントンポスト紙は社説で拉致問題と「慰安婦」問題という同じ人権問題での安倍首相のダブルスタンダードを厳しく批判した。日米首脳会談を控えてアメリカ国内で広がる安倍発言への批判を憂慮したブッシュ政権の働きかけで

(6)

三月十一日 NHK報道番組で「河野談話を継承していく」として「慰安婦」被害者へのお詫びをのべる。

一方

(7)

三月十六日 辻元議員への政府答弁書で「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と閣議決定

(8)

三月二十六日 下村官房副長官記者会見で「日本は昔売られて女郎屋に行った時代があった。同じように親が娘を売ったことはあったと思う。しかし日本軍が関与していたわけではない。直接的な軍の関与は無かったというふうに私は認識している」と代弁。

(9)

四月十七日 外国特派員協会での記者会見で林博史関東学院大教授が日本軍による強制連行を示す一連の東京裁判に提出された資料を公開

 以上の経過に見られるように、米下院への決議案提出の理由に「日本の与党議員が河野官房長官談話を薄めるか無効にする望みを表明した。」とする懸念を日本の首相自らが裏付ける発言をしてしまったのだ。日本政府のロビー活動などで「すでに日本政府は謝罪している」との認識で決議案に慎重な姿勢を示していた国会議員は、安倍発言をきっかけに決議案に反対する理由がなくなり、賛同議員は倍増した。

(10)

安倍首相は米下院議長ら議会指導部との会談で「私は辛酸をなめられた元慰安婦の方々に個人として、又首相として心から同情し、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と語り決議案阻止に努めた。

安倍首相は米下院議長ら議会指導部との会談で「私は辛酸をなめられた元慰安婦の方々に個人として、又首相として心から同情し、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と語り決議案阻止に努めた。

 一九九七年安倍、中川議員らによって中学校の歴史教科書への「慰安婦」記述に反対し、削除を求めて結成された自民党内歴史修正主義グループはいまや塩崎官房長官ら安倍内閣で十人近くを数えるにいたり、教科書記述の元となった河野官房長官談話の修正・骨抜きを図らんとした。

 彼らの修正点は河野談話の「慰安婦の募集については業者が主としてこれに当ったが、……更に官憲等が直接これに加担したこともあった」の後半部分である。《軍や警察による強制連行を示す資料がない》ので国や軍の強制はなかったと、国の責任を小さくする試みである。

 

 しかし承知のごとく、強制性は連行の形態だけが問題ではない。連行の形態がいかなるものであれ、長年にわたる慰安所での強制売春につながることが問題なのである。

 すでに開示されている軍の公文書を詳細に読めば、軍慰安所制度は日本軍が作り、維持・拡大し、業者を選定し(時には募集の資金を手渡し)、朝鮮・台湾での徴募に当たっても憲兵・警察が統制・指導し、慰安所の利用規則は軍がつくり、業務を監督・統制した。主役が業者でなく、軍であった。

 軍の要請と官憲の統制下で募集に当たった業者は、人身売買や甘言・誘拐により植民地の女性を国外に移送し、慰安所に入れて、自由を奪い性奴隷の境遇に貶めた。当時の国内法である人身売買・国外移送誘拐罪に該当する犯罪行為である。

 また、軍や警察による強制連行は占領地の中国人、フィリッピン人、インドネシア人、オランダ人など現在の裁判や、敗戦直後の東京裁判資料、BC級裁判判決でも認められているところである。

 このようなことは言うに及ばず、欧米のメディアが問題にしているのは、二十世紀半ばにおいて日本軍が戦場で数万の植民地や占領地の女性を軍専属の売春婦として連れ歩いた異常な人権感覚である。これはナチス・ドイツがソビエトや東欧の占領地で現地の女性を軍直営の慰安所に強制的に集めたほかに類例を見ない。しかも被害女性がアメリカ議会にまで来て痛ましい証言をした直後に日本国の首相が責任逃れをしようとしていることがいかに欧米のメディアに異常に写っているのか、日本国内の感覚では認識できないところにこの国の痛ましさがある。

 

 もともと河野官房長官談話自体が、募集や慰安所における強制の主要な責任が日本軍にあるのか業者にあるのか、責任者を明示していない。ゆえに民間と国が一体となった「国民基金」も主たる責任者を明示しない「償い」行為となり、歴代総理のおわびの手紙も「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた…………わが国としては、道義的な責任を痛感しつつ」と軍の主たる責任を明示していない。ちなみにわが国の国会議員が使う「道義的責任」とは本来の高い精神性を示す語彙ではなく、法的責任の回避をさす世俗的な語彙として使われるのを慣わしとしている。

 

今後の課題

 国際的な批判に追い詰められた安倍首相は河野談話の継承を表明し、ひとまず修正の危機は免れた。しかし「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とする閣議決定をし、安倍首相自身の発言も、下村発言も否定したわけではない。

 とりあえず河野談話に逃げ込み、国際的な非難をやり過ごそうと姑息な低姿勢を装っているに過ぎない。訪米した安倍首相は米下院議長ら議会指導部との会談で「私は辛酸をなめられた元慰安婦の方々に個人として、又首相として心から同情し、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と語り決議案阻止に懸命に振舞っている。

 国内の狭小なナショナリズムの広がりと、メディアの沈黙の中で戦後補償はおろか、歴史認識の後退戦を強いられ、無力感にさいなまされてきた私たちにとって、米下院での「慰安婦」決議案が採択されれば大きな励みとなるであろう。安倍訪米後の5月上旬ごろ米下院での審議が再開される。最大限の注目を払いながら、一方国内での「慰安婦」問題の歴史認識を広げてゆく好機を生かす努力が私たちに問われている。

 

 

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