関釜裁判ニュース第50号

「みんな連れていって、大使館に行って!」
しかし、結局朴頭理(パク・ドゥリ)ハルモニは、日本大使館の前に行くことができませんでした。

尹美香(ユン・ミヒャン・韓国挺身隊問題対策協議会事務総長) 

 

2月19日、日曜日夕方で、久し振りに家族が一緒に食事をしようと向かい合って座った。お母さんが自分のために時間を全く割いてくれないといつも不満な娘も、今日はお母さんとお父さんと一緒に夕食を食べられるので喜んでいる。

ところで…スプーンいっぱいのご飯も口に入れないううちに、携帯電話のベルが鳴る。発信者が「ミンギョン(朴頭理ハルモニ孫娘)のお母さん」になっている。瞬間何か不吉な気がした。なにが起きたのだろうか。

ミンギョンのお母さんが、私に一日に何回も電話をかけ始めてから、4カ月くらいになるだろうか。ある日病院にお母さんを見舞いにいくと、ろ朴頭理ハルモニが尹美香を訪ねて行けといったという。それで、私が誰なのか知らないので、介護人からもらった名刺を見て、電話を初めてかけたという。

それからというものは、娘さんは夜でも朝でも、数えきれないくらい私の電話のベルを鳴らした。最初、私には娘さんに対する先入観があった。ハルモニが、娘のためにいつも心配をしていたからだ。

しかし、通話をして、直接会って対話をしながら、その先入観を捨てることにした。いくら孝行娘ではなかったとしても、男の子よりははるかに娘がよりいいと思うようになった。何よりもハルモニが、こうなったことに最も心を痛めているのが娘だろうと思ったし、本当にお母さんが好きなんだと感じることもできた。ただ、その方法が拙いだけだった。

電話をとると、受話器のむこうでとても差し迫った声が伝わってくる。「お母さんが息をしない。お母さんが何も言わない。オンマー(お母さん)オンマー」とずっと泣き声の混ざった言葉を繰り返していた。

対話が不可能だと思って電話を切り、集中治療室に電話をかけた。担当の看護師の答えは、ハルモニがやがて臨終を迎えそうだという。そして、私に来てほしいという。

今日も家族との夕食はだめになった。もはや、夕食は重要なことではなかった。30分をどのように運転をして行ったのか、アクセルをどの程度踏んだのかも、分からない。病院に向かいながら、朴頭理ハルモニのこの2年間の闘病生活が、とても胸痛く迫ってきた。

ハルモニは2年前、最初に老人専門病院に入院する時は、気力が落ちていたが、まだ元気だった。そのハルモニが老人専門病院に入院して数日後に、病院のミスで生命に危険があるほど大きな火傷をおった。

それで、ハルモニは安養メトロ病院に移って手術を受けた。それが安養メトロ病院との最初の縁だった。その時から、こうして2年以上をこの病院で過ごされることになるとは思いもしなかった。ハルモニは、火傷をおったところを全て手術を受けて治療して、健康を回復された。

最初にメトロ病院に行った時には、ハルモニが回復する見込みがないと言われた。火傷の程度がひどくて、床擦れまでできたという。しかし、ハルモニは打ち勝ったのだ。

しかし、まだ一人で歩いて通うこと不可能だったので、ナヌムの家に戻ることができなかった。結局、退院して、医療事故を起こした老人専門病院に戻らざるをえなかった。しかし、事故はすでに予見されたていたように思う。認可の老人専門病院に移った後、また何日も経たずに、ハルモニが再び火傷をして、安養メトロ病院に移ったという電話がきた。

最初も二番目も、火傷の原因はホット(hot)パックを直接足にのせたたことで、それで足に火傷をしたという。誰よりも朴頭理ハルモニは神経が鋭敏な方なのに、あの熱いホットパックを足にのせれば、とてつもなく熱かったに違いない。今でも理解できないのは、それを少しでもハルモニが事前に知っていたら、自分で片づけてしまっていただろうに、なぜそれが不可能だったかという点だ。そのように足に火傷をおうまで、ハルモニは何の抵抗も出来なかったのかという点だ。

ハルモニは、再び安養メトロ病院に移り、二回目の火傷の手術と治療を受けた。そして、車椅子に乗って病院の1階ロビーまで散歩に出るほど元気になった。その時期に、私は水曜デモでハルモニの状況を報告して、本当に朴頭理ハルモニは起き上がりこぼしのようだと所感を述べた。

本当にそうだった。病院では難しいだろうと言ったが、それをあざ笑うかのように、ハルモニはそんなに元気になったのだ。しかし、この時もハルモニはナヌムの家に戻れなかった。それで、また老人専門病院に移った。

ところで、やはり今回も事故は予見されたことだったのか。今回はベッドから落ちて、大腿部を骨折した。骨が折れたのだ。ハルモニは、また安養メトロ病院に移り、また手術をしなければならなかった。

手術後数日経って、手術した骨がはずれて、また手術をしなければならなかった。2年の間に、ハルモニは4度の手術をしたのだ。しかし、私が立ち入るには、色々と事情が複雑だった。ハルモニはナヌムの家の入所者だった。

そのため、ナヌムの家と老人専門病院、娘さんの三者が、ハルモニの病院費一切を老人専門病院で負担させることにして、代りに家族は民・刑事上、行政的な問題提起を全くしないという合意の覚書を作ったという。腹が立ったが、すでにそのように覚書に印鑑を押したというので、どうしようもなかった。

私は、ただハルモニが寂しくないように、しばしば訪ねて行って一緒に遊び、あんまをしてあげ、おむつがなくなれば、おむつを買うお金をあげ、ウェットティシュがなくなれば買って、ハルモニが好きな果物と牛乳を買ってハルモニ食べさせてあげて、それが私ができることだった。

2005年12月23日、クリスマスを前にしてハルモニを訪問した時、病院側から、もうハルモニの病気をみな治療したので、退院をしてもかまわないが、どうするかと聞かれた。今や私が前に出るほかないと考えた。周辺から朴頭理ハルモニに関して、挺身隊対策協はなぜじっとしているかとの声も聞こえた。

娘さんに電話をし、ハルモニをどのようにするつもりかと言うと、ナヌムの家では迎えにくいと娘さんに伝えたという。それで、老人専門病院に行くほかはないとナヌムの家で話したという。

しかし、娘さんは強く反対していた。話合った結果、私が住んでいる水原(スウォン)の環境もとても良く、看病人のシステムがうまくいっている療養院に迎えることにした。

社会福祉士の中に、大学生時代挺隊協でボランティアをした女性もいて、とても気に入って、療養院に相談をしたところ、ハルモニの住所が水原市(スウォンシ)に移されれば可能だという。娘さんと相談すると、娘さんも喜んだ。それで、ハルモニの住所を私の家に移すということに娘さんも同意した。しかし、数日後娘さんの気持ちが変わった。心が痛かったのだ。

自分のお母さんが後何年生きられるのか考えると、お母さんに自分が直接作ったご飯を食べさせあげたくなったという。娘さんの言葉に真実が感じられたし、お母さんに対する情がこもっていた。正月が終わったら、ハルモニは娘さん家に行くことになった。このことは、ハルモニにも伝えた。

ハルモニがあんなに喜んだ姿は、病院入院後初めてだった。ミンギョンとサンホ(ハルモニの孫)をいつも見れるということも、多分ハルモニには大きい希望だっただろう。孫たちに対する愛情が、どこの誰よりも強かったからだ。

しかし....。ハルモニは退院を数日前にして、食べ物もよく召し上がれなくなって、足の指も腐っていき、からだの兆候がおかしかった。検査の結果、胆嚢管が詰まり、顔に黄疸が出で、食べ物も召し上がれなくなっていた。

ハルモニのからだは、また再び手術を受けなければならなかった。別の管を胆嚢に入れなければならなかったからだ。そのようにして、手術に手術を重ね、また手術して、結局は、そもまで認識もできなかった癌がからだに広がって、ハルモニの肺をふさぎ、息を引きとられてしまった。

30分後に到着した病院、ハルモニはすでに息をひきとっておられ、ベッドの上にそのまま横になっていた。娘さんはお母さんがまだ死んでないと言って、ハルモニをしきりにもんでいる。しかし、ハルモニは本当に逝かれて、いなかった。あらゆる傷跡と苦痛と過去の歴史のくびきの痕跡であったからだだけを残して、自由に解放の空間に向かって発って、いなかった。

6時20分に臨終されたと看護師が知らせた。娘さんは、世の中に私一人残して、なぜ一人で行くのかとハルモニを送ろうとしない。娘さんは、ハルモニが最後に自分に言った言葉は、「水曜日に日本大使館に行きなさい。デモをしに生きなさい。あそこに行って尹美香に会いなさい」というものだったと言いながら、それが遺言だとは思いもしかったと言い、また泣いた。

ハルモニを見舞いに行く度に、「私を連れて行って。私を連れて大使館に行って。あそこに行って死のう」と言った。その度に、私はハルモニの足がよくなったら、私が車で迎いにきて、大使館に行こうと言っていた。

それが、最も後悔される。車椅子に乗れてるようになった時に、ハルモニを一度迎えて日本大使館の前にお連れすべきだったとの後悔は今でも私の胸を痛くする。

「今回は回復されるのは、難しいと思います」という病院側の予想をあざ笑うかのように、ハルモニはいつも起き上がりこぼしのように起き上られたので、必ず大使館の前にお連れできるだろうと、そのように考えていた。しかし、私のこういうゆるい心を叱るかのように、ハルモニは行く道を急いで、逝ってしまったのだ。

朴頭理ハルモニの告別式は、市民社会葬で行われた。ハルモニが2年以上暮らした安養(アンヤン)市の市民諸団体が積極的に手伝い、ハルモニ行く道がひょっとして寂しいのではと、連日弔問客の足が絶えなかった。福岡から花房恵美子さんも来た。

安養の市民団体は、朴頭理ハルモニの葬式問題にだけ関心を持って参加したのでなく、日本軍「慰安婦」問題の解決のための活動にも積極的な意志を見せた。3月15日の第700回水曜デモにも積極的に参加することに決議してくれた。

千万ウォンを越す葬儀費用も、安養地域から葬儀委員として参加した人たちが全ての会費を出してくれて、弔問客たちの香典、挺対協関係者の後援支援金などで不足が出なかった。

挺対協のありがとうの挨拶に、安養地域の市民団体は、むしろ朴頭理ハルモニが安養地域の市民運動に大きな役割を果たして下さったと言ってくださり、さらにありがたく思う。安養で過去事清算運動が結集できずにいる時、一つにまとめる役割をしたというのだ。そのように、ハルモニは残っている人たちに大小の変化を与えた。

今でも朴頭理ハルモニの娘さんは、電話をよくかけてくる。「お母さんに会いたい。そんな時には、いつも尹美香に電話するから、ちょっと聞いて下さい」と言う。

私も本当に朴頭理ハルモニに会いたい。週末になれば、自動車のキーを持って、ハルモニの病院に行くために家から出て行くことを想像する。病床で起き上がりこぼしのようにベッドの欄干をつかんでむくっと起き上がって座り、病室に入ってくる人々に嬉しそうに両手広げ、口を大きく開けた私の好きな姿も目の前に鮮明に現れる。

私は、すでにあの世の中へ行ってしまったハルモニのからだを捕まえて約束した。ハルモニの意思、ハルモニの希望を数多くの若者たちのからだの中で実践にして溶かして差し上げると。必ず解決して差し上げると申し上げた。

朴頭理ハルモニは逝ったが、ハルモニがあのように要求された「私も連れて行って。大使館に行って死のう」という言葉の中に感じられるハルモニの強烈な闘争の意志を毎週水曜日、水曜デモで受け継いでいくだろう。放棄せずに、先に逝かれたハルモニたちがしばらく目をとじて、耳をふさいでいる間に…

 

 

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