韓国を訪ねて 緒方
五月二四〜三一日、韓国に行ってきました。忘れられない出会いと別れがありました。
【五月二五日(水)】
ソウルの日本大使館前、六五八回目の水曜集会は、日本の合唱団の方々が参加され、韓国の歌をみんなで歌って和やかな雰囲気で終わりました。昼食後は「ウリチプ」に行き、水曜集会に欠かさず参加されている黄錦周(ファン・クムジュ)さん(八六才)のお話を伺いました。アルバムの写真を一枚一枚丁寧に説明されながら、今のお気持ちを語ってくれました。
「私は、お金の話はしない。金のことは汚いから。とにかく謝罪して欲しい。日本が早く謝罪しないと、朝鮮の子どもも日本の子どもも大きくなって困るよ。謝罪の上に、和解を…。日本に帰ったら、早く謝罪しなさいと小泉に言いなさい。東京には明日行く?今日行く?(私たち被害者は)全部おばあさんでしょ。明日死ぬか、いつ死ぬかわからん。八月前に、七月三十日までには早くこの問題を解決して下さい…」
切迫感が痛いほど伝わってきました。しかし、日本の戦後補償の現状を考えると何一つ自信を持って答えられず、胸が痛みました。
【五月二六日(木)】
二六〜二七日は、不二越訴訟の原告、弁護団、北陸連絡会の皆さんと一緒でした。
二六日は、韓国教会百周年記念館で、原告三人の本人尋問打ち合わせがありました。段取りを確認した後、三部屋に別れ、昼食をはさんで十時から午後四時過ぎまで続けられました。私は羅CAさん(七六才)との打ち合わせに同席しました。弁護士の方が陳述書などをもとに事実確認を行っていったのですが、羅さんは、ご両親の思い出話になると涙を抑えきれなくなり、泣いておられました。「私をとてもかわいがってくれた父は、私が(だまされて)日本に行ったことに心を痛めて病気になり、一九四五年四月一日、亡くなりました。しかし、不二越の人は、『お前が帰っても、生き返るわけでもない』と言って、帰国を認めてくれませんでした。不二越の寮では、夜になるとすすり泣きやもらい泣きの声が聞こえ、今思い出しても涙が出ます…」
長時間の打ち合わせにもかかわらず、羅さんは時間を超過してまで一生懸命話して下さいました。
【五月二十七日(金)】
二十七日は、真相糾明委員会の訪問から始まりました。同委員会はソウル中心街の世安ビルの中にあり、数十名のスタッフが働いていました。私たち支援者と弁護団は、崔鳳泰(チェ・ボンテ)事務局長や全基保(チョン・ギホ)委員長と面会し、島田弁護士が証拠資料を手渡し、協力要請をしました。昼食後、三星電子本社に移動し、原告団と合流。総勢四十人ほどになりました。朴SOさん、金JOさん、羅FAさんとも再会し、元気な姿を喜び合いました。金さん、李さん、李金珠さん、金銀植さん、李煕子さんたちが三星電子の人(二人)と丸テーブルを囲み、その周りを原告が取り囲んで交渉しました。そして、次のことが確認されました。(北陸連絡会のSさんの報告より)(1)三星電子は「四月十一日に、三星電子社員が不二越を訪問したが、一人だけである」と返答。人数に食い違いはありますが、訪問については認めました。(2)不二越との取り引きは基本的に終了しており、「夏までには完全に終わる」。
(3)三星電子は「再度不二越を訪問して、解決を働きかける」ことを約束。
それからマイクロバスに乗って、不二越ソウル営業所へ向かいました。到着後は、横断幕を街路樹に掛けたり、不二越の看板に抗議ビラを貼ったりと、原告団の皆さんが手慣れた様子で準備を進めました。そして、金銀植さんの声に合わせて、参加者が拳をあげて唱和するという抗議行動を十数分続けました。その後、金銀植さんと原告数名がビルの中に入って交渉しましたが、不二越側は富山本社でなければ対応できないという感じでした。
【五月二八日(土)】
この日は、留学生のSさんと一緒に、関釜裁判の原告だった李順徳(イ・スンドク)さんと朴頭理(パク・トゥリ)さんにお会いしました。
李順徳さんは、娘さんご家族と同居され、お元気そうに暮らしておられました。ただ、戦時中、日本軍兵士に何度も頭を叩かれたため、今でも頭痛に苦しめられ、お薬が手放せません。視力も衰えており、歩行にも杖が欠かせません。娘さんも介護にとても疲れているようでしたので、話し合った結果、翌日ナヌムの家に行ってみることになりました。
それから、近くの食堂で昼食を頂きました。順徳さんは、ゆっくりですが、とても美味しそうに召し上がっておられました。ご自身の恋愛の思い出について、懐かしそうに話され、その時の優しく、どこか哀しげな表情が忘れられません。午後は、朴頭理さんのお見舞いに行きました。昨年と同じ安養メトロ病院に入院されていました。四月(?)に、以前おられた養老院に一度戻られたのですが、職員の不注意でベッドから落ち、骨にひびが入ったため、再びメトロ病院に戻られたとのことです。その養老院は、以前も朴頭理さんの足に火傷を負わせてしまった所で、問題があるといわざるを得ません。
朴頭理さんは、やせ細っておられましたが、昨年よりは、だいぶお元気でした。食欲もあり、パン、バナナ、イチゴ牛乳などを召し上がっておられました。持参した花房さんの拡大写真をお渡しすると、ずっと見つめておられました。そして、お写真を撮ろうとすると、花房さんの写真をこちらに向け、(花房さんと)一緒に写ろうとされました。最も印象に残る出来事でした。自ら動けないことが歯がゆいようで、足をもんだり、痒いところをかいて差し上げると、安心した表情をされていました。お一人のときは、動けない分、不安が強いのだろうと推察します。お見舞いに訪れることが朴頭理さんにとって何よりの治療だと感じました。
【五月二九日(日)】
午前十一時ごろ、ナヌムの家に到着して間もなく訃報が入りました。金享律(キム・ヒョンユル)さん(韓国原爆二世患友会代表)が急逝されたため、急きょ、矢嶋さん、留学生の方と三人で、ご遺体の安置されている釜山大学病院に行きました。ご遺族の方々と面会し、そこで一夜を過ごしました。翌三十日の入棺は、ご両親が号泣され、とても辛かったです。享年三五歳。原爆後遺症のため、七○%以上の肺機能を失い、四○Lにも満たない痩せた身体で被爆者運動に身を捧げられました。金享律さんのご冥福を心からお祈りするとともに、ご遺志をどのように受け継いでいけばよいのか、考えなければと思います。
【五月三十日(月)】
夕方、李順徳さんとナヌムの家で再会しました。ナヌムの家をとても気に入っておられるようでした。順徳さんと同年齢(八五才)の朴ユニョンさんが寄り添ってくれていたので、少し安心しました。ただ、ユニョンさんは、ナヌムの家に住んでおられるわけではありません。時々ナヌムの家に来られ、滞在していかれるようです。ユニョンさんがおられなくなった時のことが心配です。いつまでも、順徳さんのそばにいて差し上げたかったです。
皆さん、お時間がございましたら、ぜひハルモニたちに会いに行って下さい。
【追記】
その後、李順徳さんは、(一時?)娘さんの所に戻られたと伺っています。順徳さんが心穏やかに幸せな日々を送られるよう願ってやみません。