成S(木浦市在住)さんの聞き取りのまとめ

私の家族は両親と四人兄姉で私は末っ子です。父は農業を営んでいました。長兄は結婚して光州で生活し、次兄は私たちと同居していました。姉は女性を供出する噂であわてて結婚していましたが、夫は「悪い人」でアルコール中毒で、姉に暴力を振るい、苦労しました。彼は昨年死亡しました。

募 集

 私たち家族が木浦から光州に引越して、私が瑞石国民学校四年生になった頃です。

オカという先生が「日本に行ったら女学校に通うことができ、お金もたくさん稼ぐことができ、結婚費用もできる」と言うので行くことを志望しました。父母は「転入したばかりなのに」と、驚いて必死で行くのに反対しましたが、先生との約束が全て良かったので行こうと堅く心を決めました。先生の言葉を信じたのです。

 それに姉の結婚生活を見ていて、働きながら勉強できるのは良いと思ったのです。

 出発、富山へ

 翌日、一月一五日の早朝、母に知られないよう家を出てオカ先生について行きました。その時の私の歳は十五歳で、何の分別もなかったのです。光州駅に十四人集まり光州部隊として出発しました。私はその十四人の班長という役割を自分に与えられたのを知りました。オカ先生については行きましたが分別がなかったので、全てのことがとても恐く、しろと言われるとおりにして釜山に到着し、船に乗って行った所が下関でそこでまた汽車にのりました。岡山から大阪を通り、このあたりは気候が暖かいなと思ったのを覚えています。その時、みかんを食べました。釜山では木浦、麗水、順天等からきた娘たち合わせて全部で一四四人になりました。

 富山に着いたら雪が降っていました。歓迎式があって、ブラスバンドで迎えられ、写真を撮りました。

寮に入りましたが、全国各所から六○○名の少女が動員されて来ていました。 

 

 富山での生活

寮では出身地別にされ、光州部隊の十四人は同じ部屋でした。部屋は十畳くらいで、頭を突き合わせて寝ました。その時訓練隊長が来ました。名前はスダという背の高い美人の女性の訓練隊長でした。訓練は普通、駆け足、整列などの体力訓練でした。

 朝五時頃に起床し(ラジオの音で起こされた)暗くなるまで働きました。当時食事があまりにも少なく、質が悪い食べ物でしたので非常なひもじさを経験しました。朝夕は麦中心の食事、昼は三角形のパンでした。

 仕事は旋盤工で、ハンドルが大きく、重たかったので、疲れ過ぎて腰が痛くて倒れたら、班長が来て私を叩きました。 私たちに対して教官たちが非常に残酷でとても恐く毎日泣いて過ごしました。そして泣いているのがわかるととても酷い罰を受け気合いを入れられました。

私は幼な心に疲れ耐えられなくなり、病気になりました。体の調子が悪いのに関わらず工場で鉄を削る仕事をするのは、幼い私たちには力に余る重労働でした。仕事をしている内に倒れた人たちがほとんど死にそうな状態でも仕事をさせて、死ねもせず仕事をしました。私も三回倒れたのでその時は病院に運ばれました。それで病院に二○日間入院しましたがその時の「疫病(腸チフス)」という名の病気の熱病で多くの人たちが入院し病院でもあまりに不充分な食事で食べられず、死んだ人も少なくありませんでした。入院中は梅干の入ったおかゆを食べました。

その中でそれでもオカさんという引率していった人が親切にしてくれて、その方に「オンマ、オンマ」と言いながらしがみついて泣いたりもよくしました。

全快しない状態で続けて工場で仕事をしたのですが、私はその時病気の後遺症で頭の毛が残らず抜けて、羞恥心で帽子をかぶって外に出ました。多くの人たちが頭髪が抜け、帽子や手拭いをかぶって歩いていました。そんな状態でもずっと旋盤で辛い仕事をしたのですが、一番耐えられなかったのが、仕事はきつく食べるものはあまりに不充分なためほとんど皆栄養失調の状態だったことです。その時の後遺症で私は今でも体が弱くいつも苦しんでいます。

それでも仕事を続けましたがある日突然、空襲だと布団を一枚ずつくれて、相当遠い田んぼのところで布団をかぶってうつ伏せになっていろと言われて身を伏せていました。 その時空を見ると、B二九という機が数十機空にいっぱいになり富山市に爆撃をしました。その時は夜の一二〜一時の間だったと思います。それで水がいっぱい張られた田んぼで伏せたまま夜を明かしました。

次の日隊長に起きろと言われて起き上がってみると、富山市は完全に火の海になって、空には飛行機がいっぱい飛んでいました。

再び引率されて寮に帰ると、死んだ人、死にかけている人が大半でした。それから寮に入ってみると、泣き声であふれていました。富山市は全体が廃土となり、私たちの工場だけが残っていました。警戒警報がたびたび出て一九四五年八月一三日から一四日がいちばんひどかったです。

帰 国

 そうした後八月一五日の解放になりました。だけど私たちには何も言ってくれず分からなかったのですが歩きまわっているうちに、日本人たちがラジオを聞いて泣いているのを見て、私たちも解放されたことを知ることができました。だけど解放になった後も私たちを帰してくれもせず、何の対策も立てない状態で私たちを放置したようにしているので、私たちは在日朝鮮人の家に物乞いをして、どうにか延命をしていました。とてもお腹がすいて人の庭から柿ひとつとって食べ、見つかってひどく殴られたりもしました。その時の苦労は考えるのも嫌です。

解放になった後二か月が過ぎてから、私たち一四○人は富山駅まで会社が送ってくれて、汽車に乗り、博多に行き、博多から船に乗せられ釜山に着きました。博多ではアメリカ軍に写真を撮られたことを覚えています。その写真(木村秀明氏編集の「進駐軍が写したフクオカ戦後写真集」のなかの「帰国を喜ぶ少女たち」―一九四五年十月十九日写)に私が写っているのを見つけました。全羅南道から役人が釜山に迎えに来ていて私たちを連れて行き、再び故郷に帰ることができました。両親はとても喜びましたが生活が苦しく、父は私が結婚した後亡くなりました。

 戦後の生活

 私は小学校で強制労働させられて勉強ができなかったので、就職口がありませんでした。一八歳で結婚し、一九歳で出産しましたが、二三歳の時夫は私が挺身隊員だったことを知り、「汚い女」と言い、近寄らなくなりました。挺身隊は「慰安婦」と思われていたのです。私が産んだ子ども四人と、夫が他の女性に産ませた子ども四人を自力で育てました。浄水機の会社や美容院の経営もしました。婦女会会長をしたこともあります。

 四二歳の時に夫から離婚を要求されましたが、あまりに腹が立って応じませんでした。今は一人でアパートに住んでいます。

少し仕事をして、不足分はソウルにいる息子が払っています。

 今の思い

 空襲のことは今でも思い出し、心臓がドキドキします。頭痛、心臓病、不眠症等の病気に加え、夫には殴られ、女性の問題もありよく泣きました。不眠症は今は治りました。

 私たちは何の補償も慰労の言葉ひとつ聞くことなく、今までその後遺症で健康を壊されたままで苦痛です。死ぬまでには被害を解決したいし、「恨(ハン)」を晴らしたいです。

どうか私たちの無念で苦しかった歳月を充分くみ取って補償してくれることを望むばかりです。