第4回アジア女性連帯会議に参加して
森永希(大学生)

マニラにて
フィリピン 大韓民国 インドネシア 台湾 日本 各国の被害者・支援者約200名参加

プログラム
3月28日 午前 各国支援団体の報告 午後 各国被害者代表の証言 夜 各国の文化披露
3月29日 午前 決議文採択 午後 日本大使館前にて抗議集会 夜 さよならパーティー
3月30日 昼 グループごとのフィールドトリップ 夜 マリア・ロサ・ヘンソンさんの出版記念会

 私は、今回右記の要領で開催された第4回アジア女性連帯会議に参加してきました。
 九州からの参加者3名(森川万智子、獄本秀子、森永希)は飛行便の都合のため26日夜にフィリピンに着きました。暑い気候。「あぁ、本当にとうとう来たぞ。」という気持ちで、ホテルへ。他の参加者が集まるまで、この夜と27日の昼はマニラの街をぶらぶらしました。治安が悪いということでしたが、なかなか優しい叔父ちゃん・叔母ちゃんたちに接して、おいしい焼鳥などを食べながらぶらぶらと。しかし必死に観光客について来る子供や観光馬車の兄ちゃんたち。万引。おおっぴらな買春。「日本とは違う。」ちょっと緊張、そしてちょっと解放感に浸りながら27日夜まで過ごしました。
 27日夜、歓迎パーティー。ロラ・パウラの孫が10才ぐらいでしたが、プロの歌手らしく、歌を披露してくれました。

 28日午前、さあ、本番です。開会宣言に続いて韓国・台湾・日本・インドネシア・フィリピンの順に各国の報告がありました。
 印象に残った報告として、インドネシアからは、初め国内で権力者により押さえられてきた被害者たちであったが、いま世論が形成されつつあるということ。フィリピンからは現在の買売春問題・海外花嫁問題などについて、その問題を引き起こしている根本の問題(性差別・南北構造など)は変わっていないということ、今なお苦しみは続いており、また生産されている。このように報告がありました。
 「各国色々な立場があるなー」と思いましたが、共通していることは、政府や強国の立場によって民衆、特に女性が抑圧されているということでした。それは“性の利用”であったり、“女性らしい行動を求める社会規範”であったり、“利潤追求を第一とする社会システム”であると思います。

 28日午後、各国の被害者の証言。特に印象に残ったことは、台湾からの被害者が証言の途中(戦地に出発するというところで)泣き出して証言を続けられなくなったことでした。被害者の痛みは続いているのだと思い出しました。
 証言を聞くたびに私は泣きたくなります。それは自分自身の今までの生き方と共通するものを見せられて辛いからです。女性として教育されること(家事の強要・勉強の無強要)を当たり前と思っていました。性的なことを恥ずかしいものと思っていました。今でも日本軍性的奴隷の根本となった原因は変わっていないと再確認するからでもあります。
 また証言の後にディスカッションがありましたが、私の感想として日本からの、証言とは関係の無い活動アピールが多かったように思います。証言から話が始まらないことにがっかりしました。

 28日夜、各国文化交流です。まず、韓国からプロによるサムルノリ(農楽)が披露され、いつの間にかみんなで“珍島アリラン”でのダンスパーティーとなっていました。次にフィリピンからロラたちのソシアルダンスとフィリピンの伝統的なダンスが披露されました。これはリハビリの一種として毎週土曜日練習しているものであるということでした。ロラたちの表情やダンスの様子がおもしろくて私はゲラゲラ笑ってしまいました。真ん中にスカーフをおいてそこにお金を投げ入れるのがフィリピンのやり方だと聞いて、みんなたくさんのお金を投げ入れていました。
 その後日本から、みんなで、“花”(嘉納昌吉)という歌をうたいながら、おばあちゃんたちに花をくばりました。いつものことながら「日本は伝統的な文化がないなー」と思いました。民衆の伝統的文化を掘り起こして、復活させることも必要だと思っています。その後台湾から歌が披露されました。男性が一人で歌って他の被害者や若い女性の学生は後ろで立っているだけでした。ちょっとがっかりしました。いまから名乗りをあげる被害者たちのためにも、女性の生きかたのためにも、リハビリをいうか彼女達が前に出ることに躊躇しないようにお互いに頑張るということはとても大切なことだと思いました。
 それからどういう訳かダンスパーティーとなり、みんな疲れ切るまで踊りまくっているようでした。(少なくとも私はくたくたになるまで踊りました。)初めに支援者たちが抜け、おばあちゃんたちが抜け、最後まで若い人達が一緒に踊りました。私は何か感動して、そしてとってもすっきりしました。

 29日午前、決議文と行動計画の採択でした。私はここでは、会議に対する不慣れさと緊張のためオブザーバーのような参加しかできませんでした。

 29日午後、日本大使館前でのデモ。私はこのデモの準備から、わくわくしていました。みんなで風船をふくらませたりした準備しました。デモも踊りや歌があってとてもおもしろくて、また私は踊ってしまいました。何故あんなに楽しかったのかと考えてみると、まず風船・踊り・歌など楽しい要素が揃っていたからということ、“フィリピンで行う”という解放感があったからだと思います。
 日本でたまに参加している“デモ”が嫌いな私にとっては、「何かほかのアピールも考えよう」というきっかけとなりました。

 29日夜、さよならパーティー。ここではまた歌ありダンスありのレストランに行きました。そこで私は、またまた前で踊って楽しい時間を過ごさせてもらいました。(テレサ・テンの“つぐない”を歌わされたときには閉口しましたが・・・)しかし、一つのハプニングがあったのです。ショーの途中で軍隊マーチとゲイを扱うものがあったのです。一部の参加者は怒り、一部は何も言えなくなり・・・という状況でした。ショーをする彼ら・彼女らに特に問題があるのではありません。それを見にきて楽しむ観光客(特に日本人)に問題があるのです。日常の生活にはまだ謝った認識がたくさん残っています。“活動”はまだ日常と一致していません。それをやって行くことの難しさと、自分自身が日常に根差してやって行くことが問われているということを再認識しました。

 30日はフィールドトリップでした。私達のグループはロラの家とサンチャゴ要塞に行きました。ロラの家にはロラたちの作ったパッチワークがたくさんかけてありました。それらは戦争の記憶に基づくものです。またロラたちがおいしいお菓子を作ってくれました。色々と話しながら、痛みを背負わされている人がいるのだということがひしひしと伝わってきました。
 サンチャゴ要塞ではほとんど日帝支配を扱ったものはありません。気を付けて見れば何かあるというだけです。(収容所や銃弾跡や水攻めした牢など)しかしほとんど説明書はありません。ひっそりと慰霊のための十字架と追悼文がありました。被害国で歴史を伝えて行くのも難しいことなのかと思いました。

 そうして30日夜、マリア・ロサ・ヘンソンさんの出版会に行きました。ここで感動したのは、若い女性がその本の中の戦後の自伝を読みながら涙を流していたことです。被害者にとってもうひとつ辛かったのは、戦後の生き方です。このことは今生きる女性たちの経験とも大きく重なる事だと思います。
 その出版会の帰り、ロラ・ワニータが私の手を握り、「I miss you(あなたがいなくなるととても寂しい)」をずっと言い続けていました。私はこのロラのために、早くこの問題に誠実な補償が必要だと思い、そのための活動をしようと心に誓いました。
 そういう特別な経験をして31日に福岡に帰ってきました。

 さて、私がこうして“慰安婦問題”について考え、行動するのは、彼女達の痛みが女性として共感でき、それを和らげたいと思うことが一つ。そして自分が自分の夢に沿って生きて行くためにも、日常の生活をするためにも、“性差別”ということが大きくのしかかって来るからです。その性差別の根本の原因が特にこの「慰安婦問題」を通して私には浮き彫りにされ、迫ってくるのです。私が私らしく生きていくためには、この問題を考えなければ生きて行けないのです。そしてその原因に至る認識を何か少しでも変えて生きたいのです。私はフィリピンで特別な経験をしてきました。絶対に日本では出来ない経験です。何故でしょうか。それは、日本ではこの問題が浮き彫りにされておらず、色々な言葉で隠され、また私が日常とは一歩離れたところでこの問題を考えているからです。友達ともいまだにこの“問題”を気軽にはなすことができません。
 フィリピンでの経験、そして日本軍性的奴隷が日常とは離れてしまわないために、私は今からも多くの人に語って行きたいと思います。ずっとこのことにこだわっていますが、この自分の気持ちを理解してもらえるように人と話すことが一番努力がいることだと私は思います。

 最後に募金をしていただいた皆様、相談に乗ってくれた人達、私を支えてくれた多くの人々にお礼を申し上げます。