韓国訪問記

支援する会から、花房夫妻・三輪(直)・三輪(淳)の四人が、韓国に渡りました。

目的は、大きく三つあります。一つは、釜山にお住まいの原告たちに、今後の運動について報告すること。一つは、江原道遺族会会長の金景錫(キムギョンソク)さんを表敬訪問すること。彼は、富山の株式会社不二越を相手取って元女子勤労挺身隊員の最終解決に向けて闘いを準備しておられます。さらに、もう一つは、釜山の若い人たちと原告との交流を深めること。原告と、彼女たちへの支援を希望する若い人たちとの出会いが、今年の二月にありました。けれども、時間の都合などで、お互いにあまり交流できませんでした。今回は、その出会いをより深めていただくために、李昇勳(イスンフン)の協力を得て、皆で交流の機会を持つことにしました。

関釜裁判控訴審判決から三ヶ月あまり経ちます。判決で激しいショックを受けられ、具合の悪いお体で必死に抗議をされる原告の様子が、その後の定例会でも話されました。電話では、時々原告たちと連絡を取り合って、定例会で皆に伝えられます。けれども、電話ではなかなか分からない実際の原告の様子や健康を、みんなが心配していました。そして、直接お会いするために渡韓する企画が挙がりはじめていました。不二越のことも原告に報告しなければなりません。このようなわけで、今回の企画がなされました。

支援する会からは、花房俊雄さんが代表で、春川の金景錫さんを訪れる。また、原告の一人でソウルにお住まいの朴SOさんも、金景錫さんとの話し合いに参加されることになりました。そこで、花房俊雄さんと朴SOさんは、七月十六日に仁川で待ち合わせ、春川の金景錫さんの所へ行き、話し合い、その日に一泊して、翌日一七日に釜山に向かう。花房恵美子さん・尾関・三輪は、七月一七日に釜山に渡り、皆で、釜山の原告に会う。さらに十八日に、原告の中でも体調の悪い鄭水蓮(チョンスヨン)さんや柳Tさんのお見舞いをする。そうして、一九日に釜山から日本に向かって出発する。大まかには以上のような日程を組みました。釜山での待ち合わせがずれたり、時間が余ったり時間に追われたりしましたが、大体は予定通りの滞在日程でした。

姜YOさんは、皆の宿泊にご自分のお部屋を貸してくださり、食事の切り盛りまで中心的になさって下さいました。他の原告たちにも、何かと世話を焼いていただきました。通訳を引き受けてくださった李昇勳(イスンフン)さん・車を運転してくださった趙成鳳(?)さん他、韓国で私達のために時間を割き、細やかな気遣いをして下さった方々に、心から感謝いたします。

以下に、大体時間順に、花房恵美子さんと三輪(直)さんが報告いたします。内容の重なっている部分なども、基本的には元の文章そのままです。また、金景錫さんとの会見の様子や中身は、巻頭の花房俊雄さんの文章に入っています。

(三輪淳一)

韓 国 訪 問 記

               三輪直子
・・・十七日 みんなそろう                      

三輪(淳)・三輪(直)はカメリアに乗ってきたので釜山港には朝についた。国際市場やチャガルチ市場をぶらついて釜山港に戻り、二時半過ぎ、姜YOさんとお会いした。一時間も前にきて待っていてくださっていた。二月に会ったときより顔色も良く見えた。

柳Tさんはけがして入院している、李YOさんは息子の引越しで遅くなる・・・と姜YOさんから他の原告の情況をうかがいながら、恵美子さんの到着を待った。三時過ぎに、恵美子さんが到着し、タクシーで姜YOさんのアパートへ向かった。姜YOさんの部屋は二十階にあり、李YOさん・朴SUさんが、部屋の前の階段に座って待っていた。二人とも元気だった。二月に会ったときには特に朴SUさんが元気なかった。やせ細って具合が良くなく、食事すらつらそうで横になっていたりした。関釜の定例会に出ている人たちは皆朴SUさんの心配していた。赤と白の縦じまのシャツにスカーフ、スラックス姿の朴SUさんは部屋に入ると、今度はついこの間買ったという紺地に黄色の花柄のTシャツに着替えたりしてなんか華やいでいる。

皆で夕食を食べに近所のお店へ行き、海鮮うどんみたいなのを食べた。予定より3時間遅れて、俊雄さんと朴SOさん、今回すごくお世話になった李昇勲さん・今回も細かい気配りをしながら車の運転をしてくださった趙成鳳監督が到着した。

・・・一八日 留守番の様子

朝、六時半に朴SOさんに起こされる。えらく困ったような、心配そうな顔をされていたのは、嫁の私がなかなか起きて来ないので日本でのだらけた結婚生活が想像できたからかもしれない。

ばあちゃんたちはすでに全員起きて布団もたたみ終え、台所にたっている。俊雄さんと三輪は台所に来るとばあちゃんたちに追い払われるが、尾関は顔も洗わないうちから台所に引っ張られ、味噌汁も作れないことがばれる。(柳Tさんのお見舞いは恵美子さんの報告で。)

姜YOさん・李YOさん・花房夫妻が鄭水蓮さんのお見舞いに行き、朴SOさん・朴SUさん・三輪(淳)・三輪(直)は残った。三輪・尾関は思わず癖で、昼寝をする。困り顔の朴SOさんに起こされる。三輪、ハルモニたちに辛ラーメンを作ってもらうが、「あれだけじゃ足りないだろうから、つくってあげなさい。」といわれて尾関も作る。韓国に着いてからヨメが台所仕事するので三輪ちょっとびびる。

朴SOさんは今回春川にも行っているのでお疲れ気味だった。朴SUさんは二月お会いしたとき死ぬほど具合悪そうだったのがうそのように元気だった。朴SUさんは軍歌やなつメロをおどりながら歌い、一緒に騒ごうと朴SOさんを誘っていた。このとき、朴SUさんは一つか二つぐらいしか同じ曲は歌わず、あとは全部違う曲だった。レパートリーが広いというか、驚異的な記憶力というか。朴SOさんがソファに腰掛けたままでのってこないので、朴SUさんはけりいれるまねしたり、ちょっかいだしたりする。おおはしゃぎしていた朴SUさんだが、ふと涙ぐんだり、歌うのを止めてベランダの窓から空を見上げたりしていた。

 そして、こういう時でないと、思い切り歌ったり踊ったり出来ないじゃないのと、また朴SOさんにちょっかいした。



韓 国 訪 問 記

             花房恵美子

朴SUさんは、月二回大学病院の精神科に通院してカウンセリングを受けていて、見違えるほどの元気さでした。支援する会から毎月送られる医療費が身心の支えになっているそうです。

柳Tさんは七月はじめスーパーのドアの所で転んで、大たい骨にヒビが入って、入院しておられました。一番元気な人だったのに、寝たきりになったらどうしようと思ったりしましたが、三週間入院、三ヶ月リハビリで歩けるようになるとのことでした(八月六日退院されました)。お見舞いに病室に入っていくと最初に「面目ないです」と日本語で言われ,彼女の悔しさと恥ずかしさがこちらに伝わりました。

一緒にお見舞いに行ったSOさんが、「一緒に富山に行こうよ。早くよくなってよ」、 SUさんが、「わたしのことを死にそうだと言っていたら、自分がそうじゃないか」とからかい、Tさんは負けじと、「富山に行ってまで顔を隠すんじゃないよ。何のために行くのかわからないからね」と、やりかえしていました。

 十八日に未だ一度も来日されていない鄭水蓮さんに判決の報告に行きました。前日電話したとき「体のあちこちが痛くて、会いたくない」といわれていたのですが、同じ東京麻糸に動員された姜YOさんと李YOさんに相談して、「今会わないと二度と会えなくなるかも知れない。少人数で行こう」と四人(姜YOさんと李YOさんと花房二人)でタクシーを飛ばして行きました。彼女は末期ガンの苦しみのなかで、自宅で寝たきりになっておられました。伺うと時間をかけて自室から這って居間に出てこられました。話しているうちにしっかりした目になってこられ、「未だ聞く力が残っています」と裁判や企業闘争の見とおしを聞かれました。「解決するまで生きておれないかもしれない」と遠くを見ながら言われると、胸が締め付けられるようでした。

今回は姜YOさんの家に二晩も泊めていただいて、すっかり迷惑をかけてしまいました。「わがまま」ハルモニ三人と日本人四人…尾関さんがこき使われていました。

 毎回韓国に行く度に考えさせられますが,今回も感慨深かったです。特に帰国直前にあわただしく見た釜山市の民主公園にある「民主抗争記念館」にはカルチャーショックに近いものを覚えました。

モノトーンの闘争写真や参加者や死者の顔写真、多くの資料の最後に、突然ピンクの美しい花で描かれた“SOLIDARITY”何の花びらか聞くのを忘れましたが (紙で作られていたのかも)それは鮮烈な印象でした。

釜山で民主化闘争を闘った代表的な人々の中にチョウ監督の顔写真がありました。(ひぇーすごい人だったんだ!)

 他者との関係が作れず、心に闇をかかえる若者が増え、関係性がますます希薄になっていく日本の共同体と個人の現実を考えるにつけ、民衆の闘いの歴史を公的に残し、その最後のメッセージが「連帯」である釜山やその近郊の多くの人々の誇りをこの記念館に見ます。羨ましいです。

今度来るときは一日かけてゆっくり見てみたいものです。

(今回、テグの李昇勳さんには本当にお世話になりました。)


〜読んでみませんか〜

「忘れない勇気」 徳留絹枝著  

潮出版社  1997年

 原告たちが来日する、裁判を傍聴すると言う『軸』がなくなり、自分たちで戦後補償運動を組み立てていかねばならないと言う困難さに臨んで、私は私たちのこの運動にかける『思い』を今一歩深めて、普遍化していかないと運動は広がらないとの焦燥感に近い思いを抱いています。

「何故ハルモニたちを支援するのか」「どのような社会をめざすのか」「今がどのような時代なのかーナショナリズムとは何なのか」「戦争の記憶を戦争責任の記憶としていかに残すのか」…考えねばならないことは多いです。

 たまたま図書館でこの本を見つけて嬉しかったです。

著者は在米ジャーナリストで、一四人のホロコースト・サバイバーやホロコーストの歴史と教訓を伝える仕事をしている人をインタビューし、彼らを通してホロコーストの悲劇を学ぶ意味を思索しています。

著者徳留さんの豊かな感性によって、一四人の方々の「仕事」にかける「思い」がダイレクトにこちらの感性に伝わります。このインタビューを通して彼女の心が深く揺さぶられたことが伝わります。

「生き残ったことに意味があった」と証言するサバイバー、復讐よりも正義を取り戻さねば悲劇がまた起きると、ナチ・ハントを続けるサイモン.ヴィーゼンタール、オーストリアのリンツ教育大学で「ホロコーストの歴史の教え方」を講義しているナチ党員を父にもつ大学教授、ホロコースト後の時代をキリスト者として生きるというアイデンティティの危機を「いったいどうしてこのようなことが起こり得たのか」と問いつづけ、失った信用を回復するために努力する哲学者・ジョン・ロス教授。

読みながら日本でも「日本軍『慰安婦』・南京大虐殺の歴史の教え方」と言う講座があってもいいし、専門的に研究されるとどんなにか豊かな議論ができるのにと思いました。さらにジョン・ロス教授の思索には考えさせられました。読み直してまた泣きました。

次の二冊もいい本でした。

「戦争を記憶する」藤原帰一著 (講談社現代新書) 

「二一世紀の子どもたちにアウシュヴィッツをいかに教えるか?」

   ジャン・F・フォルジュ著 高橋武智訳 (作品社) 

             (花房恵美子)