福山で原告を迎えて

    関釜裁判を支える福山連絡会 

武藤貢

三月三〇日、金Jさん、羅Hさん、成さんたちが、少し不安げな顔をして福山駅の改札口を通り抜けてきた。簡単な挨拶の後、彼女たちは「福岡では、桜の花がきれいでした」と言うので、「よし、ならば福山は、すももの花をみてもらおう」と朝鮮通信使ゆかりの地、鞆の浦を案内した。

今がちょうど見頃で、山の斜面をピンク色に染めていたすももの花を見ていたハルモニたちは、一様に感嘆の声をあげていたが、同時に緊張した気持ちが解けていくことも伝わってきた。花の持つ不思議な力をあらためて感じ取ることができた瞬間であった。

 資料館を見たいということで案内したが、鞆の産業(鍛冶)である鉄の二次製品(錨やシャックルなど)を見たハルモニたちは、展示されている製品を持ちながら一気に不二越でのことを語り始めた。

 展示品は、彼女たちが製作していたものとは異なるものだが、鉄の加工品ということで、当時のことが思い出され、作業内容や辛かったことを伝えたかったのだろう。それにしても、「内径」「外径」と言う言葉が出てきたのにはびっくりした。ベアリングを作っていたとのことだから、きっと日本人の管理者から寸法について厳しく言われていたのだろうことは、想像に難くない。十二、三歳の少女に旋盤仕事は、あまりにも過酷だ。

 さて、福山での「関釜裁判原告らが不二越を提訴―原告の証言を聴く会」では、三人のハルモニたちが、不二越でのことをしっかり証言し、わたしたちも第二次不二越訴訟を支援することをあらためて確認した。

そして、いよいよ富山ー提訴だ。ハルモニたちは電車で、わたしたちは車でそれぞれ富山にむかった。

富山での具体的な行動については他に譲るとして、印象的なことが二つあった。一つは、ハルモニたちが一つ一つの行動を通して力強くなってきたことだ。

証言することでハルモニたちは、自己の存在を確認し、わたしたちは、それを聞き入れることで闘いの大切な部分を形成することができる。こうした関係の中から信頼感が生まれるのではないだろうか。

もう一つは、崔Hiさんが富山での「全国集会」で歌った歌のことだ。

日本にむかう飛行機のなかで考えたそうで、韓国で歌われている「木浦の月夜」の曲に作詞したもの。

ここは、日本という国 何十年ぶりだろう

何もわからない幼いころ どのくらい苦労したか

戦時中、生死かけて 父母兄弟に会いたくて

どのくらい泣いたか どのくらい泣いたか

故郷が恋しい

 集会のときは、韓国語で歌い上げた。来日した八人のハルモニの気持ちを歌にしたもので、不二越に対する腹の底からの恨と長くなるかもしれない裁判闘争にむけた強い思いを感じ取ることができた。

最後に、通訳兼付添いの李さんのハルモニへのやさしい気遣いには、学ぶものがたくさんあった。李さん、ご苦労さま、そしてありがとう。