梁錦徳さんの本人尋問を傍聴して
海江田美子
梁さんと私は年令も2つしか違わず梁さんは67才で私は65才(31年生)です。同じ名古屋の軍需工場で“働かされた”のでした。彼女は三菱航空機工場で挺身隊として、私は富士滑空機(グライダーと特攻機)でした。1944年、敗戦の前の年の9月、学徒動員令が下り学籍にあるものすべてが主に、軍需工場へ動員されたのでした。名古屋は航空機の40%を生産していました。丁度、梁さんが連れて来られた頃は、日本はすでに敗戦の色濃く、サイパン、テンアンが落ち、そこを連合軍は基地として爆撃機B29が連日のように来襲し(昼も夜も)市民は疲労と睡眠不足と食糧不足と空襲におびえ、悲惨な日々を送っていました。
そして、1944年12月7日名古屋を中心として近畿、東海地方は熊野灘を震源とする震度7級の巨大地震の「おまけ」までこうむったのでした。名古屋の軍需工場地帯は大打撃を受け、死者998人、2万3千戸が全壊し東海道線は天竜川の鉄橋が落ちて静岡―豊橋間は不通となりました。
梁さんのクラスメートが2人死亡。併し当時は報道統制に依って愛知、三重、東海地方の住人しか災害の大きさを知らせなかった。軍需工場の被害を隠蔽する意図だった。(自治省 昭和54年調)
わずかそれから1週間後、12月13日、三菱重工業が爆撃され地獄であったとのこと。名古屋は敗戦までに被爆38回、飛行機1973機、死者8152名(米戦略爆撃調査団調)、この様な情況の中で親から離れ、空腹に耐え、民族差別に耐え、食糧をつまもうとして半島人と云われ暴力まで受けた心境は如何ばかりであったことか、私には工場から帰れば親がなぐさめの言葉をかけてくれお芋の一片もも又白湯も口にすることができました。心身深い傷を背負って帰国した後は、挺身隊イコール「慰安婦」の目で見られ結婚もおくれたとのこと、国家の謝罪や働いた給料が補償されたとしても深くつもった「恨」はいやされないと感じます。裁判の前日、花房さん宅で梁さんのとなりに座って私は同じ名古屋の工場で働いていたこと、空腹だったこと等を話したら梁さんは「貴女は私の思いを知り、理解してくれる人だ。うれしい。」と手を握ってくれました。「併し、私には100%はわからないと思います」と申し上げましたが、余りにも重い証言を傍聴して改めて日本人として加害の側に立つ者と被害者側との大きなへだたりを感じずにはいられませんでした。傍聴して実感としてつくづく思ったことは連日の空襲の恐怖よりも空腹に耐えることのつらさの方が苦しかったと証言された。私は戦後の空腹の方がつらかった。母と畑でおぼろ月夜の晩、人参を“ドロボウ”したり、農家の庭先でお芋を求めて着物と交換してくれるまで立ちつくしました。
話は前後しますが憲兵政治と云われていた程に憲兵の存在は大きいものでした。梁さんの学校に来て「女学校に入れる」と云ったそうですが、もう日本は勉強どころではなかったのです。国の存亡をかけて航空機(欠陥飛行機)の生産に名古屋は狂気がくりひろげられていたのです。「給料も来月あげる」とだまして約束をほごにしたことは憲兵も校長も国家も詐欺罪として成立するのです。梁さんが連れて来られた1944年は小学校(六大都市、東京・名古屋・大阪・横浜・京都・神戸)は学校は閉鎖になり当時の政府は空襲されている地域は学童疎開をすすめていたのです。その様な状況にある時にたくさんのうそをついて「連行」して来たこと、又親から印鑑をもらって来る様にと6年生の子供に云ったことは本人が認めたことにならないと思う。こうして書いているうちに50年前の光景がよみがえってきた。空襲警報のサイレン、真紅な炎・・・等20年3月12日の大空襲で九死に一生を得て、そして疎開にも動員にも行かなかったので何時憲兵が私をつれに来るかとおびえてた日々・・・。教師であった父が村の青年に南瓜ドロボーとされたこと、20年5月14日名古屋が焼土と化した一番大きかった470機の来襲の時にも梁さんは疎開も許されずに体験されたのですね。ごめんなさい、梁さん。その日私は岐阜県の野原で野草を摘んでいたのでした。次々と当時のことがうかんできてもうこれ以上は書くことはできません。字がかすんでしまって・・・。