関釜裁判ニュース第46号

強制連行全国交流集会に参加して 福留

 

 北海道で2004年10月9日から11日にかけて、「朝鮮人・中国人強制連行強制労働を考える全国交流集会」が開催された。

 

交流集会の概要

10月9日には、札幌で全体集会が開かれた。 集会には、約170名が参加し、洪氏・有光氏・川村氏・崔氏ら7名が提言を発した。 また、各地の参加者から報告がなされた。

 韓国から参加した崔氏は、「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」制定の意義について語った。 真相糾明法が被害者たちの血のにじむような運動の成果として結実したこと、その成果の背景には、韓国社会の民主化と支配権力の移動があったことを力説した。

 翌10日には、札幌・そらち空知地区の北大アイヌ納骨堂・ついしかり対雁のアイヌ碑・劉連仁碑・かばと樺戸集治監跡・びばい美唄炭鉱跡・たか鷹どまり泊の墓標のフィールドワーク、そして11日には、しゅまりない朱鞠内での雨竜ダムと慰霊碑の見学、遺骨発掘現場での追悼行事、総括集会等が行われた。

 

北海道開拓と強制連行そして民衆史

 明治以降の北海道の開拓は、主に移民と屯田兵によって行われてきた。 しかし一方で、強制移住されたアイヌが農地開拓に従事させられ、北海道各地に設けられた集治監(監獄)の囚人、タコ部屋労働者、そして戦中の朝鮮人・中国人の強制連行者が、道路・鉄道等の工事現場や鉱山で労働を強いられたという歴史がある。

 強制連行され労働に従事した朝鮮人や中国人は全国で約70〜80万人とされるが、北海道には朝鮮人約15万人、中国人約1万5000人が動員されたという。 交流集会実行委員会が提示した資料によると、北海道において朝鮮人労働者が働いた事業場は214箇所に及ぶ。 フィールドワークで案内を受けた美唄三菱炭鉱跡、朱鞠内の王子製紙雨竜ダム工事現場跡も、強制労働力が投入された事業場であった。

 これらを含め、2日にわたるフィールドワークで、参加者40名は9箇所の現場を見学した。このフィールドワークに参加して驚かされたのは、各所で長年にわたり市民運動によって歴史の掘り起こしがなされており、克明な現場に関する説明が行われたことであった。その背景を尋ねると、明治期の自由民権運動の流れを汲む市民運動が盛んであることが関係しているとの答えがあった。

 自由民権運動家の多くが移住あるいは潜伏したこともあり、北海道ではその開拓を巡り自由民権運動が盛んであった。また、各地に設けられた集治監に受刑者として自由民権運動家が送られた。

北海道におけるこういった市民運動の主要な活動に、民衆史の掘り起こしがあるという。そして、民衆史の一環として強制連行の調査や資料収集がなされているのだ。

フィールドワークは強行軍であったが、どこでも貴重な体験と学習をし、濃密な時間を過ごすことができた。したがって、全てを報告したいが、紙幅の関係から朱鞠内の雨竜ダムに絞って報告する。

 

フィールドワーク(朱鞠内の雨竜ダム)

朱鞠内の雨竜ダム湖の湖畔には、日本最低温度の記録マイナス41・2度の表示版がある。この極寒の地は、かつては原生林であった。

大正の末期、北海道では札幌を中心に人口が増加し、電力消費量が増加していた。政府は電力確保のためのダムの建設現場を朱鞠内の原生林に内定した。ダム建設は王子製紙に持ち込まれた。当時電力事業も行っていた王子製紙は、電力とパルプの原料を同時に手に入れることのできるこのダムの建設に乗り出した。

 1937年に始まった工事は、1943年に完成する。ダム建設には、最大時で7千人、延べ600万人が従事したという。その主要な労働力は、タコ部屋労働者だった。「タコ部屋」は北海道で特殊に発達したもので、前借金を口実にした「周旋」という名の誘拐や暴力によって、労働者を飯場に拘禁し労働させる土建業における前近代的制度である。 そして、1939年から、「募集」という名目で始まった強制連行によって、朝鮮人が朱鞠内のダムの工事に動員される。動員された朝鮮人労働者の数は、3千人を超えると見られている。

1976年、雨竜ダムの近くにある光顕寺でダム工事の犠牲者の位牌が発見された。この位牌を発見したT氏を代表とする空知民衆史講座の会員たちは、工事の実態を明らかにする調査を行うとともに、埋火葬認許証と過去帳によって犠牲者の名簿を作成した。

 これまで明らかになっている犠牲者は、合わせて204人である。そのうち、日本人(主にタコ部屋労働者)は168人で、朝鮮人は36人となっている。日本人の場合はその本籍が35の都道府県にまたがっており、朝鮮人の場合は朝鮮南部の農村地帯の出身者が多いという。

 

遺骨の発掘と日韓交流

 我々は、ダム工事跡を見学した後、遺骨が埋葬されている共同墓地で犠牲者の追悼行事を行った。共同墓地内に作られた墓は、土饅頭型の韓国式のものだった。雨の降る中行われた慰靈の儀式は、フィールドワークに参加され各地で説明をして下さったアイヌのO氏とその友人によって進められたアイヌ式の儀礼イチャルパであった。

 この墓に祀られているのは、空知民衆史講座の会員と地元の人たちによって発掘された犠牲者である。1980年から83年にかけて4回の発掘作業で16体が発見された。これらの遺骨は、現在空知民衆史講座の所有となっている旧光顕寺に安置されている。また民衆史講座では、発掘作業を始める前に、埋火葬認許証の記載を手がかりに、韓国の遺族探しに着手して多くの遺族をつきとめている。

 その後、遺骨発掘は日韓の青年たちの手で続けられた。1997年7・8月、T氏と交流のある韓国青年の橋渡しで、日韓共同のワークショップが10日にわたり朱鞠内の地で行われた。参加者は、韓国からの50名、在日韓国・朝鮮人12名、日本人学生36人を含む211名であった。

 ワークショップの主要な内容が、遺骨の発掘であった。日韓の若者たちは、早朝から発掘作業に取り組み、夜は遅くまで在日の青年の通訳を通して議論に没頭したという。そして、大型ビニールハウスを住居にしたワークショップの間、日韓の青年たちの間で多くのトラブルやけんかがあったという。

 この発掘作業によって、遺骨4体が発掘される。遺骨を発掘できた達成感と10日間の発掘や議論を通した交流で、日韓の青年たちに強い絆が生じた。そして、日韓共同ワークショップは若者たちの手で、引き続き毎年夏と冬に2回、朱鞠内・ソウル・済州島・大阪等の地で開催されている。

 このワークショップは「東アジア共同ワークショップ」と改称し、韓国人や在日だけでなく、アイヌの青年や中国人・モンゴル人留学生も参加するようになっている。2001年に朱鞠内でおこなわれたワークショップの発掘は、韓国から考古学者のチームが参加し、科学的な発掘調査を行い二体の遺骨を発見している。

 

終りに

 交流集会に参加した後、私は飛行機のチケットの都合で、12日の昼まで札幌に滞在した。この日の午前中に、交流集会実行委員会の事務局を務められたH・K両氏の案内で、札幌市にある北海道電力藻岩発電所の工事現場跡と犠牲者の碑を見学させていただいた。参加者は群馬県からこられたIと私の2人という贅沢なフィールドワークだった。

 今回の交流集会に参加して、多くのことを学んだ。北海道は、戦後補償問題に関わる市民運動の一つのモデルケースを提示してくれている。

 北海道では、強制連行・強制労働の調査が、「民衆史講座」や「郷土を掘る会」などの市民運動によって広くそして深く行われていた。そして、それは日本における過去の発掘に留まらず、朱鞠内の例に見られるように青年たちの手によって東アジアの未来に結びつく形に拡がりを見せていた。


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