広島高裁
「不当判決」を許さない!
最高裁へ上告
               松岡澄子
◆請求棄却
 戸外は、日本の春を象徴する満開の桜が美しさ、和やかさ、心の豊かさをも感じさせていた3月29日。広島高裁の法定内は「裁判官出てきなさい。自分の子どもが同じことをされたらどうするか」梁錦徳さんの第一声に続く原告たちの抗議の嵐が吹き荒れていた。判決に立ち会い、ハルモニたちを見守っていた私たちの心は凍てついた。
 請求は全て棄却。戦後補償裁判の中で唯一、一部認容の下関判決の灯は打ち消され、アジアの戦争被害者への謝罪と賠償は、司法に置いて全て、暗闇の中に葬り去られてしまった。
 98年4月の下関判決を受けて、原告、被告双方が控訴して始まった広島高裁控訴審は、第一回口頭弁論が99年2月23日に行われてから、9回の口頭弁論を重ねて3月29日の判決を迎えた。慰安婦裁判では、いずれも原告敗訴の在日、フィリピンに次ぐ3番目の高裁判決であり、3日前の26日には91年12月に提訴した韓国遺族会の第一号慰安婦裁判も請求棄却された直後の広島高裁での判決言い渡しだった。
 慰安婦問題といえども原告敗訴がうち続く厳しい状況の中で憲法をふまえた画期的な下関判決は裁判官の良心が最高裁判例を超えて立法不作為を認定したものであったが最高裁判例という絶対性のゆえに、広島高裁の判決は期待できるとは思えなかった。
しかし、下関判決がそうであったように、「奇跡」を期待し、世界的にも評価された画期的な下関判決を何とか維持してほしい、否、維持させねばならないという感情は必然であった。
 「わずか12歳の子どもが日本の国のために働いた金を払ってくれ」「慰安婦として日本軍人の性奴隷にされた人権侵害に対して謝罪と賠償をしてくれ」至極当たり前の請求を非情にも棄却された原告たちの落胆、怒りに接して「勝たなければならなかったのだ」と申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
◆司法への不信・抗議
 広島高裁には約250人の傍聴希望者が列を作った。立法不作為を勝ち得た関釜裁判への関心は高く、舞台を下関から広島へ移してからは広島、福山、県北の3つの連絡会も協力してくれて裾野が広がった故でもある。50人弱の傍聴者以外は、廊下ののぞき窓から法廷内の様子を窺ったり、裁判所正面で待機していた。そこに現れたのは「不当判決」の旗。一番出したくなかった旗である。法廷内の原告たちの抗議に連帯しようと、裁判所の廊下に支援者が駆けつけ、シュプレヒコールを挙げた。司法に対する抗議である。判決文を朗読して直ちに退廷した裁判官には、原告らの叫びは聞こえなかっただろうが屋内に響いたシュプレヒコールは聞こえたに違いない。
 川波利明裁判長は「戦後補償のあり方は、総合的政策判断で決まるもので、立法府の裁量にゆだねられている」と言った。司法とは一体何だろうか。裁判所の役割は?司法そのもの、そして反核・平和を訴える広島の裁判所に対する不信、抗議行動であった。 山本晴太弁護士は「日本の裁判所がいかに解決能力に欠けているのかということを世界に知らせた」とコメントし、李博盛弁護士も「日本の憲法は慰安婦らを救済しないと言い切った判決。補償の法律を作るかどうかは国会に任せきり。我々の訴えは裁判官の心に届かないのか」と強調した。
 神戸新聞は「広島高裁が違法性を唯一認め、国に賠償を命じた一審判決を取り消したことで、立法府に対する裁判所の消極姿勢をあらためて示したと言える。こうした消極司法が、戦争被害者らの救済の道を狭めることになるのは言うまでもなく、憲法の番人の役割を放棄したとの批判も出そうだ」と解説している。
◆日本の国の姿を反映
 下関判決が出された背景には、被害者のカムアウトにより韓国艇対協をはじめ、被害国の支援活動、日本での証言集会、国連人権委員会のクマラスワミ報告、マクドゥーガル報告があげられる。
 しかし新しい歴史教科書を作る会等、右派勢力のの台頭によって慰安婦問題の運動の波は押し戻され、昨年12月の「女性国際戦犯法廷」を日本のマスコミは報道規制した。今や外交問題になっている新しい歴史教科書を作る会の教科書の検定問題を見ても日本の右傾化は否めない。
 三権分立と言えども国の方向性と司法は一体であることを思い知らされた広島高裁判決であった。私は戦後補償問題に関わって、日本の国のあり方を強く考えさせられた。過去の歴史を直視する中で過ちを認め、未だ実現されてない戦後補償は過去の清算であると同時に未来を切り拓くのであると訴えていきたいと思う。日本が国際社会において「人道」「人権」において孤立しないためにも。
◆上告へ意志一致
 朴SOさんは判決後の抗議の時、緊張による過呼吸で倒れた。救急車を呼び病院での受診を促しても「自分は裁判所に行く」と主張する。心臓も悪く3年前、脳梗塞の既往症もあったのでお願いだからと病院へ行ってもらった。自分の体の具合よりも、報告集会への出席を選ぶ小得さんの裁判に賭ける執念を垣間見た思いだった。
 29日夜は広島で交流会に参加して、歌や踊りで恨を晴らし、翌日は太田川のリバークルーズを楽しみ、30日夜福山で報告集会と交流会を企画してくれた。解放会館の畳の部屋で枕を並べて寝ながら、「ここまで来たのだから最後まで闘おう」と最高裁上告の意志を確認しあった。顔を隠す仲間に意見する梁さん。その忠告に「悪かった」と謝るハルモニ。原告同士の絆の強さ、太さに感動した福山での滞在であった。原告が一堂に会するのは判決の時しかない。今後はこのようなスクラムの強化を図っていく必要を感じる。関釜裁判も終盤になって、このような交わりが出来たことは遅きに失した感はあるが萌芽を成長させていきたい。
 4月12日判決を不服として原告たちは最高裁に上告した。東京の最高裁に原告も支援者も行くことはなく書類で審理される。司法の限界を見せつけられた私たちは立法化運動に邁進して行かねばならない。勤労挺身隊ハルモニにとっては、企業交渉も課題だ。両方とも厚い壁、困難な状況であるが原告らの裁判に賭けた希望を断ち切られた涙の叫びを糧に共に歩んでいきたい。
 長い裁判支援をありがとうございました。今後もご協力よろしくお願いします。