柳Tさん意見陳述
 
 私は柳Tと申します。私が挺身隊に勧誘されたのは1944年6月ごろで、当時私は16歳でした。
 挺身隊のことは、顔見知りの朝鮮人の区長から話がありました。区長は私に何枚もの写真を見せて日本に行くように勧めました。写真には日本の女学生が働いているところや生け花をしているところなどが写っており、大変きれいに見えました。区長は、「日本に行けば、こういうところで仕事もいいし、金もうけもできる」「生け花、ミシンも教えてくれる」等と甘いことを言って私を挺身隊に勧誘しました。それで、私はお金がもうかるし技術も身につくし習い事もできるしということで、日本のどこでどんな仕事をするのかもわからないままに区長の勧誘に応じました。
 富山に着いたときはこれからいろいろなことができると嬉しかったのですが、不二越での生活は厳しく、私たちはだまされたのだと気付きました。
 私たちは、鉄の棒に旋盤で穴をあけて飛行機の部品を作る作業をやらされました。本来は二○歳過ぎの男の工員が行う、きつい仕事でした。鉄の棒は肘から手首ぐらいの長さで、太さは腕ぐらいの重いものでした。旋盤の仕事は危なく、指や手に生傷が絶えず、私は右手の親指を機械で切り、二、三針縫いました。現在も右手親指の爪は変色し曲がっています。
 工場は、昼夜の一週間交代勤務制で、機械を休ませずに操業し続けていました。食事時間は二○分程度で休憩時間はありませんでした。私たちの作業は一日中立ちっ放しで行うものでしたので、足がむくんで痛くて大変でした。私は、右足が炎症を起こし約二○日間も入院し、足首に穴を二箇所開けてホースで膿を取り出す手術を受けました。
 このように仕事は重労働でしたが、食事は貧弱でした。とにかく量が少なかったです。少しの御飯と、朝はみそ汁、昼は沢庵、夜はおかず一品で魚や肉類は一度もでたことはなく、いつも腹を空かせていました。私は、年齢の割に体が大きかったので、いつも、非常にひもじい思いをしていました。
 このような生活の中で、日本に来てから生理も止まってしまいました。
 家に手紙を出す時には、何を書いたか舎監に見せてから封をさせられました。家から来た手紙も検閲されました。
 給料については、担当の舎監は、帰る時にまとめて払うと説明していましたが、結局払ってもらっていません。お金がもうかると聞いていたのに、ただ働きになってしまいました。
 また、生け花も二回見学しただけで教えてもらっておらず、ミシンも教えてもらっていません。これもでたらめでした。
 私はだまされて連れて来られた不二越で一生懸命働きました。まだ幼い子供が空きっ腹で、奴隷のように働き、栄養不足でボロボロになり、乞食のようでした。
 私は当時、挺身隊の歌の替え歌を先輩に教わり、つらいときに同僚と歌って気を紛らわせようとしました。今でも歌えます。その歌詞は「富山来るときうれしかった 一夜過ごせば悲しさよ いつかこの工場去るでしょうか いつか不二越去るでしょうか ああ ああ 陰でなく涙は」というものです。
 私は、いわゆる関釜裁判の原告として戦いましたが不当にも請求は認められませんでした。第一次不二越訴訟の最高裁和解では、米国で不二越を被告とする訴訟を準備していた四名の被害者は和解の当事者となりましたが、国相手の訴訟に取り組んでいた私たちについては、同じ被害者でも,不二越は私たちが和解の当事者として参加することを認めようとしませんでした。このような不二越をどうしても許せないので、今回の裁判に参加しました。
 不二越は謝罪をするべきです。もちろん、私たちが働いた賃金は支払われるべきだと思います。私は人生の貴重な青春の時代を失ったのですから、これに対する補償がなされるべきです。