釜山便り その一
釜山挺身隊対策協議会会長金文淑(キム・ムンスク)
昨年一月宮沢総理来韓以来、軍隊「慰安婦」の問題は今までの隠された非公式の問題から一挙に韓日の熱い論議の焦点となって広がった。
91年10月から12月にかけて、釜山挺身隊対策協議会に申告してきた人は8名。うち釜山居住者が5名、慶尚北道が2名、全羅北道が1人。その中、4人が同年12月25日山口地裁下関支部に提訴した。軍隊「慰安婦」が2人と勤労挺身隊が2人である。
訴訟を起こすと一口に言うけれど、その間の努力と苦労は山また山の大仕事だった。まず、原告の「慰安婦」実態の聞き取りから始めたが、70歳すぎの彼女たちの記憶はすでに消えかかった「古いノート」であった。いや、そのおそろしい悪夢を隠すために無理に上塗りをしたメチャメチャの一枚の絵であった。何十回と見るも無残な部屋を訪ね一緒に泣き、一緒にののしりながらつなぎあわせた「慰安婦」の実態は私に、激しい義憤を起こさせ、そして彼女たちをいかなる難関があろうとも救済するべきだという責任を負わせた。
その間日本政府は都合のいいように態度を変え、言い訳を並べ責任のがれをした。韓国政府も目先だけの日本政府に対する責任追及に、国の体面をたて、問題の核心には無関心であった。
91年12月からソウルの太平洋戦争遺族会の謝罪訴訟が始められたのを契機に、訴訟問題を真剣に考え始めている光州の遺族会がソウルと別途に訴訟を進めていて、その弁護団が来韓するとの知らせを受け、弁護士たちに会いたいと申し入れた。その時が5月。その弁護士たちが今の訴訟代理人山本さん、山崎さんと李さんである。以後3回にわたって釜山での調査が行われた後、弁護士たちは訴訟を決定した。
世間に隠れて顔も出したがらないおばあちゃんたちを訴訟にまで持って行く過程には、ひとえに弁護士たちの熱意とあったかい心、そしてかげながら原告たちに勇気をあたえた、支援する会のみなさんの良心的支援がある。
原告たちはただただ裁判のよき結果を待って生きている。それが何年後になるか、生きているあいだに裁判が終わらないのじゃないかと不安がりながらも、裁判を生きがいにして生きている。
韓国の新しい大統領が決めた、住居賃貸費としての一時金500万ウォン(約70万円)、生活費としての月々15万ウォンはまだ支給されていない。首を長くして待っているが、彼女たちはもう闘う力も、心からの憎しみも失ってしまった。ただみじめないのちをながらえて恥をさらしている自分を情けなく思い、日々衰えゆく体力を悲しんでいる。せめて生きている時に日本政府の真実の謝罪を聞きたいと願っている。
河順女(ハ・スンニョ)ばあちゃん
この前の病気の後、歩くことが苦痛のようで、訪ねていった私にさかんに福岡の後援会様子や、裁判の先々のことを何回も何回も繰り返し聞いた。そして韓国政府は私が死んだ後、生活費をくれるつもりらしいと言いながら涙した。外出はほとんどせず、暗い部屋で寝ている。9月の裁判にはぜひ行きたいと繰り返した。そしてありがとうと何回も言った。
朴頭理(パク・トゥリ)ばあちゃん
ソウルの「わかちあいの家」に入居、毎水曜に日本大使館前のデモに参加している。政府から住居費が支給されたらすぐ釜山に帰って小さい部屋を借りて住みたいと願っている。ソウルの同居のおばあちゃんたちからこき使われていやだと不平言いながらも、釜山の生活があまりに苦しかったので多少顔色はよくなり、元気だった。9月の裁判にはぜひ出廷したいと今から首を長くして待っている。
朴SOばあちゃん
日本で恩師杉山トミ先生に会えたSOばあちゃんは今もまだ夢さめやらずで感慨にふけっているのか、電話でありがとうを繰り返している。釜山の女性団体からの生活費補助支給のとき、久しぶりに彼女たちの裁判の話に花を咲かせた。期待はしていないと言いながらも、やはりいい結果を心待ちにしている彼女たちがいじらしい。
柳Tばあちゃん
久しぶりに柳ばあちゃんから電話があった。裁判が東京でなく下関に決まった話と、今度の裁判は9月6日になったことなどを話した。健康はまあまあですと、元気な声だったが、やはり政府のやりかたはひどい、なぜ勤労挺身隊には全然配慮しないのかと憤慨していた。だから裁判で勝負しようと、慰めながらも、彼女たちの犠牲がかわいそうでたまらなかった。
ひとまず<釜山便り>を終わる。日本政府の態度はますます理解に苦しむ不可解そのものだから、おばあちゃんたちはいちずに裁判に希望をかけて生きている。
関釜裁判を支援する会の皆様も同情心からではなく、日本の良心としての正しい裁判への圧力として、支援してください。下関裁判に持ち込んだ後援会の皆様の声援に深く感謝している。おばあちゃんたちの限りない愛と感謝をお送りする。がんばろう。
1993年6月