原告たちと向き合って十年 〜関釜裁判を支援して

          戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会事務局長 花房俊雄


◆釜山の被害者たちが下関で裁判を起こす

 今から十年前のクリスマスの日に、四人のハルモニが玄海灘を関釜連絡船で渡って下関に来た。釜山に事務所を置く挺身隊問題対策釜山協議会に申告した元日本軍「慰安婦」二人と元女子勤労挺身隊員二人が日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地裁下関支部に提訴したのである。主として福岡在住の三人の弁護士が弁護にあたった。翌日,支援する会結成の準備を進めていた福岡に原告を迎えて歓迎会を持った。会員が持ち寄った手料理でもてなすその席で、元「慰安婦」原告の朴頭理(パク・トゥリ)さんがさめざめと泣き出して座は静まった。わけを訪ねると、「日本人はみな鬼だと思って生きてきた。何故こんな優しい日本人がいるのだ。私はわけがわからなくなった」と通訳が伝えた。前日の記者会見の席で、手で顔を覆い小さく硬く縮まっていた朴頭理さん,彼女の心が少し溶けはじめていた。「この裁判は負けるわけにはいかない。原告の思いをなんとしてでも実現したい」との思いが突き上げてきた。

  最高裁の縛りがきつい東京地裁をさけ、強制連行の犯行地である下関であえて起こした裁判に対し、国は東京地裁への移送を申し込んできた。移送阻止の署名を全国に発信し,一ヵ月にも満たない期間に集まった1万名以上の署名を提出し国に移送を断念させると共に、裁判支援の裾野が全国に広がって行った。その後二次,三次の追加提訴があり、元「慰安婦」三人、元女子勤労挺身隊七人の十名が原告となった。

  挺身隊とは戦争末期の一九四四年、挺身令に基づいて、日本の軍需工場に動員された植民地朝鮮の小学生や卒業生ら十二〜十五歳の少女たちである。小学校の日本人教師や行政の下級官吏が「女学校に通える」、「金を稼いで故郷に錦を飾れる」と甘言を用いて貧しい向学心に富む少女たちを「志願」させた。皇民化教育の優等生であった少女たちにとって「帝国日本の愛国の為に働け」という勧誘を断ることも困難であった。原告たちの動員先は不二越富山工場、三菱名古屋飛行機製作工場、東京麻糸沼津工場で海軍の飛行機の部品製造工場であった。工場では軍隊式の寄宿舎生活の中で粗末な食事で空腹に苦しみながら、戦地に赴いた日本人成人男子労働者の後釜に据えられ、過酷で危険な労働を強いられた。しかも、同世代の日本人子女が空襲を避けるため疎開していたのとは正反対に、空襲の標的である軍需工場とそれに隣接する寮に終始囚われ、連日の空襲の恐怖に苛まされた。原告・朴Sさんは空襲の恐怖によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)で終生深刻な不眠症にとりつかれている。原告たちは皆、女学校への進学は反故にされ、賃金も未払いのままである。

  日本の敗戦による解放後も彼女たちに、自由は訪れなかった。戦後の韓国社会では挺身隊=「慰安婦」とみなされた。(太平洋戦争が始まった一九四一年頃から強制連行された朝鮮人男性の穴埋めに女学生たちが挺身隊として組織され、朝鮮内の農村や工場に動員が始まり,一九四四年の挺身令前後から日本の軍需工場への動員も始まった。当時の朝鮮では挺身隊は「処女供出」とのうわさが飛び交い、「慰安婦」と混同されたまま民族の記憶として戦後に引き継がれた。「慰安婦」問題に取り組む韓国の支援団体が挺身隊問題対策協議会と名乗る所以がここにある。)挺身隊であったことを隠して結婚したが、夫に知れると「おまえは汚い女だ。だまされていた」と離縁されたり、家庭内離婚状態になり,子どもからさえ蔑視されるなどの不遇と孤独を抱えて生きてきた元挺身隊員も少なくない。


◆戦後責任を問う・関釜裁判

  現在八件の「慰安婦」裁判が行われている。その多くが請求の主たる法的根拠を国際条約においているのに比して、関釜裁判は憲法九条と前文を主たる法的根拠に据えている点に特徴がある。戦前に犯した被害はもちろん問題だが、平和と人権を根幹的価値においている戦後の日本国憲法の下で,半世紀にわたって被害を放置してきた国の戦後責任がより問題であるという認識に立っている。この問題意識は、天皇主権から、国民主権に転換した戦後日本国憲法下での私たち国民の戦後責任をも又厳しく問いかけている。

  憲法九条は自衛の戦争を含め、国の交戦権を放棄し、軍隊による国家の安全保持の「不作為」を宣言した。一方、憲法前文で国家としての安全と存続を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」する決意をした。すなわち、植民地支配と侵略戦争の被害者である周辺諸国民との間に公正と信義に基づいた戦後補償の実現=信頼関係の構築を通して国家の安全保持の「作為」を命じている。として、公式謝罪と国家賠償法の類推適用による原告たちの尊厳の回復を求めた。

  しかし日本国の周辺諸国民への戦後補償は極めて不公正で,かつ不誠実であった。二国間の戦後処理の多くは相手国である軍事独裁国家の窮地につけ込み、真相究明・謝罪・賠償を不問に付し、「経済協力」方式で処理する極めて不誠実なものであった。一方戦争被害者個人に対しては、立法府は戦争の加害者である国内の軍人・軍属とりわけ高級将校に手厚く、植民地被害者等を国籍で排除するきわめて不公正な戦争犠牲者援護立法を作ってきた。故意に戦後長きにわたって植民地の戦争被害者を放置してきた立法府の不法責任を問い、予備的請求として立法不作為に基づく公式謝罪と国家賠償法の適用を求めたのである。

  裁判の度に原告たちは法廷に立ち意見陳述や本人尋問で、戦前戦後の辛い過去を証言し、日本国への怒りを吐き出していった。上海の軍直属の慰安所で七年間の性奴隷を強いられた李順徳(イ・スンドク)さんは、本人尋問に答える中でフラッシュバックに襲われ二度も失神しながら壮絶な証言を成し遂げた。裁判を重ね,証言を深める中で原告たちの顔は誇りとやわらかな表情を取り戻していくのが感じられた。

◆「女性のためのアジア平和国民基金」との闘い

  九四年八月村山内閣は「慰安婦」問題の解決として「民間基金構想」を打ち出してきた。従来自民党政権が主張してきた「二国間条約で法的に決着済み」として国による個人補償を否定し,「補償に代わる措置」の具体案であった。被害者や国内外の支援団体と共に「国家による公式謝罪と個人補償」を求めてきた社会党の委員長は政権につくや態度を豹変したのである。九月の本人尋問の打ち合わせに来ていた原告の李順徳さんはこの報に接するや,身体を震わせて怒った。私たちの前ではそれまで話さなかった日本語で「おらは乞食ではないよ。あっちこっちから集めた同情の金は要らない。国の人がちゃんとおらの前に来て謝って、金を出せば喜んでもらうよ」と一気にまくしたてた。翌日福岡で記者会見を行い「民間基金構想」の批判と撤回を求めた。その後宿舎に戻った李順徳さんは「日本の国は早くカネを出して欲しいよ。おらが死んでからでは何にもならない。」と不安げに話した。

  しかし、支援する会で「民間基金構想」反対で意思一致するのは簡単ではなかった。民間基金構想が国家の責任を免罪するものであること、被害者の誇りの回復にならないこと、そしてなによりも被害者や被害国の支援団体がこぞって反対している事実があることは共通認識であった。にもかかわらず、この構想を潰して被害者が生きているうちに解決することができるであろうか。「慰安婦」原告の一人は病院にかかるお金さえなくて,支援する会が医療カンパを続けていた。裁判が始まる時弁護士からは「今の司法の現状で,裁判で勝つ事はきわめて困難です。裁判を通して世論を広げ,謝罪賠償立法を作る努力をしてください」と言われていた。社会党が政権に入ってさえ,国家補償が困難なのに,立法解決など可能だろうか?深刻な議論が続く中で、原告や韓国の支援団体の怒りの背景に思いをめぐらしていった。元「慰安婦」たちは日本軍によって性と人格を蹂躙されたばかりか、戦後も「汚れた女」として社会的差別の中で苦しんできた。元「慰安婦」原告三人のうち河Sさんは結婚を断念し、李順徳さんは七年間の「慰安婦」生活で子どもが産めない体になり離縁され、朴頭理さんは結婚して子どもをもうけたが家庭は崩壊していた。原告たちが我が家に泊まって、くつろいだ時ふと漏らす、「戦争中は辛かったよ。しかし戦後はもっと辛かったよ」と。そして原告たちの尊厳の回復を希求する思いの深さをわたしたちは法廷で目の当たりにしていた。

  一方韓国社会は朴軍事政権下で結ばれた日韓条約で、日本政府が植民地支配の被害に対する真相究明も謝罪も賠償も拒否し、経済協力方式で解決を強要したことへの屈辱感が残存している。民間基金構想は「責任をとらないでカネだけで解決をしようとする日本」として民族的屈辱を再燃させていた。長い討論の末、わたしたちは、「民間基金は被害者の誇りを回復させないどころか,受け取ったら地域社会から非難されかねない。」と判断し反対していくことを決意した。

  十月十六日,東京で「慰安婦」問題に取り組む市民団体が集まり「民間基金構想」の検討会議が開かれた。参加した私は反対を表明し,「支援団体が全て反対したら民間基金構想を潰せる。潰して,あくまで国家補償の実現に取り組もう。長引くようなら、純粋に民間だけで被害者への医療カンパに取り組みながら、国家補償の要求を続けよう」と提案したが、一部支援団体や労組中央,そして学者たちが基金推進に廻り,多くの市民団体は態度を決めかねていた。福岡に帰って東京の事情を伝え,このままでは国家による謝罪と補償を求める国内の運動が壊滅しかねない危惧を抱き、意見広告を出すことにした。関釜裁判を支援する会単独で六百万円の資金を集め,東京の戦後補償国際キャンペーンのメンバーの協力で十一月末、毎日新聞の全国紙に十段で各国の被害者たちの声を載せ,「民間基金」反対の意見広告を掲載した。国内外の多くの被害者団体や支援団体が名前をつらね、「民間基金」反対の声を結集する事ができた。

  高まる国内外の批判の中で,政府は被害者一人当たり民間募金の二百万円に加え医療・福祉費として三百万円を急遽出す事を決め翌年八月十五日「女性のためのアジア平和国民基金」(通称「国民基金」)の発足を強行した。あくまで国家補償は拒否し,加害者である国が被害者に支援金を渡そうというのである。さらに国家補償を拒否して首相の「お詫び」の手紙を添えるというのである。なんと厚顔無恥なことか。

  以降、熾烈な攻防の七年が経った今年の五月,日本政府が意図した「国民基金による慰安婦問題の解決」は破綻して収束を迎えることになる。被害者同士を離反させ,被害者とその国の支援団体を離反させ,本来の「償い金」であるならば誇りの回復につながるはずなのに、支援者や地域社会に隠れて、まるで悪事を働いているように受け取らねばならない「国民基金」とは一体なんであったのか。

  「国民基金」推進者たちは二つの決定的な間違いを起こした。一つは国家が犯した戦争犯罪は国家が補償するという原則を民間募金ですりかえようとしたことである。最低限守らなければならない原則を放棄した事により,被害者や支援団体を傷つけ混乱に陥れ,真の解決を遅らせる結果となった。二つめは被害者や被害国の支援団体の声を聴かず,国内の都合だけで一方的に決めた事である。台湾や韓国など国を上げて反対したにもかかわらず,引き返す事をせず強引に押し付けて行って、結果として和解ではなく不信をさらに増大させる結果をもたらした。ドイツが行った強制連行被害者への補償基金である「『和解・責任・未来』基金」は、加害者である国と企業が補償金を出し,相手国の関係者との協議を重ねて実現したからこそ、個人への補償金は必ずしも多くなくても当事者に受け入れられ,世界から評価されたのである。ドイツの国と企業が補償を拒み,国民からお金を集めようとしたら世界の物笑いになっていたであろう。

◆立法不作為を認めた下関判決

  九八年四月,山口地裁下関支部で一審判決があった。初の「慰安婦」裁判の判決とあって、百名近い報道陣、二百名を越える支援者が見守る中で、近下裁判長より「被告国に立法不作為に基づき『慰安婦』原告三名に各三〇万円の賠償を命じる。他の請求は全て棄却。」との判決要旨が読み上げられた。この時まで先行する他の戦後補償裁判の判決が全て敗訴していて、厳しい判決を覚悟していただけに,一部勝訴の報に法廷内外の支援者たちの間に喜びが広がった。しかし請求が棄却された勤労挺身隊原告たちは「アイゴー、もらっていない給料を支払えと言っているのにこの判決は何ですか」と悔しさと怒りを爆発させ,壮絶な抗議が続いた。私たち支援者は判決に賭けていた原告たちの思いとの落差に呆然としながら立ちすくんでいた。

  しかし、公式謝罪や勤労挺身隊原告の請求を棄却した事などの問題を含みながら、判決文には元「慰安婦」原告たちの被害に真正面から向き合い、最高裁判例に逆らって,日本国憲法の下で戦後責任を果たしたいとの裁判官たちの熱情があふれていた。「慰安婦」制度が徹底した女性差別,民族差別思想の現れであり,女性の人格の尊厳を根源から侵した。しかも決して過去の問題ではなく現在も被害が続いている。戦後、立法による救済を怠ったがゆえに個人の尊厳を根幹的価値に置く日本国憲法制定後五十年を経た今日まで被害者等を際限のない苦しみに陥れている。国会議員たちは九三年八月の河野官房長官談話で被害の事実を知ったのだから遅くても三年以内に賠償立法をすべきであった。期限を過ぎて二年近くがなお立法不作為の状態にあるとして,立法の遅れに対するぺナルティーとして原告各自に30万円の賠償を課し,被害そのものへの賠償は立法での解決を命じたのである。

  裁判官にとって、立法不作為の判決を書く事はたいへん勇気が要ることであった。一九八五年最高裁小法廷は国会議員の立法行為(立法不作為もふくむ)に関する従来の司法の違憲審査権を必要以上に制約し,国会議員がいかなる法律を作るか又は作らないかの責任は選挙などで政治的に問われるだけで、法的には問われない。例外は憲法の一義的な文言にあえて違反するような容易に想像できないような場合のみとし、現実の法案が法制局の審査を経て出される現在の国会では百パーセント起り得ない場合を例に上げて、司法府の立法審査権を事実上放棄してしまったのである。その結果司法消極主義がまかり通り、外国人戦争被害者などマイノリティーの人権が多数決原理の議会制民主主義の下で無視されていても、裁判官たちは「違憲の疑いがある,立法解決が望ましいなど」の弱々しい付言をするものの、立法裁量論に逃げ込み被害者の救済を放棄してきたのである。下関の裁判官たちは最高裁判例にそむき,日本国憲法の根幹的価値である人格の尊厳が著しく侵されているのにあえて放置されているような場合は国会議員の不法行為を認め,立法不作為に基づく国家賠償法の適用に道を開いたのである。最高裁が人事権を握っている現状では職を賭して書いた勇気ある判決といえるであろう。

  下関判決は日本政府の「法的に決着済み」論の真っ向からの否定であり、「国民基金」的解決を否定し、「慰安婦」賠償法の制定を国会議員たちに促した。又この後の国家賠償を求める裁判に大きな影響を与え、熊本地裁でのハンセン病訴訟での立法不作為による勝訴判決、劉蓮仁裁判,浮島丸裁判での戦後の不法を認める勝訴判決へとつながっていった。

  又下関判決は戦後補償に取り組む市民団体や国会議員たちへの大きな励ましとなった。判決文を衆参全ての国会議員に配布し、「真相究明法案」=国立国会図書館法の一部改正法案、戦時性的強制被害者問題の解決促進法案の議員立法上程を促して行った。

◆逆転敗訴の広島控訴審

  一審下関判決を国は不服とし広島高裁に控訴した。原告側も控訴し,裁判の舞台は広島に移った。勝訴判決であった関釜裁判への国内外の期待は強く、広島市、福山市、三次市に次々と支援する会が立ち上げられ、さらに韓国の市民団体にも支援が広がっていった。常に百名前後の傍聴者が見守る中で口頭弁論は進み、原告たちと支援者との交流と絆が深まっていった。

  控訴審の課題は下関判決の立法不作為を維持し,女子勤労挺身隊原告たちの被害の深刻さと戦後の継続を明らかにして原告全員の勝訴を勝ち取る事であった。

  日本国憲法九条と前文が戦争被害者への戦後補償を内在し,促していることがさらに克明に解き明かされた。さらに司法府の立法審査権の歴史的変遷を整理し,八十五年最高裁判例が従前の司法界における積極的活用の議論を不当に捻じ曲げてきた歴史とその非論理性を暴き、外国人戦争被害者が大挙して人権の回復を求めている九十年以降の現状にそぐわなくなっており,司法積極主義の復活を時代が要請していることを明らかにした。一方,精神科医による原告たちのPTSD診断を提出し、挺身隊原告も「慰安婦」原告に勝るとも劣らない心的外傷後ストレス障害(PTSD)がある事を証明した。皇民化教育による民族的アイデンティティーの喪失と併せて,挺身隊原告の被害の深刻さと継続が明らかにされた。証人尋問に挺対協の尹貞玉(ユン,ジョンオク)共同代表が立ち、「慰安婦」被害者の全貌と、体と心に刻まれた被害の深刻さを多数の実例を挙げて説明し,裁判官や傍聴者に深い印象を与えた。

  結審前から取り組みを開始した「謝罪と賠償の判決を求める日韓市民共同署名」は原告たちが先頭に立ち熱烈に取り組まれ,十六万名に近い署名が裁判所に積み上げられていった。原告たちと弁護団、日韓の支援団体が「なんとしても勝ちたい」との思いに一体となって充実した取り組みを展開してきた控訴審は判決を迎えた。

  しかしながら、二〇〇一年三月の判決当日、川波裁判長は下関判決の一部勝訴を取り消し,原告側の請求を棄却した。一分にも満たない判決主文朗読と、退廷であった。取り残された原告たちは,全面敗訴に「心臓が落ちた」(朴頭理さん)ような衝撃に突き落とされた。「裁判長,出てきて説明しなさい」「天皇陛下の為に一生懸命働いたのに,どうしてですか。」と叫びつづける挺身隊原告たち、やがてPTSDを抱える原告たちが次々に倒れていく。外に待機していた支援者たちが法廷に殺到し,原告を包み込んで抗議のシュプレヒコールが裁判所を揺るがした。

  それにしてもなんと空疎な判決文であることか。一審判決を貫いていた、原告の苦悩に正面から向き合い,救済に取り組んだ情熱と勇気が見事に欠落している。八十五年最高裁判例を鸚鵡返しに踏襲し,「憲法のどの条文にも『慰安婦』被害者や,挺身隊被害者への謝罪と賠償を明示する文章は見つからない。よって立法不作為は成立しない」という小官僚の作文であった。「人権の砦」としての司法府はその中枢で自死を遂げている事を無残にも思い知らされる判決であった。


◆最高裁への上告,そして今

  原告たちは司法での解決に深い失望を抱きながら、意地で最高裁への上告を果たした。
私たちには最高裁に期待するものはなにもない。下関判決が命じた立法解決と挺身隊原告への未払い賃金を企業に支払わせる運動に全力をあげていく。

  二〇〇〇年七月、不二越は富山で謝罪と未払い賃金の払い戻しを訴えていた挺身隊原告等七人に一人三百万円前後の解決金を出して和解した。実質的な未払い賃金への補償であり、全ての強制連行被害者への補償につながる画期的な和解であった。しかし不二越はこの和解を最後として,戦時下千名以上の朝鮮の挺身隊少女を強制労働させていたにもかかわらず、他の被害者への和解に門戸を閉じてしまった。広島の控訴審判決後、不二越の挺身隊原告三人は、「裁判には希望が持てない。会社に未払い賃金の払い戻しを求めたい」と訴えた。その後五十数名の元挺身隊被害者が名乗り出、昨年来不二越との未払い賃金払い戻しの交渉を数度にわたり試みたが、会社の鉄柵の門は硬く閉ざされたままである。現在、関釜裁判を支援する会と北陸の支援団体、強制連行企業裁判を支援する全国ネットワークの事務局の三者が一体となって,富山での第二次不二越訴訟を準備中である。裁判と並んで原告たちと共に企業を和解のテーブルに着かすためのあらゆる行動を駆使していくであろう。

  私たちの立法運動への取り組みは5年が経過した。きっかけは九七年「新しい歴史教科書をつくる会」が中学校の教科書から「慰安婦」記述の削除を求めて地方自治体での決議請願運動を開始したことへの反撃から始まった。歴史を歪曲する運動の根源を絶つため、政府が隠匿しているアジアの戦争被害者の全資料を公開させる議員立法を作るため、戦争被害調査会法を実現する市民会議を東京のメンバーとともに立ち上げた。福岡出身国会議員への協力要請、福岡県下三市五町村議会での真相究明法の成立を求める政府あて意見書の議会決議の実現,署名運動等に裁判支援闘争と平行して精力的に取り組んできた。野党三党の議員立法である国立国会図書館法の一部改正法案として結実し,先の国会でようやく国立国会図書館小委員会懇談会での趣旨説明にこぎつけた。一方、野党三党の女性議員を中心とした努力で戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法案も参議院内閣委員会で集中審議が実現した。

  福岡の支援する会は何ら組織の後ろ盾を持たない十名ほどの市民が事務局を構成している。原告たちとの出会いを重ね、彼女たちの痛みと尊厳回復への強い願いに学びながら,そしてなによりも彼女たちへのいとおしさと敬愛の念に駆られて,十年間にわたる支援運動に没頭してきた。裁判の度に原告たちと出会えることが喜びであった。最高裁に上告して、口頭弁論での原告たちとの出会いが無くなって一年半、遠い東京での立法運動や富山での訴訟準備を進めながら支援運動への求心力を維持して行く困難な局面を迎えている。しかし、原告たちが解決をあきらめず、和解の手を差し伸べている限り、わたしたちの運動は続くであろう。