関釜裁判ニュース第51号

遺骨を捜して来日する韓国人遺族の証言集会にご参加ください   
花房俊雄

 

来る八月十一日、筑豊の炭坑に強制動員された叔父の遺骨の調査を韓国の真相究明委員会に申請された韓鶴洙(ハン ハクス)さんら二人の遺族が来日される。叔父の名前は李鐘完(イ ジョンワン)さん、日本名を岩本鐘完という。三菱飯塚炭坑で働いて亡くなり死亡通知のみ届き、遺骨が還っていない。李鐘完さんは独身で動員され、亡くなったために子供がいない。兄弟の中で男性は李鐘完さんのみで、女兄弟の子供たちである甥っ子の韓鶴洙さんともう一人の甥っ子お二人が叔父の遺骨を探して日本を訪ねて来られる。

三菱飯塚炭坑があった穂波町から情報公開された「火葬認可証控綴」によると、岩本鐘完さんは、一九四四年三月二二日のガス炭塵爆発により二五歳で亡くなっている。死者四五人、負傷者九人の大事故で、三三名の朝鮮人坑夫が死亡した。「三菱飯塚炭坑史」によると、早朝1時過ぎに発破をかけた後ガスが噴出し、ガス爆発と坑内火災が発生し、現場で働いていた坑夫の大部分が爆発に巻き込まれて死亡、他に重症を負った者もいる。その後も爆発が繰り返され、調査に入った鉱山監督局の技師や警察官ら五人も爆発に巻き込まれ、ついに災害箇所を水没させて鎮火した。月末から遺体の収容が始まるが、多くの遺体は実に三ヵ月後の六月末から七月にかけて収容され、火葬されたことが「火葬認可証控綴」から窺える。会社は、多くの遺体がいまだ埋もれたままの四月十一日にすでに社葬を行っている。

集会の前日にお二人の遺族を筑豊にお連れし、三菱飯塚炭坑の坑口跡、朝鮮人寮跡、巨大な巻き上げ機の台座二基があるところに御案内する予定である。叔父が強制労働を強いられ、炭坑事故の中でも最も怖くて凄惨なガス炭塵爆発事故で亡くなった

講師でお呼びする張錫京(チャン ソッキョ)さんは同封したチラシに記している通り、遺族を探し当て遺骨を届ける専従調査官。これまで国内の在日韓国人や市民、在日本大韓民国民団などが韓国の国立墓地「望郷の丘」などに数千人の遺骨を届け追悼碑に収めてきた。本籍地が判らないものが多く、判っても遺族が住んでいなくて手渡せない膨大な無縁仏たちである。強制動員された人たち、職を求めて日本に渡った人たち、その人たちの家族である女性や老人・子供、そして生後一年経つか経たないかで亡くなった多くの幼児たち、戦後に亡くなった人たち等の遺骨であり、戦後長く異国のお寺の片隅に放置されていた。今回、韓国政府が本腰をあげて遺骨問題に取組むことになり、その中心にいる張錫京さんが、本籍地で手がかりが途切れていた遺族探しを執念で成し遂げ、遺骨と遺族を結び付けている。その過程で生まれる遺族達の数々の喜びと慟哭を受け止めてきた彼の話をお聴きしたい。

もう一人の講師金光烈(キム ガァンヨル)さんは福岡県における強制連行・強制労働研究の第一人者である。一八六九年、いち早く筑豊で死亡した同胞の遺骨と死亡情報を求めて調査を開始した。お寺をくまなく訪ね歩き、過去張に記された朝鮮人の情報収集や遺骨の調査、住職や強制労働経験の在日同胞や会社側の労務だった人たちなどからの膨大な聴き取り調査などを三〇年にわたって行ってこられた。彼の調査の特徴は、推測や誇張、あいまいさを排し、事実に極めて厳格であることにある。金光烈さんは戦前日本に渡ってきたすべての朝鮮人は植民地支配の犠牲者であると言う。「儒教の教えが強い朝鮮では親孝行がとても大切で、親元遠く離れて住むこと自体が親不孝であった。ましてや異国に行くことは大変な親不孝で、職を求めて日本に渡らざるを得なかった人たちは『三年だけ日本に行かせてください。必ず帰ってまいります』と親に誓って故郷を離れていった。その誓いを果たせず異郷の地で亡くなった同胞たちはさぞかし無念であったろう。その遺骨に、どこでどのように働き、亡くなっていったのかきちんと調べてやらねばならない」と目を潤ませて話される。

以上の方々が今度の集会にお呼びする遺族や講師たちである。十四年前に始まった関釜裁判の支援に携わった当初から、韓国で遺骨の返還を求めている人、さらには死亡通知がなく供養のチェサさえ上げられない人たちが少なからずいることを知るようになった。中には、そうした遺族達が裁判に訴えるケースもあった。戦後補償という概念ではとても括れない、最低限のモラルとして解決が図られねばならない問題であった。このような私達が住む地域社会に存在する身近な問題さえ放置されていた日本社会の無関心さの中では、一九九〇年代の戦後補償裁判を取巻くハードルは極めて厳しいものであったと今になって思われる。

日韓両政府による七月初旬に予定されていた筑豊における遺骨の実地調査さえ、北朝鮮のミサイル発射と韓国の竹島(独島)近辺の海洋調査を理由にした日本政府の申し入れで中止になった。日本政府は直後に実地調査を行うことに、日本世論の反発を恐れたのか、あるいは世論をも利用して外交カードとして遺骨問題を扱おうとしているのか。

いずれにしても世論の逆風の中での今集会の開催となった。だからこそこの集会を成功させて日韓の市民同士の信頼と和解を築いていきたいと切に願っている。

どうか集会にご参加くださいますようお願いいたします。  詳しくはこちら 実行委員会のHP  集会の案内(PDF形式)

 

 

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