関釜裁判ニュース第48号

慟哭の航路 − 日本軍「慰安婦」を運んだ陸軍徴傭船 平尾弘子 

 1.陸軍徴傭船となった貨客船三池丸

太平洋戦争開戦前夜、北米航路就航用に竣工した大型貨客船三池丸は、優美で瀟洒なその船影を紺碧の波間に映す間もなく、軍港宇品に回航した。

 広島市の宇品は、陸軍の海運基地であり、戦時下、船舶輸送司令部が置かれた港である。陸軍の大型徴傭船の運行指示は、この宇品から出されていた。

 一旦、緩急あれば、船も人も即座に軍に徴用される時代であった。一九四一年十月十五日、三池丸はこの地で陸軍徴傭船となり、軍隊輸送のための設備や高射砲、機関砲などの兵装が整えられ、船体も灰色に塗り変えられた。同時に船長以下、乗組員に船舶輸送司令部付の陸軍軍属となる服務命令が下された。

 三菱重工長崎造船所で建造された船体を受け取りに長崎に派遣され、自身が兵隊に応召になる一九四三年四月まで三池丸と運命を共にした乗組員のSさんは、この船の装備の豪華な趣きを懐しむように語っていった。一等船室に置かれたベッドサイドのナイトテーブルですら、現在の値段で数十万は下らない高価なものであったという。

 三池丸は、総トン数一一,七三八トンの鋼製貨客船で、当時の最高レベルの客室設備や装備を配した豪華客船であった。

 この船は、一九三七年四月一日付で制定された大型優秀船建造助成法を受けて、日本郵船が建造を計画した商船で、同じく濠州航路用としては、阿波丸の建造が予定された。このような国家による高速の大型船への建造助成は、戦時徴傭を視野に据えた施策であった。三池丸も建造計画の段階から既に陸軍の軍隊輸送船への配当が予定されていた。

 人も船も戦時下にあっては、優美さという静穏な時のなかでの落ち着きをまず最初に、剥ぎ取られていく。

 人の軌跡と船の航跡を重ね合わせてみても埒もないことではあろうが、瀟洒な貨客船三池丸が竣工後、時を経ずして灰色に塗り変えられ、陸軍御用船として徴傭された経緯は、この船に乗船し、南方の戦地に運びこまれていくことになった幾多の人びとの悲憤に満ちた行程を予兆せしめるものであった。

 

 2.三池丸乗組員の証言

 三池丸の乗組員であったSさんからも、二〇〇三年十一月に慰安婦問題の立法解決を求める集会の新聞記事を読んで連絡を頂いた。主催者ですら見逃してしまうような地方紙の片隅に掲載された小さな記事を見て、同時期、二人の高齢の男性から日本軍「慰安婦」について話しておきたいことがあると事務局に連絡があった訳だ。(陸軍の山砲兵第四十八連隊に所属していた元日本軍兵士の証言は、「封印された過去−元日本軍兵士が語った日本人慰安婦」『部落解放』二〇〇四年九月号に掲載)

 戦後六十年を経ても、個人の記憶のなかに深く沈潜し、たぐり寄せられることのないまま埋没していく戦争の光景が、無数に遺されてあることを今さらながら思い知らされる。このような記憶の光景は、正史やいわゆる戦記物のたぐいには、けっして拾い上げられることがない。

 六十年という歳月を経て、関係者のほとんどが死に絶え、生き残った者は自分ひとりになった今だからこそ、この方々も重い口を開く気になったのだろう。

 葬り去られようとしている記憶の光景をなんとかわずかでもたぐり寄せることはできないのだろうか−焦りにも似た思いに捉われる。このような記憶の揺り戻しこそ、戦争の実相を最も色濃く照射するものであると、私は確信している。

 Sさんと直に会い、お話を聞くことができたのは、二〇〇四年十一月のことである。最初に連絡を受けてから一年が過ぎていた。その間、Sさんは交通事故に遭い、長期にわたって入院生活を余儀なくされていた。

 しかし、自分が戦争中、見届けた光景がずっと気懸かりで、誰かにこのことは話しておかなければならない…その思いは、朽ちることはなかった。

 一九一九年生まれ、齢八十五歳に達する老人は、良い意味での古き船乗りの気質を体現した人物に見えた。すなわち同世代の男性と比較すると、稀有とも見える幅広い認容力は、学問や知識に負ったものではなく、若い頃から世界各地に出て自らの眼で観、次第に体得されたものだった。生来の好奇心と人懐こさに加え、青年期に日増しに抑圧の度合いが深まっていく日本を離れて、清新な外界の空気を吸ったというのが何よりそのような気質を育む要因となったであろう。

 

 3.太平洋戦争開戦時の三池丸の航跡

 Sさんは、聞き取りに際し、黒い背表紙の船員手帳を携えていた。一九三九年七月、大阪逓信局海事部神戸出張所で交付された古い手帳を紐解くと、この人の船員としての履歴を克明に辿ることができる。私は許可を得て、その手帳を見せてもらった。

 Sさんは、まず大阪商船所有の高雄丸に火夫見習として乗り込み、以下、応召になる日まで日本郵船所有の甲谷陀丸、讃岐丸、三池丸と乗船記録は続く。

 甲谷陀丸では給仕見習、讃岐丸からは給仕として船内の職務についている。この讃岐丸は、世界一周して日本に戻ってきたところ舞鶴で海軍に没収され、船長と機関長、そして戦前の高等商船学校出の予備士官六名以外は、下船することとなった。海軍の場合は、このように船のみの徴用、いわゆる「裸傭船」と呼ばれるものが多かった。

 この船も一九四五年一月二十八日、門司から高雄向け航行中、朝鮮南西岸小黒山島西方二百キロ付近において米潜の攻撃を受け、沈没した。

 讃岐丸を下船したSさんは、社命によりすぐ長崎に派遣されている。一九四一年九月三十日、三池丸竣工と共に乗船し、結果一年半にわたる歳月を船舶輸送司令部付の陸軍軍属として過ごした。

 三池丸の最初の航海は、一九四一年十二月八日、太平洋戦争開戦時、マレー攻略作戦の一環として強行されたナコン作戦における兵員輸送であった。伝えられる開戦の勝利の報とは異なり、Sさんが見届けた現実は、無残なものだった。

 上陸作戦が強行された十二月八日未明の天候は、船乗りの人間ですら今まで見たことがないような大きな波がうねる大しけであった。上陸のため、兵士を縄梯子から降ろしていくのだが、装備が重く持ちこたえられず、体格の秀でた兵士たちが次々と暗く大きい波の中に呑み込まれてしまったという。銃や装備を捨てればよいのだが、それらを捨ててしまえば、皇軍兵士は今度は、軍法会議にかけられることになる。

 暗い波間に呑まれていく兵士の群像は、打ち寄せる波のうねりのように意識の辺縁を去来する。

 不条理、理不尽、荒妄…いかなる言葉をもっても表象し切れない。戦争とは、おそらくこのような無意味な死の連続に過ぎないのだろう。それ以上のものではあり得ない。

 だからこそ、ひとは戦争、そしてその死者に対して執拗に意味付けを欲するのであろうか。

 さらにマレー半島ナコンに上陸した後も道を間違い、タイ軍の兵舎の前に出たとこで一斉に機銃掃射を受け、多数の犠牲者を生んだ。

 年が明け、一九四二年になると三池丸は、東方支隊(第三十八師団の歩兵団司令部、歩兵第二百二十八聯隊基幹)を乗せ、蘭印攻略作戦のなかのアンボン敵前上陸(一九四二年一月三十一日)、チモール島クーパン上陸作戦(一九四二年二月二十日)に参加している。

 その後、この船舶は、南方の外征部隊へ内地から兵員や物質の補給を行なう南方交通船として航行している。

 

 4.女性たちの慟哭

 女性たちは、あまり人目につかぬように三等客船の一番下の部屋に押し込められていたという。

 船の丸窓は、固く閉じられ、絶えず監視がついていた。監視には業者の男が二人ほどつき、船室から段が上がったとこで、始終、番をしていた。女性たちが用を足しに行くのにもその都度、監視がついた。

 絶海の波間に浮かぶ船内のどこに逃げ場があるというのだろう。女が絶望のあまり自死するのを怖れて、そこまで監視が厳しかったと考えるしかない。

 朝鮮人の女性たちは、大概二十〜三十人の規模で船に積み込まれていたとSさんは、記憶している。この軍隊輸送船では、常時三千人ほどの兵士を戦地に送っていたというから、兵士と女性の比率から言えば、三千人に対し二十ないし三十人…これはつまり、当時の日本軍が皇軍兵士にあてがう「慰安婦」の比率、約百人に一人という数字に符号する。

 女性たちが、朝鮮から連れてこられたことは言葉でわかったという。髪はボサボサで化粧もしておらず、憔悴しきった様子に見え、絶えず泣いていたとSさんは、当時を振り返る。あまり容貌のきれいな人はおらず、年齢も二十歳代後半から三十歳ぐらいに見えたという。もっともこの時、Sさん自身がまだ非常に若く、絶望と憔悴の淵にある女性たちの面差しが年齢より老け込んで見えたのかもしれない。また、朝鮮半島から連れてこられていたら、監禁同然の状態を何日も過ごし、身仕舞を整えることもできなかったはずだ。

 当時、Sさんは三等給仕の職務にあり、閉じ込められた女性たちの部屋の係りを受持ち、寝具や食事の手配を行なった。体の具合が悪くなったりした者がいれば、上司に報告し、船内の医務室に連れていくこともあったという。

 ただ女性たちに話しかけることは、堅く禁じられていた。朝鮮語の会話の内容は聞き取れなかったが、女性たちは絶えず泣いていた。

 軍隊という巨大な機構は、兵隊の嗜好品を積み込む意識のまま、生身の女たちを船倉に押し込んだ。

 傍目から見ても女性たちの様子が可哀相だから、Sさんは女衒とみられる見張りの男性に思い切って、

「泣きよるやないか。どうしたんか。あんたたちは、どうしてこんなことをするのか。」

と問い質してみた。その男は、いきり立つでもなく思いの外、落ち着いた口調で答えたそうだ。

「おいたちも好んでじゃない…やりとおない。しかし、軍の命令で、何日までに女を何人連れてきて船に乗せろと言われる。もし、その命令をきかんやったら、おいたちが憲兵にやられる。おいたちも命がけだ。」

 聞き取りの途中、私は思わず、もし業者の男が憲兵の命令に背けば、監獄に入れられることになるのかと問いかけた。Sさんは、クックックッと呆れたような笑い声を洩らし、かすれた声で言下に言ってのけた。

「憲兵なんて、そんな生易しいもんじゃない。すごい権力を持っていたんだから。警察でも震え上がるくらいのもんだった。今のひとたちには、わからんやろう。」

 Sさんは、三池丸と共に陸軍軍属として徴傭され、幾多の戦地に兵士を輸送し、また自身も一九四三年には召集され、陸軍開部隊に入隊、泥沼の中国戦線に送り込まれた経験をもつ。軍隊という機構の凄絶なまでの暴力性、システマティックな残忍さはいやというほど、知悉している。女衒の男の言い分は、おそらく文字通りのことであったろう。

 

 5.朝鮮人女性移送の航路

 Sさんは、門司もしくは宇品から昭南へ向け、三池丸でこのようにして朝鮮人の女性の連行を二回は見届けたと証言する。

 シンガポールは、日本軍の占領後、昭南と改称された。昭南は、軍事・政治・経済・交通・通信などの中心で、一九四二年七月、南方軍総司令部は西貢(サイゴン)から昭南に移されている。また、門司は陸軍船舶部隊の支所が置かれた港で、下関とは関門海峡を挟んで向き合った位置にある。下関と釜山は、関釜連絡船でつながれ、往来が頻繁に行なわれていた。

 朝鮮で集められた女性たちが、釜山から船に乗せられ、下関に着き、門司で陸軍御用船に押し込められた…そのような経緯が推測される。

 『陸軍徴傭船舶行動調書』(厚生省援護局一九六一年十二月一日)によれば、Sさんが三池丸に乗船している期間に、この船は昭南へ向け、連続して三度運航している。

 最初は、一九四二年三月十七日宇品を出港後、高雄、香港、西貢を経て四月十二日昭南へ入港している。二度目は、昭南から高雄を通って宇品へ四月二十九日帰還後、すぐ四月三十日門司を出港し、高雄、西貢経由で再び六月十八日昭南港へ入港している。三回目は、また宇品へ七月九日戻った後、門司を通って今度は釜山に七月十七日から十九日にかけ寄港後、再度、宇品へ引き帰し、七月二十一日門司を出港、同じく高雄、西貢経由で八月十五日昭南へ到着した。

 Sさんの記憶に間違いがなければ、このうちの二回の航海で朝鮮人の女性たちが連行されたことになる。 

 

 6.三池丸乗船者の軌跡

 三池丸は、「陸軍の虎の子急行便」と称され、内地と南方を結ぶ高速輸送船として兵員の輸送に奔走した。特にラバウルには何度も兵隊を運んでいったとSさんは、記憶している。現在のパプアニューギニア、ニューブリテン島のラバウルには当時、ラボールと呼ばれた港があり、上陸したら最期、二度と帰ることはできないと言われていた。連合軍側の「蛙飛び戦法」により戦線が先に進攻し、この地域は太平洋戦争後期、敵陣の中に取り残され、補給が完全に途絶するという状況が長く続いた。

 『陸軍徴傭船舶行動調書』(厚生省援護局一九六一年十二月一日)の航行記録を見ると一九四二年十月から一九四三年一月にかけて、三池丸は都合三回、ラボールへ寄港している。

 陸軍部隊をラバウルに移送する船中、ある時、一人の兵隊が長崎の人はおられないかと聞いてきた。この兵士は入隊前、三菱重工の長崎造船所に勤務し、三池丸の建造に携ったという。Sさんは、この兵士と急速に親しくなり、ラバウル到着までの間、自分の船室に呼んで食事や風呂などで歓待したという。また、兵隊用の寝棚は狭く、寝苦しくもあろうから、自分の部屋で寝るようにすすめたりもした。

 遂に明日は上陸という日になって、この兵士は頼みたいことがあるとSさんに打ち明けた。その内容は、長崎造船所に勤務している婚約者に手紙を届けてもらえないかということだった。Sさんは快く引き受け、上陸の前に持ってくるように伝えた。

 男は、茶封筒に入れた手紙を持参した。Sさんは、ラバウルに行ったら食料もろくにないだろうからと配給で支給された羊羹と厨房のコックから特別に分けてもらった塩鮭をその男に渡した。この時、塩鮭を分けてくれたコックが、阿波丸沈没の際、唯一人救助された司厨員の下田勘太郎氏であった。阿波丸は、連合国側から安全航行を保障され、赤十字の救援物質を運び届ける「緑十字船」であったにも関わらず、一九四五年四月一日、台湾海峡において米国潜水艦の魚雷攻撃を受け、撃沈した。この時の犠牲者は、二千人以上に及ぶ。乗客乗員のうち、たった一人、下田氏のみが助けだされた。下田氏は、横太りのひょうきんなおもしろい男性だったとSさんは回想する。

 Sさんは、預った手紙を船がドックに入った時、長崎を訪れ、婚約者に渡したという。婚約者の女性は非常に喜び、物質窮乏の折ながら女性の家族も天ぷらなどを拵えてもてなしてくれたそうだ。

 しかし、後でわかったことだが、手紙を託した兵士は、上陸後、すぐに戦死を遂げていた。

 

 7.戦後六十年ー犠牲者の悲哀の尊厳

 太平洋戦争では、八百万総トンの日本商船が連合国側の攻撃で海の藻屑と消え、戦没した船員の犠牲者だけでも六万名以上に及ぶ。連合軍は、反撃を開始して以降、艦船攻撃を主要な戦略とし、制空制海権を失した日本軍の輸送船団は、壊滅的被害を受けた。輸送船は、運がいいのが目的地に着くというような有様だった。そのような船に乗せられ、兵隊も日本軍性奴隷とされた女性たちも遠い南方の戦地に運ばれていったのだ。

 三池丸も他の多くの徴傭船と同様の運命を辿った。一九四四年四月二十七日、引揚邦人を含む七五二人を乗せた三池丸は、パラオ北方一〇〇マイル付近の海上で米潜水艦の攻撃を受け、炎上後、消息を絶った。船団の護衛艦が救助にあたったので、大部分の乗員は助けられたが、一般邦人九人、戦砲隊員七人、乗組員二人の計十八人が、犠牲となった。

 輸送船が驚くほど高い確率で撃沈されていくなかで、密かに積み込まれた女性たちも数知れず、犠牲となったであろう。しかし、他の乗船者にすら接触できない状態で秘密裡に運び込まれていった彼女たちの死を語るものは残されていない。

 蒼く黒々とした海は、すべてを呑みこんでいってしまった。

 敗戦から六十年を経ても真相は、鎖されたままだ。戦後も日本政府は、真相究明に対して途を鎖し続けてきた。これが意識的な不作為行為である事実は、免れ得ない。

 国家は、概ね個人の慟哭や哀しみを無に帰したり、変容させる方向に作動していく。戦後責任を考えるとき、葬り去られ、顧みられることのなかった戦争犠牲者の悲哀の尊厳を回復することなしには、問題の端緒に立つことさえできない。

 日本の戦後は、半永久に続くのであろうか。 


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