原告を訪ねて(その2) 

  花房俊雄

◆5月4日 春川からソウル 春川から列車で二時間、ゆったりと山あいの景色をたのしみながら清涼里(チョンニャンニ)駅に到着した。
 地下鉄に乗換え、ソウル市庁で降り、原告たちと待ち合わせているロッテホテルにむかう。待ち合わせの二時に昨年温陽温泉に行く時お世話になった金君が来てくれたが、肝心の原告たちが現われない。いつもは約束の時間よりもはるか前に来て待っていてくれる原告の姿がどこにもない。いやな予感がする。朴Soさんの家に電話すると連れ合いさんが「韓江の南にあるロッテワールドホテルに行くと言っていた」とのこと。何ということだ。ソウルにはロッテホテルが二つあったのだ。そしてハルモにたちにとってロッテとは江南にあるロッテワールド以外になかったのだ。
 今さらロッテワールドに行ってすれ違ったらと、待つこと二時間、朴Soさん、金Jyonさん、羅Faさん、柳賛伊さんがようやく到着した。「朝十時にロッテに行ってずっと待っていたよ。三時過ぎてもこないので大変心配して春川の金会長に電話したらソウル市庁前のロッテホテルだと聞いてあわてて来たよ」と金Jyonさんがまくしたてる。羅Faさんが「よく待っていてくれてありがとう。会えないのではないかと心配していたよ」と嬉しそうにおっしゃる。なんとやさしい方だろう。
 原告たちを待つ間、金君とサムスン交渉について話を交わす。
 「金景錫さんが回復次第、サムスンとの再交渉に乗り出します。金会長が病後で大変なので、私が助けながら頑張ります」と、力強く言われた。老齢の被害者たちを助け、共に闘う三十代の若者が登場している(このあと、五月二十七日に三十六人がサムスン本社に再度の交渉に行った。金景錫さんは、サムスン交渉で頑張って、春川に帰り。その後、金君がみんなを引き連れて不二越ソウル事務所に行き、交渉したとの連絡が五月二十八日に入った。詳しくは次回のニュースで)。
 宿泊予定の仁寺洞(インサドン)の韓式旅館で、関釜裁判支援者の姜さんと落ち合う。近くの食堂で田螺などの食材を使ったヘルシーな食事をした後、再び旅館に帰って原告たちと話し合う。羅Faさんに、「七月二八日の第四回口頭弁論に木浦の成順任さんと一緒に来て下さい」と、伝えると「私の経験した苦労は簡単には言えないよ。ぜひみんなに聴いて欲しい」と嬉しそうに言われた。
 二年前、初めて会った時、暗くて寂しそうな印象が強く残った羅Faさんは、昨年四月提訴で日本に来て以降すごく前向きで明るくなってきていて、わたしたちへの暖かい気遣いが印象的であった。金Jyonさんは離婚した後の子育ての苦労、そして今一緒に生活している息子のインテリアデザイン会社が倒産して苦しい生活に追われていて、「不二越から補償金を取って、少しでも息子を助けたい」と、勝てる展望が見えない裁判へのもどかしさを話される。
 朴Soさんはずいぶん耳が遠くなられた。七月の裁判に行けないと気落ちされていた。かっての気丈なSoさんが弱られているのが気がかりであった。
 九時ごろ原告たちが帰り、早寝の柳賛伊さんを宿に残して、姜さんと近くの居酒屋に出かけた。その居酒屋には、三月に成立した「日帝強占下強制動員被害者真相糾明のための特別立法」の九月の委員会立ち上げに向けて市民運動の人たちが集まっていた。姜さんが別室でのその集まりに参加され、柚茶を飲んでいた私たちの席に若い女性がにこにこと挨拶に来られた。一昨日、光州で別れた李金朱さんの孫娘のホナさんであった。
 「何であなたがここにいるの?」と思いがけない出会いにびっくりする私たちに「姜さんたちと一緒に委員会立ち上げの準備にソウルにきている。九月からソウルの委員会に入って、真相糾明の仕事を二年間する」とのこと。李金珠さんの自宅の二階に何度か泊めていただき、一階にすむ息子さん夫妻とお孫さんたちとは軽い挨拶を交わす程度。まさか孫娘が李金珠さんたちが奮闘して成立させた真相究明法案の実現者として後を継いでいるとは知らず、感動の出会いだった。

 韓国の若者たちは多くの血を流しながら軍事独裁政権を倒し、光州蜂起犠牲者の真相糾明と名誉回復、四・三〇済洲島大弾圧事件の真相糾明と名誉回復を実現し、ついに日帝支配下の強制連行被害者の真相糾明・名誉回復にたどり着いた。
 「慰安婦」問題こそ韓国の幅広い女性たちのサポートを得て展開されてきたが、他の強制連行被害者の戦後護補償運動は年老いた被害当事者たちの孤立した戦いが続いていた。韓国の若者たちの民主化闘争はついに祖父母たちの戦いと合流を開始したのだ。ソウルの街は夜遅くまで若者たちの熱い運動が展開されていた。

◆5月5日 ソウル〜帰国
朝、釜山に帰る柳賛伊さんをソウル駅に送る。旧駅舎の左側に近代的な駅が新築されていた。旧駅舎の付近にたくさんのホームレスがたむろしている。「ああ、日本と同じだ」と感じる。柳賛伊さんは別れ際「みんなと一緒に旅ができて楽しかったよう〜」とにこにことしていた。一番老齢であるにも関わらず早寝・早起き・早朝の散歩をかかさず、食生活にも人一倍気をつけているマイペースで自立している賛伊さんとの旅は実に楽しかった。
ソウル駅からの帰り、仁寺洞近くで五〜六人一組の若者の部隊が次々と街に繰り出していくのに出くわした。先日おきた北朝鮮列車爆発事故に巻き込まれた小学校の子供たちの支援のカンパ活動を、ソウルの様々な街角で展開しているのだ。改めて韓国の若者たちの北朝鮮への支援・交流の活発さを目の当たりにして、日本で聞いていた「南北朝鮮の民間交流の流れはもはや誰にも止めることはできない」ということを実感した。

姜さんに同行してもらい昼前再度、安養(アニャン)市のメトロ病院に朴頭理さんを訪ねる。一昨日の、表情が喪失していた朴頭理さんの姿が胸奥に焼き付いていて気がかりであった。朴頭理さんの姿は今日も痛ましかった。手首は、重りとして石が結わえられた紐でくくられ固定されていて、私たちの姿を見ても目の表情は相変わらず空ろで、そのうち眠そうに目が閉じられいった。
 十年間の裁判闘争中、会えば実に嬉しそうな笑顔を浮かべ、別れる時はその辛さに「早く行け、早く行け」という手振りをしながら涙を浮かべていた懐かしい朴頭理さんの表情はもう戻ってこないのであろうか。後ろ髪を引かれながら病室を後にした。
 昼食を済まして、地下鉄に乗ること約二十分、九老区開峰(ケボン)にいる李順徳(イ・スンドク)さんを訪れる。姜さんが携帯電話で連絡をしていたので、三階の自宅の玄関前に杖を片手につき身を乗り出して私たちをとても嬉しそうに出迎えて下さった。部屋に入るとにこにことして「よく来た。よく来た。昼飯を食べに行こう。近くの食堂に予約している」という。
 「今食べてきたとこでとても食べられない」というと、「家にきて食べてくれるのを楽しみにしていたんだよ。絶対に食べなければだめだよ」ととても聞き入れてくれそうにない。十年前、本人尋問で福岡にこられた時、民間基金構想を激しく批判した記者会見直後、李順徳さんは「おれが生きているうちに賠償をして欲しい。金が出たらな、あなたたちを韓国に呼んでご馳走してやりたいんだ」といわれたことが思い出される。いまだ賠償は実現していない。しかし家を訪れた私たちをもてなしたい思いが溢れている。かくして私たちは急遽近くの小高い山の手に散歩に出かけ腹ごなしをして帰ると、李順徳さんの亡くなった連れ合いの先妻の娘、孫、娘の夫の母親総掛かりで食事の準備が始まっていた。食堂の予約は取り消し、手作りの料理に切り替えたのだ。
 順徳さんは三畳ほどの自分の部屋に私たちを連れて行き、宝のようにしている写真を見せていただいた。まだ幼い先妻の娘と若かりし日の順徳さんの写真を見せられてとても安心した。光州からソウルの義理の娘のところに移られてうまくいっているのか気がかりであった。写真からは実の親子のような雰囲気が伝わってくる。
 その娘さんを先頭に作られたご馳走は素晴らしかった。何種類もの手作りのキムチ、スープ、野菜料理、魚料理を堪能した。楽しい会話の中で時々、順徳さんは「まだ金は出ないのか?」と時々つぶやくようにいわれる。「すいません。まだなんです」となさけない答えを返す。話はあちこちに飛び交いながら瞬く間に訪れた夕方に家を辞した。いつまでも手を振って別れを惜しんでくれた順徳さんの顔が朴頭理さんの顔と共に胸に刻みこまれた。

 胸がふさがされる痛みと暖かい交流の喜び、原告たちの残り少ない時間への焦燥とたゆみなく社会を切り開いていく若者の国・韓国への希望が交差する今回の旅は、戦後補償運動への思いを新たにするものだった。


関釜裁判ニュース No.45 index