懐かしさと悔しさを胸に抱えて  朴SO

 10月27日は夢でも忘れられなかった日本、そして昔の思い出と、行って見たかった「富山不二越」。10月27日、朝7時15分に汽車に乗って友達と一緒に昔話をしながら時間が経つのもわすれました。船乗り場に着いて船に乗ったら、昔13歳の時のことを思い出した。波が穏やかであることを祈った。幸い夜中にも波が穏やかで苦労はしなかった。 
 10月28日、下関で引率者と汽車に乗ったら、これから本当に富山不二越へ行くのだと私達は喜んだ。昔、不二越へ行くときには汽車の線路に日本人の男性が田んぼで働いている姿を見かけたが、時代が変わったせいなのか昔の姿は見えなかった。しばらく汽車に載っていたら、ここが日本の東京だというので、日本の天皇が住んでいるところはどこかと誰かに聞いたら、すぐ見えるところが天皇の住んでいるところだと教えてくれたので見てみると、写真で見ていた森の中のあの家が見えた。

 東京で降りて、不二越本社を訪ねたが、私たちを人間扱いもしなかったので宿舎に帰った。その次の日、富山の不二越の訪問に出かけた。私たち女子勤労艇身体出身の5、6人チマ・チョゴリを着ていたので、誰が見ても韓国人だと分かるのだろう。一緒に行った人達の中で、ここが昔私たちが苦労していた工場だと教えてくれた。私達はあまりにも嬉しくて会社の出入り口に行った。「不二越」はこんなに発展していたんだなと驚いた。
 しかしその瞬間、工場の正門には男性7、8人が私たちが来る事を知っていて警備をしていて、出入りを断った。力では到底相手にならなかった。社長の面会を叫びながら要求しても警備員たちはみんな口の利けない人達のようだった。私達も昔、あなたたち同じく、この工場のために働いていた人達なので、社長に会わせてほしいと叫んでも全員が口の利けない人のようだった。私達は力のない老人なので退くしかなかった。あまりにも情けなくて、この工場がこんなに立派に発展したのに、私たちが物乞いのように助けてほしいといっているわけでもないが、良心をだまして生きていけないだろうと、帰り道に体は満身創痍になり、悔しい思いばかりだった。

 汽車に乗っても、何を見ても、日本は経済が発展して、日本を見る私達の気持ちは名残惜しいだけでした。

 とりとめもない話が長くなりましたが、これで終わります。福岡の後援会の皆さんのご苦労と助けてくださっていることをソウルの朴SOが感謝申し上げます。皆様のご家庭が幸せでありますように。

翻訳 許明子