第二次提訴 新たな原告の皆さん
朴SUさん
〔女子勤労挺身隊・不二越富山工場〕
1930年生まれ。44年、晋州の吉野公立国民学校5年生の時に、担当の影山先生の勧めにより、勤労挺身隊に。工場の待遇も良く、学校にも行けると、成績の良い子を選んでいた。先生に可愛がられていたので、先生の言うことなら何でも聞いていたし、挺身隊は「愛国すること」と言われたので、行かなければと思った。
同じ学校から4人が行くことになり、学校に集まって晋州駅へ。駅には約50人が集まり、不二越から来た日本人の引率で釜山へ。すべて女性で、13、4歳〜22、3歳。連絡船で下関に行き、列車で富山へむかう。
不二越は鋼材工業(株)富山工場は、軍需大臣、海軍大臣の所管となる軍需会社。朴さんは身体が弱く、旋盤ができなかったので、箸のような金属棒を切るターレットという機械を担当。8時に始業し、夜まで働かされた。金属棒の切り屑が指に刺さり、2度手術した。
寄宿舎では、1部屋に10人同居。とにかく食事が足りず、家から送って来たきな粉で飢えをしのいだこともある。工場出口には憲兵がいて、病院に行く以外に外出はしていない。もちろん学校にも・・・。
空襲がひどくなり、45年7月に一時帰宅を許され、そのまま解放。
給料は不二越が貯金して、最後に通帳をもらう約束だったが、現在まで貰っていない。家から持っていった金も預けさせられたまま。結局は作業服と手拭いと下駄をもらっただけ。(第一次原告朴SOさん、柳Tさんと同じ職場)
李YOさん
姜YOさん
鄭水蓮(チョン・スヨン)さん
〔女子勤労挺身隊・東京麻糸沼津工場〕
李さんは1931年、姜さんは1930年、鄭さんは1931年生まれ。釜山の有楽国民学校6年の時(1944年4月)、担任の先生に勧められて動員された。同校からは5人。
李さんに勧めたのは担当の岡秀彦という先生。給料の良さと学校にも行けると言われた。姜さん、鄭さんに勧めたのは、斉藤シズエというやはり担任。勉強させてくれるし、待遇も良い。早く行った方がなお良いと勧められた。出発の日学校から引率され、州洞の旅館に一泊。それから連絡船へ。12〜20歳の女性約100人と一緒だった。下関から汽車で沼津市大岡村町の東京麻糸会社へ。飛行機の翼に使う麻糸を巻く仕事に従事。1人が3台機械を担当した。
寄宿舎は11人部屋。舎監は朝鮮人女性だった。高い塀に囲まれていた。李さんは日本人女性、天野さつ子さんという日本人の同僚に可愛がられ、家にも連れて行ってもらった。空腹、疲労、眠気、父母に会いたく、毎日泣きながら左のような数え歌を歌った。
一つとや
人も知らない静岡の、静岡の
麻糸会社は籠の鳥
二つとや
二親別れて来てからは、来てからは
二年満期は勤めましょう
三つとや皆さん私の事情を見て、事情を見て
憐れな女工さんと見ておくれ
四つとや夜は三時半に起こされて、起こされて
(不明)
五つとや
いつも見回り言うとおり、言うとおり
心棒遅れず綿をとれ
六つとや向こうに見えるは沼津駅、沼津駅
乗って行きたいふるさとへ
七つとや
長い間の散る涙、散る涙
流しているのは国のため
八つとや
山中育ちの私でも、私でも
会社の芋飯食い飽きた
九つとや
ここで私が死んだなら、死んだなら
さぞや二親なげくでしょう
十とや
とうとう二年の満期が来、満期が来
明日はうれしい汽車の窓
終戦後は、それぞれ釜山に戻ったが、賃金は一銭ももらっていない。工場長は貯金しておいて、帰るときに渡すといっていたが守られなかった。もちろん学校にも行っていないので、小学校も卒業しないままになってしまった。
李順徳(イ・スンドク)さん
〔上海で慰安婦〕
1918年生まれ。小作地もない貧しい農家に育ち、学校にもいけずに近所の手伝い仕事をしていた。
1937年の春、ヨモギを摘んでいると、3、40歳の男に「そんな事をしているよりも、自分について来れば、腹いっぱい食べれるし、靴も買ってやる」と誘われ、腕をつかまれて、どんどん引っぱっていかれた。
両親にも会えないまま裡里駅の旅館へ。どこに行って何をするのか話はなかった。そこには15人の若い女性が集められていて、李さんを連れて行った男はいなくなり、日本人の男9人が見張りをしていた。全員国防色の服を着ていた。翌日から3日間汽車に乗り、上海に連れて行かれた。そこからトラックで3時間ほど、日本軍の大きな部隊の駐屯地へ。部隊のはずれの小屋に1人ずつばらばらに入れられ、軍服と下着をあてがわれ、血液検査をさせられ、606号という匂いの強い注射をうたれた。
一週間後、指導軍人がやってきて「客を取れ」と言われた。そこで、初めて慰安婦をさせられることに気づいたが、その日のうちに15人の客の相手をさせられた。抵抗しようとしたが、起き上がると殴られ、蹴られるので、横になっていた。
相手は全て日本の軍人で、土、日には15〜20人の一般兵士、平日には1、2人の将校が来た。正月の1日だけが休み。給料はなく、たまに将校がチップをくれたが、「紹介人」と言われる日本人にとられた。そこの慰安所は朝鮮人のみで、日本人や中国人はいなかった。
よく殴られ、ある日は佐藤という将校の予約が入っている時間に、前の客が帰らず、佐藤から軍靴で腹を蹴られ、銃剣で背中を殴られた。腹は破れ、その跡は今もはっきりと残っている。
1945年8月15日まで慰安婦をさせられた。慰安婦をしていたことを隠して結婚したが、子供はできなかった。