不二越ソウル支社に行く

     わたしは言いたい!
                   朴SO

 10月1日、不二越第二次訴訟原告13人と現地支援者4人と北陸連絡会10人の計27人で不二越ソウル支社へ申し入れ行動をしました。朴SOさん、金GYONさん、羅FAさん、成SUNさんも参加されました。朴SOさんに代表してその行動報告して欲しいと原稿依頼しました。以下の原稿はその日に一気に書かれたものです。
 書いているうちに違う方向へいってしまったけれど、今わたしが一番言いたいことだからと送ってこられました。(事務局)


 人生というのは、本当に長生きしなければなりません。
 良い点、悪い点、全てを見ます。過去があるから現在があるように、私は今ソウルに住んでいます。私が住んでいる所から遠くない所に、夢でも忘れぬ不二越の会社(ソウル支社)があります。ソウルに不二越があることを、10年間知らずに過ごしてきました。
  私が12歳の時、卒業した学校の先生の連絡を受け、学校で指示されたとおり、国のためになるというその言葉に、父母の承諾もなく、挺身隊に志願しました。私の学校からは、私1人だということも知りませんでした。両親には、学校から沢山行くと嘘をつきました。
 今考えると、勇んで自分一人で決めたことです。先生の話では、日本に行けば、勉強もさせてもらえ、生け花も習えるということでしたが、日本人たちは私たち幼い生徒をだましました。しかし、私の思いは国のためになるということで、一生懸命努力しましたが、結局、女性として一生心に傷を負いました。
 作業が終わる頃、掃除中に左手の指にけがをしました。幼かったのですが、日本人たちに馬鹿にされると思い、指を汚れた雑巾で覆いました。朝鮮人といって蔑視されると思い、機械の前に座っていると、他の機械は止まっているのに、私の機械だけ動いていたようです。
 今はもう、全て過ぎ去った歳月です。
 幼心にいつも母を思って、泣きもしませんでした。ある日、何の予告もなく、各自所持品を持って、誰かに引率され、ある埠頭に連れて行かれました。今思うと、そこは富山港だったようです。その夜、船に乗り出発しましたが、空襲が激しく、また富山港に戻りました。私たちの乗った船には、日本人の家族の姿が見えました。誰かが、「朝鮮に行くと言っているけど、信じられない」と言いました。
 夜が明け、到着した所は現在の北朝鮮の地、清津(チョンジン)でした。私たちは故郷の地、朝鮮に来たことがとても嬉しくて、お腹がすいているのも忘れました。
 次の日の朝、私たちは汽車に乗り、黄海道の沙里院(サリウォン)という所に集まりました。食事をしていませんでしたが、お腹がすいていることも忘れていました。黄海道沙里院で一晩過ごし、一次で集められた私たちだけ、全員故郷に帰れという指示があり、所持品もなく、空襲の時かぶる帽子だけ持って、お腹のすいたのも忘れ、誰かに引率され列車に乗り、故郷の大邱に到着しました。家に帰ると、父母は自分の娘と気づかず、乞食だと思ったそうです。
 一日一日が過ぎ、母の洗濯などを手伝っていると、「解放」されたと聞いて、「解放」がどこにあるのか見回しました。山へ野に、「解放」という言葉を唱え、青年たちは太極旗を掲げ走り回っていました。両親も、「もう挺身隊に行かなくてもいい」と言いました。数日後、二番目の兄さんが、軍服を着て家に帰ってきました。その当時は、長兄は徴用、次兄は軍人、私は挺身隊で、家は穏やかではありませんでした。
 12歳の幼い少女が、今や73歳の老婆になっており、この文を書きながら悲しくなります。
 言っておきたいことは、日本という国を何と評価すべきかということです。もみじのような手をした12歳の少女が73歳のおばあさんになるまで、労働した賃金を支払わないのか、雇用主ならば紳士らしく身を処すことを願い、賃金の支払いを願います。      (翻訳 福留範昭)