封印された過去〜日本人慰安婦(第三編) 平尾その後、私は、同じ地区に住む73歳の女性から戦時中から戦後にかけての話を聞く機会を得た。この女性の記憶では、同じ部落から上の世代の女性(この女性は終戦時、14〜15歳)が何名も戦時中、看護婦として外地に行っていた。区画整理前に住んでいた家の隣人の女性も戦時中、満州に行き、満州の看護学校を出たと言っていたが、看護婦の免許証を見た者もおらず、慰安婦ではなかったかと陰で噂をたてられていたという。聞き取りをした女性本人も人を介して「兵隊さんの包帯や下着を洗う仕事」を紹介されたが、親も幼い子どもを外地になど行かせたくない、本人も看護婦の仕事を好まないということで断った経緯があったそうだ。当時、この女性は小学校を卒業したかしないか位の年齢であり、もちろん看護婦の資格など持っていなかった。
更に戦後2〜3年の段階で、復員兵の口から帰還した女性が看護婦ではなく慰安婦であったという風評が、陰ながら地域に広まっていったという。この女性は、口さがない年長の人が、「なんが、看護婦か。慰安婦で行っとったとたい。」と剥き出しの表現で語っていたことを記憶していた。
狭い地区である。同じ部落に戻っていった「まさこさん」や「はるこさん」の戦後の道程も決して穏やかなものとは言えなかったのかもしれない。まるでその非が自分にあるように蔑みの視線を投げられる不条理に対して対峙する言葉も持ち合わせておらず、虚勢と沈黙を守って彼女たちは、戦後を生き抜いた。
民族、国家、戦争、性、部落差別…あらゆる問題が交叉する断層に身を置いたため、彼女たちの被害は、捨て置かれた。
しかし、戦前の被差別部落の閉塞した空間の中で、苛酷な差別と貧困に曝され、充分な教育を受ける機会も与えられないまま幼くして日本軍の性奴隷とされた彼女たちが、戦争体制の犠牲者であることは明確だ。彼女たちの存在を、懊悩を、これ以上、黙殺していてはならない。
沈黙を続ける日本人慰安婦たちは、この社会の中で自らが忌み、避けられる存在=「《忌避》の存在」であることを本能的に感じとっていた。なぜなら日本人慰安婦の問題は、アジアへの植民地支配の贖罪に留まらず、連綿と現在にまで引き続くこの国の日常の領域にまで問題の根幹が横たわっているからだ。
自己抑制を暗黙の内に強いる共同体への同調が無意識に機能し、パブリックな空間での戦時中の話と言えば、一般的な国民の窮乏生活や苦労話に終始する。日本人慰安婦、そして大多数の元皇軍兵士たちですら戦後の日常空間を凌駕し、自らの心身を苛む諸刃の剣ともなりかねない個々の記憶を、内奥に封印することで、戦後の生を辛うじて生き抜いた。しかし、封じ込められた記憶は、長い年月の間に色褪せるどころか、深い澱となって人の心に沈殿していくものではないか。
日本人慰安婦の問題を問うことは、日本の帝国主義、植民地支配や戦争の禍根を問うに留まらず、何故、彼女たちの存在が戦後60年もの間、事実上、黙殺されてきたのか、ますます肥大の一途を辿りつつあるこの国の複合した病巣の根幹を問うことになる。
(全編が『部落解放』2004年9月号に掲載されています)