最高裁棄却決定を乗り越えて
花房俊雄
すでに皆さん新聞報道などでご存知の通り、去る三月二五日、最高裁判所第三小法廷で関釜裁判に対する上告棄却の決定が出されました。事務的な決り文句の棄却決定通知のみで判決文も出ないまま敗訴が決定しました。最高裁判例に恭順を示して下関判決を葬り去った広島高裁の判決を当の最高裁が覆すことはないと覚悟はしていました。それにしても憲法判断を示す事もなく、紙切れ一枚である日突然門前払いされるとは予想外のことでさすがに落ち込んでしまいました。この国の司法府トップたちの外国人戦争被害者に向き合おうとしない卑劣な冷酷さ、歴史認識の欠如が身にしみて感じられます。
敗訴の報告を、朴頭理(パク・トゥリ)さんにはナヌムの家のスタッフに、光州の李順徳(イ・スンドク)さんと梁錦徳(ヤン・クンドク)さんには光州遺族会会長の李金珠(イ・クムジュ)さんに依頼しました。朴頭理さんは悔し涙をながされて「日本は悪い、日本は悪い」と怒って荒れたそうです。李金珠さんは、李順徳さんの国民基金を断り賠償を泣きながら訴え続けた面影が何回も浮かんでどのように伝えたらよいのか悩まれているとのことです。辛い役目を任せてしまいました。他の原告には直接電話連絡しました。
東京麻糸工場の元女子勤労挺身隊原の姜Yoさんに敗訴を伝えると「これからどなるのですか?」と深いため息をつかれ、しばらくして「日本は悪い。…とても悔しいです。」と絞り出すような声が繰り返されました。「わたしたちの力がなくて申し訳ないです。近いうちに韓国に行きます」とかろうじて言うことしかできませんでした。李Yoさんも同じような落胆と途方に暮れた対応でした。すでに不二越第二次訴訟に取り掛かっている朴Soさんと柳賛伊(ユ・チャンイ)さんは「国を相手にしてもだめだよ。不二越の裁判で頑張ろうよ」とすでに心は富山の裁判に飛んでいました。
朴Sunさんはなかなか電話が通じませんでした。一週間後電話が通じて「イラク攻撃のテレビを見て、胸が苦しく動悸がして寝こんでいたよ。今はとても起きていられない。テレビも見れない。富山に行けるようになれるかねえ〜」と空襲によるPTSDの再発にさいなまされていました。
一審、二審のように原告たちと共に判決に立会い、怒りや落胆を共有する場も持てない今回の最高裁決定でした。十年余を費やした裁判を終えて、原告たちの求めた謝罪も賠償もなに一つ解決を得ることはできませんでした。日本軍「慰安婦」原告の河順女(ハ・スンニョ)さん、東京麻糸女子勤労挺身隊原告の鄭水蓮(チョン・スヨン)さんはすでに亡くなられました。残された原告たちも年とともに体力が衰え、日本軍「慰安婦」原告の朴頭理さん、李順徳さんは日本に来ることもかなわぬ状態です。それでも裁判を生きがいにされていました。六月にも韓国を訪問し、ソウル、釜山、光州からの中間点にある大田(テジョン)近くの温泉宿に原告たちに集まっていただき、原告たちの怒りや不安を直に受け止め、わたしたちの今後の取組みを語り、そして敗訴の傷を少しでも癒す交流を企画しています。参加希望の方はご連絡下さい。◆今後の取組み
最高裁敗訴のショックも冷めやまぬ三月二八日、光州遺族会に申告されていた元不二越女子勤労挺身隊の金Jさん、羅Hさん、成Sさんの三人を福岡に迎えました。広島、福山でも交流を重ね、四月一日富山で不二越第二次訴訟の提訴を行いました。三人の裁判にかける熱い思い、韓国の民主化闘争を担ってきた付き添いの李さんの勝利への強い執念が支援する会のメンバーの心を吹き抜け、新たな闘いへと鼓舞していきました。広島高裁判決以降二年間かけて、原告たちと不二越を相手に未払い賃金を取り返す取組みは二二名の原告による大きな裁判として力強く踏み出しました。不二越訴訟を支援する北陸連絡会と関釜裁判を支援する会が共同してこの裁判を支えて行くことになりました。不二越を再度和解のテーブルに就かせるため、裁判闘争を軸にあらゆる手だてを駆使して不二越を追い詰める闘いに取り組んで行きます。
十年余にわたる裁判闘争を無駄にしないためにも,九八年の下関判決が命じた立法運動に本腰を入れていかねばなりません。「慰安婦」原告の戦前・戦後に引続く被害と怒りに正面から向き合い、人格の尊厳に根幹的価値を置いた日本国憲法下の国会に被害の回復を命じた下関判決は「慰安婦」問題の解決を願う人々に脈々と受け継がれがれています。参議院での「戦時性的強制被害者問題の解決促進法案」の上程を促し、東京の市民団体や国会議員による精力的な取組みにより廃案・上程を繰り返しながらじりじりと審議を進めています。今秋、福岡に立法解決に取り組むNGO代表や国会議員をお呼びして地方における立法運動に取り組むネットワークを立ち上げたいと思っています。
◆関釜裁判を支援する会と共に歩んでください
関釜裁判は敗訴で終わりました。その反面、十年間にわたる闘いは下関判決と原告たちとの深い絆をわたしたちにもたらしました。この二つの成果を大切にして今後の取組みを続けて行くために「戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会」の名称は存続していきます。
ところで、わたしたち支援する会の規模は残念ながら縮小してきています。戦後補償への社会的関心の衰退と、広島高裁判決後二年間の裁判の空白がたたっています。一部の熱心な支援者や支援団体に会費やカンパがしわ寄せされながら乗り切っているのが実情です。北陸の支援団体と共に担っていくとはいえ、二二名の原告(今後追加提訴があり三十名ぐらいになると思います)を富山にお呼びしての不二越第二次訴訟への取組みはこれまで以上の財政が必要です。もとより事務局メンバーの富山への裁判傍聴行動はこれまで通り手弁当で取り組む所存です。どうか会員の皆様、今後とも引続き支援をお願いいたします。そして新たな会員を呼びかけます。どうかわたしたちと共に歩んでいってください。
戦後補償全体の運動は、一審段階では画期的な勝訴判決が次々に生まれ、部分的には和解も実現してきました。そして尚,新たな裁判が次々におこっています。「慰安婦」問題と強制労働問題が六月のILO総会の議題に上り,日本政府に解決を促す勧告がなされる可能性が開かれてきています。アジアの戦争被害者の告発と被害回復への強い思い,それに応えようとする弁護団や支援者の闘いが、戦争をできる国に向けて急旋回する日本社会の狭小なナショナリズムと厳しく対峙し,アジアの人々と真の和解を実現し,平和的に共存できる日本社会のもう一つの選択肢を示しつづけています。今後とも希望を語りながら取り組んで行きたいと思います。