第二次不二越訴訟原告を訪ねて関釜裁判を支援する福山連絡会 都築寿美枝
7月29日から8月2日まで関釜裁判を支援してきた福岡、広島、県北、福山のメンバーで、第二次不二越訴訟原告ハルモニ、 関釜裁判原告ハルモニを韓国にお訪ねした。提訴に必要な準備書面作成のための聞き取り調査とハルモニたちとの交流が目的である。これまで何回も交流してきたハルモニ、初めてお会いするハルモニ、それぞれ歩んでこられた人生からまた貴重なものをいただいたような旅だった。
7月30日釜山から高速バスに揺られること約4時間、22年前韓国民主化闘争で多くの犠牲者を出した光州(クワンジュ)市に到着。太平洋戦争犠牲者光州遺族会事務所(李金洙さん方二階)でハルモニたちと久々の再会を喜び合う。
翌31日、成Sunハルモニ(72才)の聞き取り調査を要約すると次の通りである。「1945年雪の降る1月中旬、端石国民学校4年生のとき、担任のオカ先生の甘い言葉を信じて女子勤労挺身隊員に応募、教師の引率で釜山から富山の不二越に着いた。当時、朝鮮では『未婚女性は日本軍に連れて行かれ、慰安婦にさせられる』ということで自分の姉も両親が急いで結婚させていたが、姉の不幸な結婚生活を見るにつけ、自分は姉のようにはなりたくないと考え、日本での生活に期待を寄せていた。しかし、不二越での生活は聞いていたのとは大違い、重労働と暴力、栄養不足で倒れた人も少なくない。自分も腸チフスで2,3ヶ月入院した。当時の栄養失調のため現在も虚弱体質になっている。戦争末期の富山空襲のときには田圃で布団をかぶってしのいだが、寮に戻ると死んだ人もたくさんいた。8月15日の解放は知らされず、数ヶ月後船に乗せられて帰国した。何の補償も慰労の言葉さえなかった。結婚1年後に夫が(挺身隊に行っていたということで)『汚い女』と蔑視し始め、耐えきれず42才の時別居してしまった。」今回の聞き取り調査中、重要な裁判証拠になりうる写真が確認された。1945年10月19日米進駐軍が博多港での引き揚げ者を撮影した中の「帰国を喜ぶ少女たち」の中に成さん自身が自分を確認したのである。聞き取り最後に成さんは「私はこんな生活をしてきたのでお金はないけれど、体を動かして闘うことはできる。」と力強く締めくくった。
同日、梁錦徳(ヤンクンドク)ハルモニの案内で光州市郊外の丘の中腹にあるカトリック系養老院に日本軍性奴隷被害者の李順徳(イスンドク)ハルモニを訪問した。3ヶ月前に連れ合いさんを亡くし、いよいよ天涯孤独の身となりこちらへ来られたという。私たちの訪問を大変喜ばれ、「ウスセヨ(笑って)!」の合図ににっこりほほえんでカメラに収まるハルモニであったが、握った手は冷たく健康状態が決して良好ではないことを予感させた。おみやげの風鈴の音色を聞きながら、そのうち昔話に入っていくとハルモニは室外の様子をうかがいながら声を落としてこう話し始めた。「ここの人たちは私が慰安婦をしていたことは知らない。絶対知られたくない。もしここの人が私のことを知ったら、きっと私のことを『汚い女』だというから。・・・私は何も知らない子どものとき、ヨモギを摘んでいたら男が来て無理矢理さらっていった。上海に連れて行かれ、軍人に服を裂かれ、あの人たちは私に無礼を働いた。出血していたくて痛くてたまらなかったけどお構いなしだった。抵抗して殴られた頭が今も痛い。起きている間はずっと痛くてたまらない。」はじめは声を潜めて話し始めたハルモニだが、そのうち体中の毒素を吐き出すように一気に語りきった印象を受けた。玄関で何度も何度も振り返り、「又来てくれるか。又あえるか。」と泣きながら別れたあの顔が忘れられない。
光州や釜山市内では米軍による女子中学生犠牲者の写真入りポスターや抗議横断幕を見た。ワールドカップで韓国チームが勝ち進み、韓国全土が真っ赤に染まっていた6月13日、ソウル市近郊のヤンジェ郡で米軍戦車訓練が事前通知されず公道で行われた。対向戦車を避けるために進路を変えた戦車が道路を歩いていた二人の女子中学生をひき殺したのだ。ワールドカップ特集ニュースの陰でこの事件は小さく扱われ、市民活動家のメールを通してやがて全国民の知るところとなった。容疑者の米兵は警察に出頭したものの名前と階級を報告しただけで後は黙秘、SOFA(在韓米軍に関する地位協定)により身柄は拘束されず米軍内で調査されているらしいが、調査結果は韓国側に明らかにされていない。韓国世論に押される形で7月13日米軍司令長官は「事故は遺憾だが、公務上のことなので仕方がない。」というコメントを発表。全国で抗議の声が挙がっている。私の友人は「米軍にとって我々韓国人は人間ではなく、虫けら同然なのだ。」と怒りの涙を浮かべる。日本がかつてアジアの人たちに対して行った非人道的扱いが現在も尚繰り返されている。軍隊の存在するところ必ず弱い者から順に犠牲になっている。関釜や不二越の闘いは過去の不正義を正すと同時に現在、未来の正義を守る闘いでもあらねばならない。
8月1日光州空港からソウル金浦空港を経てバスでナヌムの家へ。水曜デモで疲れておられるはずのハルモニたちだが花房夫妻をはじめとする豪華メンバー(?)の訪問にご機嫌で夜遅くまで歌い続けた。久々にハルモニたちのバイタリティーを肌で感じる夜であった。次の朝、ソウルから合流した朴Soハルモニの聞き取り調査である。朴Soハルモニは裁判を通じて知り合った朴頭理ハルモニにわざわざ会いに来たのである。挺身隊被害者である朴Soハルモニの聞き取り中、日本軍性奴隷被害者の朴頭理ハルモニがちょっと距離を置いて寄り添っておられた姿が何ともいえずいい感じ。 二階では金順徳ハルモニが新しい絵の解説をしてくださり、「戦争がなく、『慰安婦』にされなかったら何になりたかったの?」の私の質問に「本当はもっといろんなことを勉強して学校の先生になりたかったけど、それはできなかった。」とため息混じりにおっしゃるので、「学校の先生ではないけれど、ハルモニは絵や自分の言葉で私たちに大切なことを教えてくださっているじゃないですか。私たちにとっては立派な先生ですよ。」という私の言葉に「ウン、ウン。」と頷かれるのであった。
ナヌムの家のみなさんとお別れして午後はソウル市カンビョン駅前テクノマートという巨大なショッピングセンターへ。元不二越挺身隊員の羅Faさん、金Jyoさんと合流し、イタリアンレストランで聞き取り調査開始。金Jyoハルモニには花房恵美子さん、土井桂子さん、谷元絢子さん、通訳は 関釜裁判のとき朴頭理ハルモニに付き添ってこられた朴博子(パクパクジャ)さんが、羅Faハルモニには花房俊雄さん、塚本勝彦さん、都築寿美枝、通訳は大邱(テグ)の李さんが当たった。彼女たちの話は光州で聞いた話と同様で本当に苦労の連続であったことが改めて立証されるものであった。羅Faさんの夫は彼女の引き上げ場面を目撃したという近所の噂から「解放直後に外地から引き上げてきた若い女性は慰安婦だった。」という挺身隊員と「慰安婦」の混同から「おまえは淫らな女」と蔑視し、虐待してきたという。「苦労して育ててきた4人の子どもたちも父親と同じような目で自分を見るので今は本当は家族と離れて1人で生きたいと思う。」の言葉にしばし返す言葉が見つからなかった。「ハルモニ、ここでは一人二人ですが、韓国全土にはハルモニと同じような苦労をされ、日本の国や不二越に対して謝罪と保障を要求して立ち上がっている方もたくさんおられます。仲間がたくさんおられますよ。そしてわたしたちもハルモニたちを応援していますから元気を出して一緒に頑張りましょうね。」という励ましにハルモニの顔が確信を得たようにしっかりと前を向いてほほえんだ。裁判のための証言聞き取りという形で自分の体験を聞いてもらい、今まで何十年間も我慢してきたつかえを一気に吐き出した安堵感、満足感からか、ハルモニたちの表情に自信が読みとれた。「このハルモニのこの瞬間に立ち会えてうれしい 。」という感情がこちら側にもあふれ出た。
予定のスケジュールを終え、ハルモニたちからのおみやげの菓子袋を抱えて一行はここで解散、それぞれの帰途についた。「さあ、ハルモニたちと共に第二次不二越訴訟だ。頑張るぞ、まけられないぞ!」という思いを胸に。