関釜裁判ニュース第46号

 ナルシサ・クラベリアさん(74歳)の証言

(被害場所 自宅・駐屯地ルソン島西北部アブラ州)

 村に日本兵がやってきたのは1943年でした。2人の指揮官はすぐに村長を探し(それは私の父でした)、兵士達は全ての家を調べ、近くの家に何故誰もいないのかと尋ねました。父は、私たちの村では隣同士とても離れているので、知ることは難しいと答えました。

 彼らは、父に子どもが何人いるか尋ね、父は、8人いると答えました(女の子5人、男の子3人)。わたしたちは、当時首都マニラに住んでいたエステラを除き、全員いました。しかし日本兵達は父を嘘つき呼ばわりし、家の柱にロープで縛り付けました。それから母を捕まえ部屋に連れてきました。母は日本兵達にひどいことをしないでくれと懇願しましたが、彼らは、母をレイプしました。

 母がレイプされるのを見て、私の弟と妹は、木の板をとって日本兵を打とうとしたのですが、弟たちはとても小さく、日本兵にはかないませんでした。8才の妹は捕まえられ、空中に放り上げられて落ちてきたところを銃剣で突き刺されました。弟は水瓶の置いてある家の台所に連れていかれ、そこで殺されました。そして、私は家の外から父の叫び声を聞きました。私たちは、日本兵が父の皮膚を、喉から性器の所まで、まるで豚を屠殺するようにゆっくりと剥いでいるのを見ました。私は、日本兵にこのようにされて死んでいくのを見たのです。

 私も、抵抗しようとしましたが、日本兵は私を乱暴に突き飛ばしました。地面に倒れたとき、胸をねじ上げられ腕の骨が折れてしまいました。それから姉のエメテリアと私は家から1〜2kmぐらい離れた市の建物に連れて行かれました。日本兵たちは、村中の女性を集めました。また、奴隷や人夫として使うため丈夫な男性達も集めていました。駐屯地にはたくさんの日本兵がいました。

 市の建物に着いたとき、腕があまりに痛く私は泣いていました。私は熱もでていましたが、二¥2週間後、回復しました。兵士が、私をいやな目つきで見ました。通訳の1人が、私がとても臭いので風呂に入るように云いました。その晩、彼は私をレイプしたのです。次の朝、彼らは私を再び駐屯地に連れていき、他に5人ぐらいの女性がいる部屋に入れました。駐屯地には4つの大きな部屋がありました。私たちは何枚かの毛布とわずかな服だけでコンクリートの床の上に寝ました。日本兵は他の兵士達の目の前で私たちをレイプしました。私は、彼らを心底卑劣だと思いました。

 私たちはそこに3ヶ月間いました。日本兵達はほとんど毎晩私たちをレイプし、時には昼間もレイプしました。私は何人の兵士がこのようなことをしたか数えることはできません。昼間は私たちは料理を作り、兵士達の服の洗濯、水汲みをしました。一人の女性が駐屯地から逃げ出すのに成功しました。それ以来、兵達はもっと私たちに厳しくなり兵士達は正午の灼熱の中でさえ私たちを一緒に歩かせたのです。私たちは裸足で野原や川の中を歩かせられました。私たちの足はひび割れ、歩きすぎて足にできたまめが痛み、とても苦しみました。兵士達は川を渡るときはいつも人夫に背負われ、彼らの靴が少しでも水につくと人夫たちを殴っていました。

 私と姉は、アメリカが駐屯地を爆撃し始めたときに逃げることができました。最後に私たちは膝をついて歩きました。私たちが村に帰り着くと、私たちが連れて行かれた日両親、兄弟姉妹も家と一緒に焼かれた事を知らされました。それから、私たちは、兄弟2人に再会しました、兄弟は、日本人の為に重い荷物を運ぶ人夫として働かされた事を話してくれ、ほとんど肩を壊していました。姉のエメテリアはひどい体験のために頭がおかしくなりました。私自身もショックで正気を失った時期を過ごしました。

   (アメリカ裁判原告・証言より要約)


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