不二越訴訟の現状報告 新谷(北陸連絡会)
2005年11月、12月に、四人の原告本人が法廷に立って、証言されました。今回は11月口頭弁論での李さんの様子をお伝えします。
◆原告・弁護団と共に
11月二日午前10時30分ごろ、原告の李さんと羅さん、そして弁護団が裁判所に到着しました。傍聴者は裁判所の玄関先で原告を拍手でお迎えし、ともに法廷に入りました。裁判は11時から始まり、昼食を挟んで、二人の主尋問がおこなわれました。国側代理人の反対尋問はなく、午後四時頃から不二越会社代理人による反対尋問がおこなわれました。
◆李さんの証言
原告本人尋問の1番バッターは李さんで、本人尋問では、何よりも強制連行・強制労働が歴史上の事実であることを裁判官に認定させるために、弁護団は様々な準備をしてきました。陳述書を作成し、その内容について何回も訪韓して確認してきました。最近では五月に弁護団が訪韓し、10月には原告に来日していただき、前日も打ち合わせをして、裁判に臨んでいただきました。お二人には肉体的・精神的に大変な負担をおかけしましたが、その結果は大成功を収めたと思っています。
◆尋問のポイント
尋問のポイントのひとつは、李さんが生まれた家での生活に比べて、不二越での生活は極めてひどいものだったという事実を浮き上がらせることでした。九歳の時に写した兄弟姉妹の写真を証拠として示しながら、尋問しました。写っている服装や靴によって当時の生活状況を証明しました。李さんは「上級女学校に行ける」という誘い文句に応じて、不二越で働くことになり、幼くて、小さかったので、木の台の上に立って、大きな機械の前で仕事をしました。木の台から何度も落ちて、度々けがをしています。あまりのつらさに、仕事中に居眠りをしそうになり、着物が機械に挟まり、身体が機械に巻き込まれそうになったこともあります。そんな時、日本人女性の班長が見つけて、激しく怒り、突き飛ばされたこともあります。
長時間機械から離れることができず、トイレに行くのも我慢して、次第にトイレに行かなくても仕事が続けられるほどになりました。身体がこのようになるほどにひどい労働環境でした。
沙里院(現在北朝鮮)に不二越の工場が疎開し、李さんらが1945年7月に配属になり、沙里院に到着したのですが、機械を積んだ船が沈没したので、1ヶ月の予定で、自宅に帰ってきました。奥村弁護士はその時の様子を尋問しました。
1年ぶりのうれしい対面のはずなのに、1ヶ月後には不二越(沙里院)に戻らねばならないことを考えると、お母さんが作ってくれたご馳走も、美味しく食べることができませんでした。日本が戦争に負け、朝鮮が解放されたあとも、不二越でのことは片時も頭から離れませんでしたが、父母や、周りの人に一言も話すことができない苦しさが戦後ずっと続きました。
◆不二越代理人の反対尋問
李さんの反対尋問で、不二越の代理人は冒頭で、「当時の国籍は何ですか」と質問しました。この質問に、李さんは「当時は、創氏改名で木村福実と名乗らされていました」と答えました。ところが不二越の代理人は同様の質問を繰り返したので、李さんは「どうしてそんなことを聞くのか」と抗議しました。傍聴席から不二越代理人に向かって「もう、やめろ」と抗議の声があがり、裁判長も「その質問は中止して、次の質問に移りなさい」と注意を促さざるをえませんでした。
原告代理人の島田弁護士が、「民族意識を逆なでするような、不当な質問である」と抗議し、不二越代理人の反対尋問を跳ね返しました。会社代理人の反対質問は李さんの証言を切り崩そうとしたのでしょうが、逆に反対尋問によって、李福實さんの証言内容が深められる結果になりました。
◆これからの裁判
すでに4人の原告本人尋問が終わり、残るは5人です。2006年3月5日には、弁護団七人が訪韓して、尋問予定の原告との打ち合わせをおこないます。次回口頭弁論は4月19日(水)におこなわれ、光州遺族会所属の金さんと羅さんの本人尋問です。学者証人の採否もそろそろおこなわれ、裁判としては判決に向かっての最後の段階に入ります。関釜の皆さんとスクラムを組んでここまで闘い抜いて参りましたが、これからもよろしくお願いします。