原告の思いを受け止めたい 中川美由紀 (不二越訴訟を支援する北陸連絡会)私は一○月一二日から一六日にかけて韓国に初めて訪れ、不二越第二次訴訟の訴状作成のための聞き取りを行った。一一名の元女子勤労挺身隊員と元徴用工一名の方から直に証言を聞くことができ、動員された経過や労働生活実態、そして家に戻る経過、その後の生活など不二越の強制連行・強制労働の全体像がさらに明らかとなり、あらためて怒りを感じた。
原告予定者が当時について一様に訴えているのは、労働が厳しく全く自由がなかったこと。とにかくひもじかったこと。病気やけがをしても治療をしてもらえなかった苦しさ。そして、空襲の恐怖である。富山では四五年の春ごろから空襲がひどくなり、八月一日に富山市内が全焼する大空襲があった。彼女たちは寮からふとんを持って田圃や川べりを逃げた。「町が真っ赤に燃えていた」。
昼夜をとわない空襲のあまりのつらさに「ここで死んでもいいから眠りたい」とまで思ったそうだ。その恐怖は今も蘇る。「今でも空襲の夢を見る」という方がほとんどだった。日本の戦局の悪化に伴い不二越への動員が強化された一九四五年の春の動員は、「クラスでくじ引きで決めて行かされた」「役所から指名された」と文字通り強制連行そのものだった。李Kさんもその一人だ。おじさんがすでに強制連行され行方不明になっていた中で指名を受け、「もうこの世の終わりと思った」そうだ。李Kさんは友人と一緒に不二越から一度逃げている。しかし、警察に見つかり殴られ、連れ戻されてしまった。彼女は当時流行ったという日本の歌を歌ってくれた。「後は頼むよあの娘へよ、これが最後の便り、今日もどこかでラッパの音」。
とても悲しい歌だった。命令に背けば死を意味し、生きて戻って来られないという悲しみの中で家族と別れた彼女らの苦しみは計り知れない。同時に、彼女らの背後には今証言することもできない数多くの方々がおられる。今でも不二越の社員手帳を持つ「Sさんは、熱病にかかり、入院もできずに九死に一生を得た。しかし「同じ学校から不二越に来た四人の友達のうちの一人は腸チフスで亡くなり、遺体を野原で薪を組んで焼き、花を添えました」と証言している。
生まれ育った故郷を遠く離れた日本で、病気で亡くなったり過酷な労働から逃亡したまま行方知れずになったきりの方々は一体どのくらいいるのだろうか。不二越から逃亡して捕まって軍隊慰安婦にさせられた姜徳景(カン・ドッキョン)さんについて、不二越は敗戦まで働いていたことにして厚生年金をかけたままにしていた。歴史の闇に葬り去ろうとしていた実態を明らかにしていかなくてはならない。 生き証人である彼女らの証言をもとに、不二越に強制連行された一六○○余名全員に対する謝罪と賠償を必ず行わせなければならないと思う。「私が生きているうちにきちんと謝ってほしい」。
七○歳を超えた原告予定者たちの切実な思いをしっかりと受けとめ、必ず勝利したい。