原告意見陳述
失われた人生に謝罪を、そして補償を

河順女さん(ハ スンニョ)さん
私は今年で74歳になります。名前を河順女と申します。
19歳の時に、ある日本人の金儲けができるという話に乗せられて、終戦になるまで慰安婦をさせられて、終戦になって韓国に帰って来ました。
慰安婦の時に、軍人たちの相手を拒否したためにかなりひどく殴られました。今でも頭に傷があるし、雨の日は、今でも痛みます。
今、甥のもとに身を寄せ、部屋を借りていますが、余りに長い間、甥に世話をかけて、すまないと思っていますし、何とかお礼ができないかと思っています。
ひどく惨めな生活をしています。
裁判によって、失われた人生に対して是非補償をしてもらいたいという思いが、自分の生きていく上での力になっています。もし、失われた人生に補償ができるなら一日も早くしてほしい。
結婚もしていなくて、結婚など考えられもしなかったからです。子供もいない。若い時には、仕事もして食いつないでいたが、今は甥の所に身を寄せている。わたしがどんな気持ちで人生を過ごしてきたか、どうか察してください。
ほんとに、考えるごとにくやしい。
裁判は、生きている間に一日もはやく、ほんとのことを明らかにしてください。


朴頭理(パク トゥリ)さん
歳は71歳です。名前は朴頭理と申します。
若いときは、自分でかせいで食いつないできたが、年とって仕事もできずに、ソウルの「分かちあいの家」(ナヌメチップ)という収容所に世話になっています。ほかのおばあちゃんたちといっしょに。
「分かちあいの家」では部屋はあてがわれてるけど、心の触れ合いはまったくありません。耳が遠いせいか、みんなにばかにされて、いいようにこき使われています。毎日死ぬことばかり考えています。
今、何も特別にいい暮らしをしたいのではありません。はやく「分かちあいの家」を出て、小さくても自分の部屋を持って生活をしたいのです。それが望みで生きているのです。
「分かちあいの家」では、だれも自分の世話をしてくれる人もいないし、こき使われて、今の生活は苦しくて、さびしい。慰安婦の過去の生活よりも、今「分かちあいの家」の生活のほうが苦しいぐらいです。
「分かちあいの家」にいるかぎり、生きがいもないし、裁判へ出るために来るのが唯一の楽しみです。
慰安婦に連れられて行った時の生活は話にならないほどつらい生活だったが、戦後の今の生活はもっとつらい。絶望的な生活をしている。裁判が何年かかるか分からないが、生きている間、人間的な生活がしたい。
兄弟がいても、他人よりもっと冷たくて頼りになりません。今は「分かちあいの家」で命を長らえているだけです。
裁判のみが希望です。
慰安婦の時の生活は一年話しても話せないつらい生活でした。今はとても話せません。
慰安婦の生活の苦しさは話にならない。すきっ腹で、たたかれる、苦しい話はここで全部話すことはできません。

突然の発言
強制的に連れていかれた時のことをなぜ聞かないのか。日本人は。
17歳の時に韓国語で工場に行かないかと言われたが、日本人だった。
船酔いで一週間寝ていたら、慰安所に入れられた。
日本政府が一億の何十倍出しても、この苦しみは、終わらない。
ここにいる日本人たちが私をこういう目に合わせたのだと思える。ここにいる日本人たちを見ていると、またむごい目に合わせられると思ってしまう。

《原告の意見陳述が終わり、原告代理人李博盛弁護士の意見陳述がまさに始まろうとする時、原告席から朴頭理さんが突然大きな声で発言した。通訳がなかったので彼女が何を語ったのか理解できなかった。彼女は立ち上がり、弁護士席の並びの、彼女が意見陳述をした席に行って座った。補佐人のそして古くからの理解者である金文淑さんがあわててついて行き、側に座った。
朴頭理さんは被告席を睨みながら一気に語った。金文淑さんは必死に通訳をしていた。裁判長が「本人尋問で時間を取りますから」と再三言い、金文淑さんもそれを通訳していたようだが、朴頭理さんはすごい勢いで一気に語った。被告席の9人は一様に金属的な冷たい表情でこれを無視した。
傍聴席に緊張が走った。朴頭理さんは終始被告席を睨んでいたが、一度だけジロリと傍聴席に視線を回した。朴頭理さんが激しく責めた日本人とは被告席だけでなくあるいはむしろ自分のことなのだと、傍聴席は一瞬にして悟ったに違いない。
私はこの出来事に我を失って、発言を記録するという役割を十分に果たせなかった。反省しています。(編集・山本)》


朴SOさん
65歳です。朴SOといいます。14歳の時、学校の先生の強い勧めで、女子勤労挺身隊に志願する事になりました。それが、日本に対する忠誠だと教えられて、富山の不二越に行きました。
始めに、工場に行かされるときには、勉強もできる、つらかったら帰ってよい、という先生の言葉を信じて、何の疑いももちませんでした。
下関を通って、富山の工場に行ったら、天と地。考えもしなかった苦労が待ち受けていました。
14歳にしては背も小さかったので、機械に背が届かなくて、背伸びして仕事をしていたので、他の人より多くケガをしました。
朝早くから働いてつらい思いをしました。ごはんもろくに食べさせてくれなくて、いつもひもじい思いをしていました。それに給料は一文もくれませんでした。
勉強できることに望みをかけていましたが、仕事仕事で、勉強はぜんぜんできませんでした。
手の指が飛ぶ事故の時には、寒い富山の冬をつらい思いで過ごしました。
ただ、帰ること、お母さんの家で暖かいご飯を食べること、それだけがたったひとつの望みでした。
昨年、12月、下関に来たとき、下関の港に来てみました。14歳のおかっぱで来たここに、50年後、白髪のおばあちゃんになってもう一度来たのです。余りの悲しさに大声で泣きました。
すきっ腹と、苦しみ悲しみを今思い出します。幼い日々に富山の不二越工場で、つらい労働と日本人とは差別されて過ごしたことを思い出します。
一銭も払ってくれなかった報酬に対して、日本政府はなぜ一言も謝罪しないのか。くやしい。
4年生の時の担任の先生に、4月におめにかかれて、その時に本当にすまなかったと言ってくれて、空港で泣きました。その先生が証人です。生きた証人です。
労働の代価は支払ってほしい。


柳Tさん
名前は柳Tです。年齢66歳です。植民地時代に、日本の人が来て、面事務所(編注 村役場)の役人と来て、愛国するために工場で仕事をすればいいと言いました。家が貧しかったせいもありますが、その話に乗せられました。そのときは行き先もまったく知らず、愛国できるものと思って、ついて行きました。
不二越の工場に着いてみたら、日本の青年が旋盤を動かして働いていました。そこに13から14歳の少女を連れて行って、青年と仕事を交替して、その仕事を受け持ちました。
年端もいかない幼い少女だったから、機械にしがみついて、朝から晩まで働きましたが、ひもじさに泣き暮れていました。
不二越で働いているときには、女子勤労挺身隊の歌を歌ったりしました。
一番つらかったのは、余りのひもじさで、それで、草をとって食べて病気になった人もいました。空襲や激しい労働で気が狂った人もいましたが、ご飯が食べられなかったのが一番苦しかったのです。
激しい労働を、何も知らずに、愛国の労働と思い、当たり前と思っていました。
一年半働きましたが、一銭も給料をもらっていません。是非給料を支払ってもらいたい。
そのときの恐怖と苦しみは、今ここでは話したくない。
労働の代価としての賃金は是非、払ってもらいたい。



紹介 下関の運動
第一回口頭弁論の後、裁判所の近くの下関バプテスト協会で報告集会をもちました。この報告集会は下関の支援者の尽力によって実現したものです。どうもありがとうございました。裁判の地元、下関の人々への期待は今後ますます強くなっていくと思います。集会で下関の支援者を代表して大谷昇さんのあいさつがありましたので紹介します。[編集部]

ごあいさつ
この教会の壮年会の会長をやっています。大谷と申します。何としても、この問題に取り組まなくてはいけないと思ってやってきました。
やっと会場を確保でき、何とか報告集会もできました。駐車場も狭くてご迷惑をおかけしていると思いますが、今後ともご利用ください。私たちは毎月1回、公開懇談会という形で関釜裁判の支援に取り組んできました。これから更に訴状・裁判記録について別途学習会をもちテーマに加え、支援ニュース、呼びかけへの対応などの相談をしていきます。
組織的には、北九州や福岡の会にそれぞれに入っている者もおりますし、下関の会はつくらず、「有志の連絡」という形で取り組んで行くつもりです。
よろしくお願いします。