関釜裁判ニュース第50号

朴頭理さん逝く! ハルモニ!ありがとう!安らかにお休み下さい!  花房恵美子 

 

2006年2月19日午後6時20分、ソウルのアニャン・メトロ病院で朴頭理(パク・トゥリ)さんは81才の生涯を閉じられました。直接の死因は胆嚢ガンでしたが、この二年間は火傷と怪我により病院で寝たきりの状態でした。

関釜裁判の原告の訃報を聞くのは「慰安婦」原告の河順女(ハ・スンニョ)さん、挺身隊原告の鄭水蓮(チョン・スリョン)さんについで3人目になりました。

2月19日夜にナヌムの家から電話で訃報が入り、彼女の顔を最後に一目見てお別れしたいと思い訪韓を決めました。翌20日朝9時過ぎ、飛行機は満席だったので釜山行きの船をとりあえず予約して、雨の中を自転車で飛び出し、博多港中央埠頭へと急ぎました。

3時間の船の中ではハルモニとの楽しい思い出ばかりが次々と蘇ってきて、悲しみは心の底を静かに流れていました。午後一時過ぎに着いた釜山は驚くほど明るく晴れていました。

午後7時過ぎにメトロ病院に着いて、はじめて朴頭理さんの娘さんとその家族に会いました。あんなにも朴頭理さんが愛し、あんなにも朴頭理さんを困らせた娘さんの憔悴した顔を見、か細い手を握りながら、この方も日本軍の「慰安婦」制度の被害者かもしれないと思いました。後で尹美香さんの報告から娘さんが朴頭理さんの最後を看取った様子を知り安堵しました。

朴頭理さんは1940年に数え17歳で台湾に連れて行かれ、戦争が終わるまで日本軍の「慰安婦」をさせられ、戦後も苦労して釜山の市場で野菜を売って生計を立てていました。92年に釜山挺身隊問題対策協議会に申告し、関釜裁判の原告となり、日本国に謝罪と賠償を求めました。体が弱ってきて仕事が続けられず92年にナヌムの家に入居しました。

92年12月25日に山口地裁下関支部に提訴したその日にはじめて会いしましたが、視線を避けてカメラを避けて身を硬くしておられました。その夜の交流会で突然声をあげて、「日本人は皆鬼だと思っていたのに、どうしてこんなに優しい人たちがいるんだ。私はわけがわからなくなった」と泣き出され、私たちは狼狽しました。翌年の意見陳述で日本に来られた時は、こんなに大きい方だったのかと目を見張るくらい背筋を伸ばして堂々としておられました。

95年10月の本人尋問の時、裁判長から「あなたの職業は?」と聞かれ「日本大使館前でデモもしています」と答え、法廷内を沸かせました。98年4月の下関判決の時は法律的には勝っていても、即時賠償を願うハルモニにとっては敗北でしかなく、怒りをぶつけたい裁判長は退席していなくなっていたので、かわりに弁護士を殴りつけたりしました。

2001年に広島高裁で逆転敗訴判決を受けた時は「シロ!(嫌いだ!)」「シロ!」と叫んで廊下の長椅子に座り込んでしまわれました。

2003年3月25日に最高裁で上告棄却決定が出ましたが、裁判は彼女にとって生きがいであり、誇りでした。

朴頭理さんたちが勝ち取った下関判決は逆転敗訴になりましたが、その精神は生きています。下関判決は「従軍慰安婦制度は徹底した女性差別、民族差別であり、女性の人格の尊厳を根底から侵し、民族の誇りを踏みにじるものであって、しかも決して過去の問題ではなく、現在においても克服すべき根源的人権問題である」「帝国日本と同一性ある国家である(日本)国は従軍慰安婦とされた女性に対し、より以上の被害の増大をもたらさないように配慮・保障すべき法的作為義務があったのに多年にわたって慰安婦らを放置し、その苦しみを倍化させて新たな侵害を行った」として被害救済のためにただちに立法化を命じたに等しい判決でした。この判決を受け止めた心ある国会議員により「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」として2000年に参議院に提出され、上程廃案を繰り返し、今国会にも提出されようとしています。厳しい状況ですがなんとか早期制定させたいと願っています。

朴頭理さんはやれることはして逝かれました。後は私たちの問題です。思い出は次々と蘇り、朴頭理さんは私たちのなかで生き続けます。朴頭理さんに出会えて感謝します。安らかにお休み下さい!

 

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