関釜裁判ニュース第46号

 女子勤労挺身隊訴訟の経過と現状
 最近「なぜ福岡や広島の人たちが、富山の裁判を支援するのか?」と聞かれる事が何度かありました。関釜裁判を支援する会も発足以来十二年近くになり、新しい会員の方たちも増え、流れをつかめていない方たちもおられると思い、おさらいの意味で振り返ってみます。

 関釜裁判は挺身隊問題対策釜山協議会の金文淑(キム・ムンスク)会長の呼びかけに応え、被害を申告した女性の中の4人が原告となり、92年12月25日に山口地裁下関支部に提訴しました。原告たちの住んでいる釜山と裁判所のある下関を結ぶ関釜フェリーの名をとり、「関釜裁判」と呼んでいます。

 原告は河順女(ハ・スンニョ)さん(2000年に82才で亡くなる。日本軍「慰安婦」被害者、被害地上海)、朴頭理(パク・トゥリ)さん(ナヌムの家に住む。日本軍「慰安婦」被害者、被害地台湾)、柳賛伊(ユウ・チャンイ)さん(女子勤労挺身隊、富山の飛行機部品をつくる軍需工場・不二越で重労働させられる)、朴SOさん(柳さんと同じ不二越)。その後2次、3次と追加提訴があり、原告は10人になりました。

 追加提訴した方は、朴SUNさん(柳さん朴さんと同じ不二越)、鄭水蓮(チョン・スリョン)さん(2002年に70才で亡くなる。女子勤労挺身隊。沼津の東京麻糸工場で働かされる)、姜YONさん(鄭さんと同じ被害)、李YONさん(鄭さん、姜サンと同じ被害)、梁錦徳(ヤン・クンドク)さん(女子勤労挺身隊、名古屋三菱飛行機工場)、李順徳(イ・スントク)さん(日本軍「慰安婦」被害者、被害地上海)の6人です。梁錦徳さんと李順徳さんは光州遺族会に属していて、他の人は釜山とその近郊にお住まいです。(後で朴SOさんは息子さんの転勤でソウルに、朴頭理さんはナヌムの家に引っ越されました)

 「挺身隊」被害者の名乗り出を促した時に、「慰安婦」被害者と勤労挺身隊被害者がともに名乗り出たことにこの問題の深刻さがありました。呼びかけた支援者たちは勤労挺身隊被害を想定しておらず、「挺身隊」=「慰安婦」の認識のもとに呼びかけたのです。その韓国社会での認識の混乱が勤労挺身隊被害者を長く苦しめ、沈黙させ、韓国社会に被害事実を知らせることができませんでした。名乗り出てからも日本軍「慰安婦」被害者の名乗り出の衝撃性のなかで、韓国のマスコミはあえて勤労挺身隊被害を無視し、多くの勤労挺身隊被害者は二次被害を恐れ再びの沈黙を余儀なくされました。

 そのなかで、女子勤労挺身隊に「志願」させられた事により人生を奪われたと強く感じ、自身の人間としての尊厳を取り戻すために裁判に打って出た方々、それが関釜裁判の原告7人であり、先に富山地裁に提訴された不二越企業裁判の原告2人であり、後で提訴される沼津の東京麻糸工場の2人(97年静岡地裁提訴、2003年最高裁棄却)、三菱飛行機工場に連行され名古屋地裁で闘っている6人(関釜裁判の原告梁錦徳さんも合流)(99年提訴、今年10月7日結審)です。そして昨年4月に提訴した不二越第二次訴訟の原告22人(関釜裁判の原告3人合流)です。

 関釜裁判は98年に一審下関で「慰安婦」原告に戦後補償裁判初の勝利判決(立法不作為による国家賠償を命ずる。詳しくは関釜裁判HP:http://www.h6.dion.ne.jp/~kanpu)がでましたが、勤労挺身隊原告の主張は棄却されました。支援する私たちは一部勝利を、勤労挺身隊原告の被害事実の重さに寄り添っていなかったのではないかという自責の念とともに戸惑いつつ受け止めました。広島高裁では、関釜裁判を支援する会は広島で結成された3つの関釜裁判を支える連絡会(広島・福山・県北)とともに、韓国の市民団体の協力と全国の戦後補償を求める人々に支えられ、「下関判決の精神を生かし、その限界を乗り越える」ため、文字どうり「必死」の裁判闘争を展開しました。原告団と弁護団の頑張りは言うまでもありません。しかしながら、2001年広島高裁で無念にも「慰安婦」原告は逆転敗訴となり、挺身隊原告は全面棄却されました。

 関釜裁判に先行して富山地裁で不二越を相手に裁判が始まっていました。2000年に最高裁和解が実現し、不二越訴訟の原告3人(元徴用工1人を含む)とアメリカ裁判の原告予定4人と原告たちの所属する太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会(本部・春川)に解決金が支払われました。

富山市にある不二越には戦争末期、植民地朝鮮の女子勤労挺身隊1089名、男子徴用工535名が強制労働させられていました。和解当事者になることができなかった関釜裁判の原告3人も含めた不二越の強制労働被害者たちが、一括解決を求めて株主総会への出席をも含め企業交渉を進めてきました。しかしながらかつての従業員である被害者たちの会社訪問にも堅く門を閉ざし、交渉を拒否する不二越に対し、2003年4月に国と企業を相手とする第二次不二越裁判が始まりました。

 この間、和解し一旦収束した富山の戦後補償支援市民運動を立てなおすために多くのエネルギーと少なくない時間が費やされました。第二次訴訟にもっていくまでの北陸連絡会の方たちのご苦労は並大抵のことではなかったと推察されます。関釜裁判を支援する会も、光州遺族会に所属する3人の被害者(金JONさん、羅さん、成さん)を「預かり」、北陸の方たちと力を合わせて第二次不二越闘争をスタートさせるために力を尽くしました。裁判は島田弁護士を中心に大弁護団が形成され熱気ある弁論が展開されています。支援する北陸連絡会も裾野が広がり、多様な個性の支援者の厚みを感じさせます。その間、梁錦徳さんは名古屋の裁判に合流し、持ち前の元気さで裁判の「顔」になっておられます。

 2003年に関釜裁判も沼津東京麻糸訴訟も最高裁で棄却されました。東京麻糸は「帝人」に吸収合併されていて、なくなっています。その帝人から申告した生存する被害者に対して各20万円の見舞金が支払われました。姜容珠さん、李英善さんは大変悔しい思いをしていますが、受け取り、企業裁判を断念しました。

 

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