原告を訪ねて  729〜8・1

                        谷元絢子(福山)

 6月のある日、広島の土井さんからの電話で原告を訪ねての韓国への旅のおさそい…・仕事を調整すれば参加できなくもない。どうしよう  どうしたい…・ とにかくこの機会を大切に、もう一度韓国でハルモニたちに会ってみたい。話をききたい。そんな思いで皆さんに同行しました。

 初めての海からの釜山入り。ワァー 韓国だ。と思う間もなく、花房さんたちは鄭水蓮(チョン・スヨン)さんの家へ、塚本さん・土井さん・谷元は小さな韓式ホテルの一室で、朴Sunさんのお話を聞きました。

関釜裁判の中で彼女の陳述は聞いていましたが、直接細かな質問に答えてくれる朴さんはまるで別人のよう。身ぶり、手ぶり 当時つくった歌をまじえての話に、つらくてきびしい内容なのに、なぜか皆で笑いころげてしまいました。

 「イヤダ イヤダヨ 不二越は

 カミナリオヤジのいうことは

 聞いても しゃべるな ヨースルニ」

 13才の少女のころ、日本にいくこと

 そこにいったら おもしろいことがある

 自分の力で 金もかせげる 勉強もできる

 飛ぶような気持ちだったと ハルモニは語る

 「とやま くるとき うれしかった

 一夜 すごせば 悲しさよ

 いつ この工場 去れるでしょうか」

現実は くる日もくる日も わずかの食事と重労働。監視された暮らしの中でも 歌をつくり、気持ちをはらしていたハルモニ。
自分は若い頃から 歌をうたったり 人を笑わせることが大好きだった。そういうことを全部こわされてしまった。

…・・生きているうちに働いたお金を返してほしい…・・

スゴーク ストレートな 原告ハルモニの静かな叫び・・

 私は関釜裁判を支援する一人として、そのことに応えることができなかった。広島高裁であんな判決を迎えることになって、それでも 日本の裁判の現実はこんなものだと冷めた気持ちがあって…
ハルモニたちの 無念 くやしさ にどれだけ向きあえたか と今更のように思いました。
それから 光州、ナヌムの家、ソウル4人の原告の話をていねいに聞きながら 不二越訴訟のきびしさを考えました。

 日本の暑い夏の日常に戻り 突然のマゴとの同居のさわがしさの中 

自分ができることの あまりのわずかさに身がすくみます。

それでも 逃げない あきらめない道はどこかにあるはず。

それを戦争責任を問う闘いとして、仲間と共に さぐって いきたい。