映画「ナヌムの家」を見て
熊本大学YMCA花陵会
赤ゴリラ(千々石春平)

 何か気になる映画だった。
 僕は普段ほとんど映画を見ない。たまに見る映画は、僕に違った世界を体験させてくれる。でも、すごく心に残る、と言うことはあまりない。何故ならそれは現実ではないからだ。しかし、「ナヌムの家」は何故かそうはならない。結局入場料を払ってみたのは今回が3回目になった。映画の内容としては、日本大使館での水曜デモ、中国に残っているハルモニたちの訪問、ハルモニのつぶやき、挺対協の人たちとの忘年会、そしてあるハルモニの裸像等で、その全般でハルモニたちが“正にそこにいる”“生きている”と感じさせる映画だった。
 以前の2回はソウルで見た。向こうの学校でこの映画を知っている人がいて、僕も「従軍慰安婦」問題に少し関心があったからだ。2回が2回とも余り言葉がわからない状態で見た。でも、映画の中のハルモニたちがナマの個人として僕の中に入ってくるような不思議な気持ちになった。
 それ以来、気になって来たことがある。それは僕自身が彼女達自身を見ようとしてきたかということだ。それは同時に、彼女達を通して、自分を見ようとしてきたか、と言うことでもある。自分の中でどこか彼女達を「元従軍慰安婦」という枠にはめて自分自身から切り離してこなかったか。果てしなく人間臭い彼女達個人が吐き出す叫びに自分自身の叫びを共鳴させてきたのだろうか。彼女達は「元従軍慰安婦」という人間ではなく、「慰安婦」にさせられたカン・ドッキョンさんでありキム・スンドクさんなのだ。そして僕が感じるべき叫びは、彼女達が戦争という大義名分の中で切り捨てられ、否定されてきた「総合的な個人の尊厳の回復」ということであり、それは、歴史、性、ことなるものとのつながり、個性というものを切り捨てていく今の社会の中で生きている僕が、関係の中で自分を見、切り捨ててきたものを取り戻して行きたい、もっと自分っぽく生きたいと思うとき、共感するものではないか。
 そして、そうしたときに、彼女達と僕とが取り込まれている「従軍慰安婦」問題から目をそらすことは出来ないのではないかと思う。
 とにかく、気になる映画だった。