原告滞在記
花房恵美子
10月22日午後1時三〇分福岡空港に迎える。手すりにつかまりながら辛そうに歩いてくる朴頭理(パクトゥリ)さんの姿を想像していたのに、意外にも背筋を伸ばし、スタスタと、歩いてこられる。あんなにも具合悪そうだったのにと同行した朴海淑(パク ヘスク)さんに聞くと、日本の裁判に出ることが決まって頑張ったとのこと。医者にも行ったし、栄養注射も打って迷惑をかけないよう健康管理したとのことでした。裁判に出てもたうことは、彼女に無理を強いているのではないかと心配していましたが、生きる支えになっているということを聞いて本当にうてしかった。
23日下関裁判所で朴頭理さんの堂々とした発言と態度。場内の緊張感、すすり泣きの声、そしてなりやまぬ拍手。・・・・・・関釜裁判裁判を支援して3年間、この裁判を支援してきてよかったと心から思った。
「顔も同じ、街並みも同じ。なのにどうして言葉が通じないのか」海淑さんがいなくては、意思疎通のできない朴頭理さんの嘆きに、覚えるよりこぼれるほうが多い粗雑な自分の頭に嫌気がさしてハングルの勉強を放棄したことを悔いた。
大役の本人尋問が終わり、福岡に帰って食事をして、すぐ横になった朴頭理さんはピクリともしないで熟睡していた。窓枠の所に足をかけてほぼ垂直に近い形で寝ておられたのですが、彼女の寝顔は安らかでした。(彼女は足が痛くて、サロンパスをはり、足を上にあげて寝ています。)
戦後責任を問う活動をさせて頂いているとプレゼントのように素晴らしい人達に出会う。その一人が今回の朴頭理さんの通訳兼付添いとして同行来日された朴海淑さんです。彼女は弁護士達が光州千人訴訟の為の聞きとりの時通訳をしてもらった人で、ソウルでの朴頭理さんとの本人尋問の打ち合わせの時もお願いしました。朴頭理は彼女にすっかりうちとけて、子供のように甘えていました。何者にも縛られない感性を磨きながら、自分の意見をしっかり持っている。その為の勉強をし、決して対立を恐れない。そしてヒューマン。15才も年下の朴海淑さんは私にはまぶしかった。